第3話 水路番と消えた荷札
翌朝、第三水路区の空は、薄い鉛色をしていた。
ミナは配給課へ向かう前に、昨夜の搬入口へ足を運んだ。水門番の詰所は、倉庫裏の細い水路に面している。古びた木造の小屋から、湯気と咳払いが聞こえた。
「朝から帳面を持った役人とは、珍しいな」
声をかけてきたのは、白髪交じりの男だった。厚い外套の肩に、水路番を示す青い糸の腕章をつけている。
「配給課のミナです。昨夜、この搬入口から舟が出ましたか」
「舟なら、毎晩何艘も出る」
「青い封蝋の箱を積んだ舟は?」
男の目が、ほんの一瞬だけ水路へ向いた。
「さあな。夜は灯りが少ない」
「水路番なら、舟の出入りを記録するはずです」
「記録するのは、水門の開閉と水位だ。積み荷までは見ない」
男はそっけなく答えたが、机の端に置かれた記録板には、昨夜の水門操作が細かく刻まれていた。ミナは記録板を指で示した。
「ここ、二刻目の水位が急に上がっています。予定外の開門ではありませんか」
「上流の水路が詰まった。流れを逃がしただけだ」
「詰まりの報告は?」
「まだしていない」
「なぜです」
「報告したら、上流の商家が罰を受ける。水路に荷を落としたくらいで、店を止められたら困るだろう」
男の言葉には、役所への不信がにじんでいた。ミナは問い詰めるのをやめた。
「お名前を教えてください」
「トーヴァンだ。三十年、水路を見ている」
「昨夜、青い封蝋の箱を見たかどうかだけ、正直に答えてください」
トーヴァンは長い沈黙のあと、机の引き出しから濡れた紙片を取り出した。
「舟の荷札だ。水に落ちて流れてきた」
紙片には、出荷番号の一部が残っていた。濃紺の布に包まれた箱と同じ、三本の銀線の印。しかし、宛先の欄は破り取られている。
「拾ったなら、なぜ記録に残さなかったのですか」
「残せば、誰が流したか調べられる。調べれば、私が見ていたことも分かる」
「見ていたのですね」
「見た。だが、見なかったことにした」
トーヴァンは荷札をミナへ渡した。
「舟は一艘だった。漕ぎ手は二人。顔は布で隠していた。荷を積んだのは、レグナール商会の印をつけた男だ」
「商会の者だと、どうして分かったのです」
「制服の袖に銀線があった。商会の紋章は、箱だけにつけるものじゃない」
ミナは荷札を折り、帳面に挟んだ。
「舟はどこへ向かいましたか」
「南の排水路だ。だが、あそこから先は水路番の管轄外だ」
「南の排水路には、何があるのです」
「古い貯蔵所と、使われていない揚水場。今は閉鎖されている」
そのとき、背後から靴音が近づいた。
「ミナ」
レオンだった。朝の冷気をまとい、いつもの無表情で詰所の入口に立っている。彼はトーヴァンと荷札を見比べた。
「話は聞いた」
「盗み聞きですか」
「扉が開いていた」
「便利な耳ですね」
レオンは返事をせず、荷札を受け取った。残った文字を確認すると、眉をわずかに寄せる。
「宛先は南の揚水場だ」
「分かるのですか」
「出荷番号の末尾が、通常の配給先ではない。貴族商会が私有する一時保管所の番号だ」
トーヴァンが椅子から立ち上がった。
「揚水場へ行くつもりか。あそこは水路が崩れかけている」
「危険なら、なおさら調べる必要がある」
「監査官は、崩れた石垣の下で規則を読むのか」
「必要なら読む」
ミナは二人の間に視線を巡らせた。
「レオン、先に配給課へ寄るべきです」
「なぜだ」
「今朝の帳面を確認します。昨夜の搬出が記録から消されているなら、誰かがすでに動いている」
レオンは少し考えた。
「南へ行くのはその後だ」
「私も行きます」
「君は配給課に残れ」
「契約の条件を忘れましたか。調査の進み具合を共有する。私だけ置いていくのは共有とは言いません」
「揚水場は危険だ」
「配給課の倉庫も十分危険でした」
レオンは困ったように目を細めた。その表情を見て、ミナは初めて、彼にも押し切られることがあるのだと知った。
「分かった。ただし、私の指示に従うこと」
「あなたの指示が正しいときは」
「君は本当に融通が利かないな」
「それは、そちらの台詞です」
詰所を出る前に、ミナはトーヴァンへ向き直った。
「荷札は預かります。あなたが見たことも、証拠として記録します」
「私まで巻き込むつもりか」
「巻き込むのではありません。あなたが守った記録を、勝手に消させないだけです」
トーヴァンは苦い顔をしたが、やがて小さくうなずいた。
配給課へ戻ると、朝番の帳面はすでに机へ置かれていた。ミナは頁をめくり、昨夜の入出庫記録を探した。
第三水路区、保温石四箱。
記載はそれだけだった。倉庫で見た十六個の石が、まるで最初から四箱分しか存在しなかったように書き換えられている。
ミナは紙の端を撫でた。新しい紙を継ぎ足した跡。だが、今度は繊維の違いを隠すため、全体に薄い油が塗られている。
「見つけたか」
隣からレオンの声がした。
「はい。ただし、書き換えられたのは入庫数だけではありません」
ミナは頁の下部を指差した。
「荷札番号の欄が、きれいに空白になっています」
レオンは荷札を帳面の上へ置いた。
破れた紙片の末尾と、空白の欄。その二つを重ねると、隠された番号がぴたりとつながった。
レオンの顔から、わずかな色が引いた。
「この番号は、明日の中央便に割り当てられている」
「中央便?」
「王都へ送られる、監査用の魔法資源だ」
「では、盗まれた保温石は南の揚水場から王都へ運ばれる?」
「おそらくな」
ミナは帳面を閉じた。
「明日までに止めます」
レオンは荷札を握りしめた。
「その前に、揚水場で現物を押さえる」
窓の外で、水路の流れが低く唸った。
街の冬を支えるはずの魔法石は、誰にも知られない水の道を通り、暮らしから少しずつ消えていた。ミナはその流れを見つめながら、昨夜の舟が曲がった暗い角を思い出した。
見えない場所で起きていることを、記録だけで追えるとは限らない。
ならば今度は、自分の目で確かめるしかなかった。




