第2話 監査官からの奇妙な提案
倉庫の扉は、夜の水路よりも冷たかった。
ミナは腕を組み、隣に立つレオンを見上げた。中央監査官の青年は、月明かりに照らされた錠前を黙って観察している。倉庫番が持つ鍵を借りるのかと思っていたが、彼はさきほどから一度も扉を叩こうとしない。
「開けないのですか」
「開ければ、見張りに気づかれる」
「ここは配給課の倉庫でしょう。見張りがいること自体、問題では?」
「問題だから、気づかれたくない」
レオンは懐から薄い金属板を取り出した。表面に刻まれた細かな文様が、青白く光る。彼が板を錠前へ近づけると、かちり、と小さな音がした。
鍵が回った。
ミナは思わず目を瞬いた。
「監査官が使っていい道具なのですか」
「緊急監査用の開錠具だ。規則にある」
「規則にあるなら、先に見せてください」
「君は本当に細かいな」
「細かくなければ、配給帳の数字は見落とします」
レオンは返事をせず、扉をわずかに開けた。冷気とともに、乾いた石の匂いが流れ出してくる。
倉庫の中には、昼間見た木箱が整然と積まれていた。棚ごとに地区名が貼られ、保温石、水質浄化石、灯火石が分類されている。配置だけを見れば、乱れはなかった。
ミナは持参した小型灯を掲げ、棚の間を進んだ。
「第三水路区の保温石は、こちらです」
帳面に記された数と箱の数を照合する。先月分の入庫は十二箱。今月分は八箱。いずれも封蝋に傷はない。
「数は合っています」
「帳面と現物が、今はな」
「今は?」
レオンは棚の奥を指した。
床に薄い砂が落ちている。倉庫の床は石張りで、砂が入り込む場所は限られていた。ミナはしゃがみ込み、指先で砂をすくった。
「水路沿いの砂です。ここ数日、雨は降っていません」
「倉庫の裏手には、水門へ続く搬入口がある」
「しかし、搬入口は封鎖中のはずです」
二人は奥へ回った。木箱の陰に、幅の狭い扉が隠れている。扉には古い封印紙が貼られていたが、紙の端がわずかに浮いていた。
ミナは小型灯を近づけた。
「剥がされたあと、貼り直されています」
「君は封印紙まで見分けられるのか」
「紙の繊維が違います。正規のものは水分を含んでも波打ちません。これは乾かした紙です」
レオンは封印に触れず、扉の下を見た。
砂の上に、半月形の跡が残っている。何か重い荷を引きずった痕跡だった。
「箱をここから運び出した」
「荷車ではなく、舟へ積んだのでしょう。搬入口の先は水路です」
「なら、昼間の荷車は囮だった可能性がある」
ミナは顔を上げた。
「それなら、あの箱の中身は?」
「確かめる」
レオンは棚の一番下から、封蝋の色がわずかに違う箱を引き出した。表面には第三水路区の印がある。しかし、封蝋の銀線が一本だけ欠けていた。
ミナがナイフを取り出そうとすると、レオンが手を止めた。
「待て。開ける前に聞きたい」
「何をですか」
「君は、今後もこの調査を続けるつもりか」
唐突な質問だった。
「契約書には三十日間とあります。続けるも何も、もう始まっています」
「契約を破棄することもできる。君の名前に傷がつく前に、通常の監査へ戻る道もある」
「それを勧めているのですか」
「勧めているわけではない」
「では、なぜ聞くのです」
レオンは箱から視線を外した。灰色の目に、初めて迷いらしいものが浮かんだ。
「私は、君を囮にしたい」
ミナはしばらく黙った。
「ずいぶん正直ですね」
「下手に隠せば、君は後から気づく」
「その通りです」
レオンは懐から、もう一枚の書類を取り出した。
「明日から、君には配給課の記録をこれまで通り確認してもらう。ただし、帳面の不自然な箇所を見つけたら、誰にも報告せず、私にだけ伝える」
「それが囮ですか」
「改ざんを行っている者は、帳面を見ている人間を把握している。君が今まで通り動けば、次に消される記録が分かる」
「消される前に、私が狙われるかもしれません」
「その可能性がある」
ミナは呆れたように息を吐いた。
「危険を説明したうえで、私に引き受けろと?」
「引き受けるかどうかは君が決める」
「あなたは、私が断ると思っていますか」
「思っていない」
「なぜです」
「君は、記録の続きを探すと言った。あの場で署名したときの顔を覚えている」
ミナは返す言葉を失った。
倉庫の外で、水の流れる音がした。見えない水路の中を、夜の流れが静かに進んでいる。
「条件をつけます」
「聞こう」
「私を囮にするなら、何も知らされないままにはしないこと。調査の進み具合を共有すること。それから、私の職場で勝手に人を疑わないこと」
「最後の条件は難しい」
「疑うのは構いません。ただし、証拠のない噂で誰かの生活を壊さないでください」
レオンはミナを見た。
「君は、改ざんした者も守るのか」
「証拠が出るまでは、誰も犯人ではありません」
しばらくして、レオンは小さくうなずいた。
「分かった。条件を受け入れる」
「本当に?」
「奇妙な提案をしたのは私だ。条件をつける権利くらい、君にはある」
ミナは箱の封蝋へナイフを入れた。乾いた音とともに蓋が開く。
中には、保温石が十六個しか入っていなかった。
残りの四個分の空間には、濃紺の布が詰められている。布を取り出すと、底板に小さな刻印が現れた。三本の銀線を束ねた紋章。その下に、王都の商会だけが使う出荷番号が刻まれている。
ミナは番号を帳面へ書き写した。
「レグナール家の商会です」
「やはりか」
レオンの声が低くなる。
「知っていたのですか」
「疑っていた。確かめたかった」
「私を使って?」
「君の目でしか見つけられないものがある」
その言葉は、褒めているようにも、利用しているようにも聞こえた。
ミナは刻印から目を離さなかった。
「では、レオン監査官。私の目を使うなら、見えたものを最後まで記録してください」
「約束する」
倉庫の外で、遠くの水門が開いた。夜の水が一斉に流れ込み、石造りの街を低く震わせる。
その音に紛れて、裏手の水路から舟を漕ぐ音が聞こえた。
二人が振り返ると、暗闇の向こうで、青い封蝋の箱がひとつだけ月明かりを反射した。
舟はすぐに角を曲がり、姿を消した。




