第4話 帳簿の端に残る青い印
南の揚水場へ向かう道は、第三水路区の賑わいから外れるにつれて、次第に人の気配が薄くなった。
水路都市リュネでは、道の下にも道がある。地上の石畳を縫うように水路が走り、さらにその下を古い排水管が通っている。揚水場は、その複雑な流れを調整するために建てられた施設だったが、十年前の崩落以来、使われていないことになっていた。
「使われていない場所にしては、足跡が多いですね」
ミナはぬかるんだ土を見下ろした。水路沿いの草は濡れて倒れ、石段の前だけが不自然に乾いている。誰かが何度も通っている証拠だった。
「君は足跡まで帳面に書くのか」
レオンが言った。
「必要なら。記録に残せないものほど、後で役に立ちます」
「では、右側に三人分。靴底の幅から、荷を運んだ者が二人。もう一人は見張り役だ」
ミナは彼を見た。
「あなたも見ていたのですか」
「見ている」
「私が先に気づいたような顔をしていました」
「君が先に口にしただけだ」
揚水場の入口には、錆びた鎖がかけられていた。だが、鎖は錠前に通されているだけで、扉そのものは閉じていない。レオンが手を伸ばすと、ミナはその腕をつかんだ。
「待ってください」
扉の隙間から、かすかに青い光が漏れていた。
魔法石の光だ。
ミナはしゃがみ込み、石畳の上を指でなぞった。薄い青い粉が、入口から建物の奥へ続いている。保温石を運んだ際にこぼれた魔力の粉末だった。
「中にあります」
「分かっている」
「なら、なぜ入らないのです」
「罠の可能性がある」
「それを確かめるために来たのでしょう」
レオンは短く息を吐いた。
「君は危険を怖がらないのか」
「怖がります。ただ、怖いからといって見なかったことにはできません」
その言葉に、レオンは答えなかった。代わりに腰の短剣を抜き、扉をゆっくり押し開けた。
内部は、湿った石の匂いがした。かつて水をくみ上げていた巨大な歯車が壁際に並び、その隙間に木箱が積まれている。箱の側面には、三本の銀線が描かれていた。
レオンが先に進み、ひとつの箱の蓋を外す。
中には保温石が八個、濃紺の布に包まれて収められていた。
「数が合いません」
ミナは箱の周囲を見回した。
「倉庫から消えたのは十六個です。ここにあるのは八個だけ」
「残りは別の場所へ移されたか、すでに運び出された」
「帳簿では四箱分。実際には十六個。ここに八個。では、もう八個は?」
ミナは木箱の底に手を置いた。乾いた木の感触に混じり、冷たい金属が指先に触れた。底板の端に、小さな青い印が押されている。
円の中に、斜めの線が一本。
見覚えがあった。配給課の帳面で、消された欄の端に残っていた印と同じだった。
「レオン、これを」
彼は灯りを近づけた。
「検査済みの印ではない」
「では何ですか」
「中央監査局の正式な印章に似ているが、線の角度が違う。偽造印だ」
ミナは胸の奥が冷えるのを感じた。
「誰かが、監査局の名を使っている」
「あるいは、監査局の内側に協力者がいる」
そのとき、奥の通路から小さな音がした。金属が石に触れた音だ。
レオンはミナの前に立った。
「そこにいる者、出てこい」
返事はない。
レオンが一歩進むと、暗がりから石が投げられた。彼は身をひねって避けたが、石は背後の壁に当たり、青い火花を散らした。
「走ります!」
ミナは反射的に叫んだ。床に細い線が浮かび上がっていた。魔力を流すための導線だ。先ほどの石は、その線に触れて起動させるためのものだった。
レオンがミナの腕を引く。二人が横へ飛び退いた直後、足元の床が大きく沈み、古い水路から濁流が噴き出した。
「右の階段へ!」
ミナは歯車の配置を思い出していた。入口から見た水路の傾き、壁に残る水垢の高さ。水は必ず低い方へ流れる。
レオンは迷わず彼女の指示に従った。二人が階段を駆け上がると、濁流がさっきまで立っていた場所を覆った。
暗がりから、布で顔を隠した男が現れた。男は木箱をひとつ抱え、反対側の通路へ走っていく。
「止まりなさい!」
ミナが追おうとしたとき、レオンが肩をつかんだ。
「待て。足場が崩れる」
「逃げます」
「箱を捨てるか、命を捨てるかだ」
男は通路の先で振り返った。袖口に、銀線が三本見えた。その手から箱が落ち、蓋が開く。中にあった保温石がひとつ、濁流へ転がった。
男はそのまま暗闇へ消えた。
ミナは悔しさをこらえながら、床に残された箱へ近づいた。中には紙束と、折りたたまれた帳簿が入っている。
帳簿の表紙には、何の印もなかった。だが、最後の頁をめくると、端に青い印が押されていた。
日付、数量、送り先。
そこには、配給課から持ち出された保温石の記録が並んでいる。送り先の欄に書かれていたのは、王都でも、貴族街でもなかった。
リュネ中央暖房所。
「暖房所へ運んでいた?」
ミナは思わず声を漏らした。
「表向きはな」
レオンが帳簿をのぞき込む。
「数量が多すぎる。暖房所へ納めたことにして、実際には別の場所へ流している」
「では、この帳簿は偽物ですか」
「違う。偽物なら、こんなに細かな水路使用料まで記録しない」
ミナは頁の端を指で押さえた。青い印のそばに、極小さな文字がある。
第三水路区、冬至前。
「これは予定表です」
レオンの視線が鋭くなった。
「冬至前に、さらに大きな搬出がある」
「何を、どこへ?」
その問いに答えるように、遠くで鐘が鳴った。午前の十時を知らせる鐘だった。
帳簿の最終頁には、まだ空欄がひとつ残されている。送り先の欄だけが、何度も書き直された跡を見せていた。
ミナは青い印を見つめた。
誰かは証拠を隠している。けれど、完全に消すことはできなかった。帳簿の端に残った小さな印が、次の流れを指し示している。
「持ち帰ります」
「証拠品として押収する」
「いいえ」
ミナは帳簿を胸に抱えた。
「これは、私が見つけた記録です。あなた一人の証拠にはしません。二人で確認し、二人で守ります」
レオンは黙って彼女を見た。
やがて、静かにうなずく。
「分かった。契約どおりにする」
「契約がなくても、同じことを言ってください」
レオンの目が、わずかに揺れた。
「それは、調査が終わってから考える」
揚水場を出るころには、空から細かな雪が落ち始めていた。
ミナは帳簿を外套の内側へしまい、雪の向こうに伸びる水路を見た。流れは見えない場所で枝分かれし、町の暮らしを支える一方で、誰かの欲望にも道を貸している。
次に追うべき場所は、中央暖房所だった。
そこには、消えた八個の保温石と、冬至前に予定された大規模な搬出の答えがあるはずだった。




