第1話 配給帳にない魔法石
水路都市リュネの朝は、鐘の音ではなく、水門の開く音で始まる。
石造りの街を縦横に走る水路へ、山から引かれた冷たい水が流れ込む。舟を操る商人たちが掛け声を交わし、橋の上ではパン屋が窯の火を起こす。そのどれもが、魔法石の小さな光に支えられていた。
火を長く保つ石。水を濁らせない石。凍った扉を温める石。
暮らしに使われる魔法石は、王都から届く配給品だ。誰がどれだけ受け取り、どの地区へ渡ったかは、すべて記録される。少なくとも、ミナが勤める資源配給課では、そういう決まりになっていた。
「第三水路区、冬用保温石、二百四十個」
ミナは帳面に記された数字を読み上げ、隣の棚に積まれた木箱を数えた。
一、二、三……。
箱の側面には、青い封蝋が押されている。配給課の印だ。木箱一つにつき、魔法石は二十個。十二箱なら二百四十個になる。
数は合っていた。
だが、ミナは帳面の端に残る薄い跡へ目を止めた。
紙の繊維が、そこだけ毛羽立っている。上から別の文字を書き直した跡だった。
「主任、この欄の数字ですが」
声をかけると、机の向こうで帳面を整理していた主任が顔を上げた。
「また何か見つけたのかね、ミナ」
「第三水路区の先月分です。受領数が二百個だったはずなのに、現在は二百四十個になっています」
「それは追加配給だろう。寒波が来る前に、いくつかの区へ増量したと聞いている」
「追加配給の決裁印がありません」
ミナは指先で印の欄を示した。通常なら、配給課長と財務局の二つの印が並ぶ。だがそこには、課長の印だけがあった。
「財務局の確認は、あとから届くこともある」
「では、追加された四十個はどこから?」
「王都の予備倉庫だろう」
「予備倉庫からの搬出記録がありません」
主任は露骨に眉をひそめた。
「ミナ。帳面の不備を探すのが君の仕事なのは分かっている。しかし、すべてを疑っていては、日が暮れても仕事が終わらない」
「疑っているのではありません。記録がつながっていないだけです」
ミナは静かに答えた。
配給帳は、街の暮らしを映す鏡だ。数字が一つ違えば、どこかの家で火が消える。誰かが寒さに耐え、誰かが水を汲めなくなる。帳面の間違いは、紙の上だけの問題ではない。
主任はため息をつき、手を振った。
「その件は保留だ。今日は運河西区の検品がある。そちらを優先しなさい」
「承知しました」
ミナは帳面を閉じた。
けれど、胸の中には数字が残った。二百四十。二百。差し引き四十。
昼休み、ミナは配給課の裏手にある小さな窓から外を見た。水路を挟んだ向かいの倉庫に、見慣れない荷車が止まっている。荷台には商会の紋章が描かれていた。三本の銀線を束ねた、貴族商会レグナール家の印。
作業員が木箱を運び出している。
箱の側面に、青い封蝋が見えた。
ミナは窓を離れ、外へ出た。だが倉庫へ向かう橋の途中で、荷車は水路沿いの細道へ曲がってしまう。追いかけようとしたとき、背後から低い声がした。
「勤務中に、ずいぶん熱心な散歩だな」
振り返ると、黒い外套を着た青年が立っていた。襟元には中央監査局の銀章。年は二十代半ばほどで、淡い灰色の目が、ミナの持つ帳面を見ている。
「中央監査局の者ですか」
「レオン・アルヴェイン。配給記録の臨時監査に来た」
差し出された身分証には、王都の刻印があった。
「あなたが、今の荷車を見ていましたね」
「見ていました。あれは配給課の荷物です」
「行き先は?」
「分かりません」
「それでも追うつもりだった」
「記録にない移動ですから」
レオンは、ほんのわずかに目を細めた。
「記録にないことを、どうして配給課の荷物だと?」
「封蝋の色と刻印です。第三水路区向けの保温石に使われるものと同じでした。ただし、今日の搬出予定にはありません」
「よく見ている」
「見るのが仕事です」
「なら、私と来い」
あまりに簡単に言われ、ミナは眉を寄せた。
「中央監査官が、下級官吏に協力を求めるのですか」
「求めるのではない。必要だから頼んでいる」
レオンは帳面の該当箇所を指した。
「この数字を書き換えたのは君だと思われている」
ミナの指が止まる。
「……私を疑っているのですか」
「疑っているから、話をしている。だが、君が改ざんを見つけた最初の人間でもある」
冷たい言い方だった。けれど、その目には決めつけた者の色がなかった。
「調査に協力すれば、私の身の潔白を証明できますか」
「証明するのは君自身だ。私は証拠を探す」
「では、協力の条件を提示してください」
レオンは少し驚いたように黙り、それから懐から一枚の書類を取り出した。
「期限付きの協力契約だ。三十日間、配給課の内部記録と現場確認について、私の指示に従う。その代わり、君が不利益を受けないよう監査局の保護対象にする」
「保護、ですか」
「妨害がある可能性が高い」
ミナは書類を受け取った。
風が水路から吹き上げ、紙の端を揺らした。遠くで、荷車の車輪が石畳を叩く音がする。青い封蝋の箱を積んだ荷車は、もう見えない。
「三十日後、何が分かるのでしょう」
「魔法石がどこから来て、どこへ消えたのか」
レオンの声は、まっすぐだった。
ミナは契約書に目を落とす。紙の上の文字は、配給帳よりも鮮明だった。けれど、その先にあるものは、まだ誰にも記録されていない。
彼女は筆を取り出し、署名欄へ自分の名を書いた。
「分かりました。私は、記録の続きを探します」
レオンは署名を確認し、契約書を閉じた。
「それならまず、今夜の倉庫番を調べる」
「今夜ですか?」
「魔法石は、昼間だけ消えるわけではない」
水路の向こうで、冬を知らせる風鈴が鳴った。
リュネの街には、まだ十分な火がある。けれど配給帳にない四十個の魔法石が、どこかで誰かの冬を奪っているのなら、ミナは見なかったことにはできなかった。
その夜、彼女は初めて、中央監査官レオンと並んで、閉ざされた倉庫の扉の前に立った。




