↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水路都市の記録係は、期限付きの契約から本当の恋を始めます  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/20

第2話 監査官からの奇妙な提案

 倉庫の扉は、夜の水路よりも冷たかった。


 ミナは腕を組み、隣に立つレオンを見上げた。中央監査官の青年は、月明かりに照らされた錠前を黙って観察している。倉庫番が持つ鍵を借りるのかと思っていたが、彼はさきほどから一度も扉を叩こうとしない。


「開けないのですか」


「開ければ、見張りに気づかれる」


「ここは配給課の倉庫でしょう。見張りがいること自体、問題では?」


「問題だから、気づかれたくない」


 レオンは懐から薄い金属板を取り出した。表面に刻まれた細かな文様が、青白く光る。彼が板を錠前へ近づけると、かちり、と小さな音がした。


 鍵が回った。


 ミナは思わず目を瞬いた。


「監査官が使っていい道具なのですか」


「緊急監査用の開錠具だ。規則にある」


「規則にあるなら、先に見せてください」


「君は本当に細かいな」


「細かくなければ、配給帳の数字は見落とします」


 レオンは返事をせず、扉をわずかに開けた。冷気とともに、乾いた石の匂いが流れ出してくる。


 倉庫の中には、昼間見た木箱が整然と積まれていた。棚ごとに地区名が貼られ、保温石、水質浄化石、灯火石が分類されている。配置だけを見れば、乱れはなかった。


 ミナは持参した小型灯を掲げ、棚の間を進んだ。


「第三水路区の保温石は、こちらです」


 帳面に記された数と箱の数を照合する。先月分の入庫は十二箱。今月分は八箱。いずれも封蝋に傷はない。


「数は合っています」


「帳面と現物が、今はな」


「今は?」


 レオンは棚の奥を指した。


 床に薄い砂が落ちている。倉庫の床は石張りで、砂が入り込む場所は限られていた。ミナはしゃがみ込み、指先で砂をすくった。


「水路沿いの砂です。ここ数日、雨は降っていません」


「倉庫の裏手には、水門へ続く搬入口がある」


「しかし、搬入口は封鎖中のはずです」


 二人は奥へ回った。木箱の陰に、幅の狭い扉が隠れている。扉には古い封印紙が貼られていたが、紙の端がわずかに浮いていた。


 ミナは小型灯を近づけた。


「剥がされたあと、貼り直されています」


「君は封印紙まで見分けられるのか」


「紙の繊維が違います。正規のものは水分を含んでも波打ちません。これは乾かした紙です」


 レオンは封印に触れず、扉の下を見た。


 砂の上に、半月形の跡が残っている。何か重い荷を引きずった痕跡だった。


「箱をここから運び出した」


「荷車ではなく、舟へ積んだのでしょう。搬入口の先は水路です」


「なら、昼間の荷車は囮だった可能性がある」


 ミナは顔を上げた。


「それなら、あの箱の中身は?」


「確かめる」


 レオンは棚の一番下から、封蝋の色がわずかに違う箱を引き出した。表面には第三水路区の印がある。しかし、封蝋の銀線が一本だけ欠けていた。


 ミナがナイフを取り出そうとすると、レオンが手を止めた。


「待て。開ける前に聞きたい」


「何をですか」


「君は、今後もこの調査を続けるつもりか」


 唐突な質問だった。


「契約書には三十日間とあります。続けるも何も、もう始まっています」


「契約を破棄することもできる。君の名前に傷がつく前に、通常の監査へ戻る道もある」


「それを勧めているのですか」


「勧めているわけではない」


「では、なぜ聞くのです」


 レオンは箱から視線を外した。灰色の目に、初めて迷いらしいものが浮かんだ。


「私は、君を囮にしたい」


 ミナはしばらく黙った。


「ずいぶん正直ですね」


「下手に隠せば、君は後から気づく」


「その通りです」


 レオンは懐から、もう一枚の書類を取り出した。


「明日から、君には配給課の記録をこれまで通り確認してもらう。ただし、帳面の不自然な箇所を見つけたら、誰にも報告せず、私にだけ伝える」


「それが囮ですか」


「改ざんを行っている者は、帳面を見ている人間を把握している。君が今まで通り動けば、次に消される記録が分かる」


「消される前に、私が狙われるかもしれません」


「その可能性がある」


 ミナは呆れたように息を吐いた。


「危険を説明したうえで、私に引き受けろと?」


「引き受けるかどうかは君が決める」


「あなたは、私が断ると思っていますか」


「思っていない」


「なぜです」


「君は、記録の続きを探すと言った。あの場で署名したときの顔を覚えている」


 ミナは返す言葉を失った。


 倉庫の外で、水の流れる音がした。見えない水路の中を、夜の流れが静かに進んでいる。


「条件をつけます」


「聞こう」


「私を囮にするなら、何も知らされないままにはしないこと。調査の進み具合を共有すること。それから、私の職場で勝手に人を疑わないこと」


「最後の条件は難しい」


「疑うのは構いません。ただし、証拠のない噂で誰かの生活を壊さないでください」


 レオンはミナを見た。


「君は、改ざんした者も守るのか」


「証拠が出るまでは、誰も犯人ではありません」


 しばらくして、レオンは小さくうなずいた。


「分かった。条件を受け入れる」


「本当に?」


「奇妙な提案をしたのは私だ。条件をつける権利くらい、君にはある」


 ミナは箱の封蝋へナイフを入れた。乾いた音とともに蓋が開く。


 中には、保温石が十六個しか入っていなかった。


 残りの四個分の空間には、濃紺の布が詰められている。布を取り出すと、底板に小さな刻印が現れた。三本の銀線を束ねた紋章。その下に、王都の商会だけが使う出荷番号が刻まれている。


 ミナは番号を帳面へ書き写した。


「レグナール家の商会です」


「やはりか」


 レオンの声が低くなる。


「知っていたのですか」


「疑っていた。確かめたかった」


「私を使って?」


「君の目でしか見つけられないものがある」


 その言葉は、褒めているようにも、利用しているようにも聞こえた。


 ミナは刻印から目を離さなかった。


「では、レオン監査官。私の目を使うなら、見えたものを最後まで記録してください」


「約束する」


 倉庫の外で、遠くの水門が開いた。夜の水が一斉に流れ込み、石造りの街を低く震わせる。


 その音に紛れて、裏手の水路から舟を漕ぐ音が聞こえた。


 二人が振り返ると、暗闇の向こうで、青い封蝋の箱がひとつだけ月明かりを反射した。


 舟はすぐに角を曲がり、姿を消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。