第5話 期限付きの協力契約
中央暖房所は、第三水路区と貴族街の境に建っていた。
かつては町全体へ温水を送る重要な施設だったが、今では各区の小さな暖房炉に役目を譲り、管理を縮小している。冬が深まる時期だけ臨時の保温石が運び込まれ、病院や孤児院へ配分されることになっていた。
正門の前で、ミナは立ち止まった。
「ここへ来るのは初めてか」
隣に立つレオンが尋ねた。
「配給帳の数字を確認するために、外から見たことはあります。中へ入ったことはありません」
「では、私の後ろを歩け。中央監査局の臨時調査権を使う」
「後ろを歩く必要はありません」
ミナは彼の横へ並んだ。
「協力者でしょう」
レオンは返事をしなかったが、歩幅を少し緩めた。
正門の受付には、灰色の髪をした管理主任がいた。名札にはオルドとある。彼はレオンの提示した監査証を見て、慌てて姿勢を正した。
「中央から急にお見えになるとは。何か不具合でも?」
「冬至前の保温石の搬入記録を確認する」
「それなら、先に書類を用意します」
「書類ではなく、保管庫を見せてもらう」
オルドの顔から笑みが消えた。
「保管庫は整理中です。今は立ち入りを制限しておりまして」
「中央監査官に対してもか」
「そういう意味では……」
ミナは受付台の端に置かれた記録板へ目を向けた。表面には水滴がいくつも残っている。暖房所の内部は乾燥しているはずなのに、板の角だけが濡れていた。
「保管庫から運び出した荷物がありますね」
オルドの眉がわずかに動いた。
「清掃用の水です」
「清掃用なら、荷車の跡が入口へ向かうはずです。ですが、泥の線は裏口から保管庫へ続いています」
ミナが指を示すと、レオンも床を見た。
薄い泥の跡が、受付の下を通り、奥の廊下へ伸びている。車輪は細く、片側だけが深く沈んでいた。荷台の右側に重いものを積んだらしい。
「なるほど」
レオンはオルドへ視線を戻した。
「裏口を開けろ」
「しかし、鍵は主任しか持っていません」
「なら、君が開ければいい」
オルドはしばらく黙っていたが、やがて腰から鍵束を外した。金属の触れ合う音が、やけに大きく響く。
保管庫には、大小さまざまな魔法石が棚ごとに分類されていた。明かり石、浄水石、保温石。札の文字は整然としている。だが、保温石の棚だけが不自然に空いていた。
「記録上は、ここに二十四個あるはずです」
ミナが棚の札を確認した。
「現在は十個しかありません」
「八個は揚水場で見つけた」
「残り六個は、昨日の臨時配給に使いました」
オルドが即座に答えた。
「誰に配ったのですか」
「各区の暖房炉です」
「配給帳を見せてください」
オルドは渋々、机の引き出しから帳面を出した。ミナは頁をめくり、日付と数量を照らし合わせる。
記録には、確かに六個が配られたことになっていた。しかし、受け取り欄の署名は同じ筆跡で書かれている。第三水路区の共同炉、南門宿舎、北岸の施療院。異なる場所の担当者が、同じ癖のある文字を書くはずはない。
「この署名は偽造です」
ミナが告げると、オルドが声を荒らげた。
「証拠もなく人を疑うのか!」
「疑っているのではありません。文字の形を確認しています」
彼女は帳面を机へ置いた。
「『炉』の右側が、すべて同じ位置で傾いています。それに、施療院の担当者は左利きです。過去の受領書では、文字の払いが逆になっています」
レオンは帳面を取り上げ、署名を一つずつ見比べた。
「ミナの指摘どおりだ」
「あなたは筆跡まで確認できるのですか」
「監査官は数字だけを見る仕事ではない」
そう言いながら、レオンの口元にはかすかな満足が浮かんでいた。
ミナはその表情に気づいたが、何も言わず次の頁をめくった。
最後の頁には、揚水場で見つけた帳簿と同じ青い印があった。ただし、こちらの印は二重線で囲まれている。
「この囲みは、搬出先が変更された印です」
レオンが言った。
「ご存じなのですか」
「中央監査局の古い記録に、似た符号がある。正式な規則ではない。誰かが内部の慣例を利用している」
「搬出先は?」
ミナは印の横に書かれた文字を読んだ。
水路管理棟、臨時第三倉庫。
「また水路です」
「すぐに向かう」
レオンが帳簿を閉じたとき、廊下の奥で物音がした。誰かが走り去る気配だった。
二人が駆けつけると、窓が開いている。窓枠には青い粉が付着し、外の雪へ細い跡が続いていた。だが、追いかけるには遅すぎた。
レオンは窓の外を見たまま、低く言った。
「こちらの動きが知られている」
「保管庫に入る前から?」
「おそらく」
「なら、揚水場の帳簿を持ち帰ったことも」
レオンは振り返った。
「その帳簿は?」
「外套の内側です」
「今後は、証拠品を一人で持つな」
「あなたに預けろ、と?」
「二人で分けて保管する」
ミナは少し考えた。
「分かりました。ただし、保管場所は私が決めます」
「合理的だ」
その言葉を聞いて、ミナは思わず笑った。
「今、初めて意見を否定されませんでしたね」
「否定する理由がない」
レオンは懐から一枚の書類を取り出した。中央監査局の紋章が押されている。
「これを正式な協力契約にする」
ミナは紙を受け取った。
そこには、調査対象、情報共有の範囲、証拠品の扱い、そして契約期間が記されていた。
「期限は、冬至の日まで?」
「冬至の日没までだ」
「短すぎませんか」
「長く設定すれば、君を調査へ巻き込んだ責任を問われる。短ければ、目的を限定できる」
「目的は何ですか」
「魔法石の不正搬出経路を特定し、証拠を中央監査局へ提出すること」
ミナは最後の条項を読んだ。
契約終了後、両者は各自の職務へ戻り、相手の行動を拘束しない。
「ずいぶん冷たい書き方です」
「契約とは、曖昧さを減らすためのものだ」
「では、ひとつ追加してください」
ミナはペンを取り、空白へ書き込んだ。
調査中、両者は発見した情報を独占せず、互いの同意なく相手を調査から外さない。
レオンはその文をじっと見つめた。
「君は私を信用していないのか」
「信用したいから、書いておくのです。信用は、忘れないための記録にもなります」
彼はしばらく黙っていた。そして、自分の署名を記した。
「これでいい」
ミナも署名をする。
紙の上で二つの名前が並んだ。期間は冬至の日没まで。目的は、町の冬を守るための証拠を見つけること。
外では雪が強くなっていた。
「水路管理棟へ行きます」
ミナが言うと、レオンは契約書を丁寧に折った。
「その前に、何か食べろ」
「必要ありません」
「君は朝から何も食べていない」
「なぜ分かるのです」
「記録板の前で、三度腹を押さえた」
ミナは目を丸くした。
「そんなところまで見ているのですか」
「見ている」
レオンは先に歩き出した。
「期限付きの契約相手を、途中で倒れさせるわけにはいかない」
素っ気ない言葉だった。それでもミナは、外套の内側にある帳簿と、胸元にしまった契約書を確かめた。
冬至の日没まで。
残された時間は、決して長くない。
けれど今度は、一人で追うのではない。隣には、同じ証拠を見つめる相手がいる。
二人は雪の降る通りへ出た。水路管理棟へ続く道の先で、青い粉が新たに撒かれていた。誰かが、次の場所へ二人を誘うように。




