第19話 契約終了の日の告白
公開審査の朝、リュネの空は薄い雲に覆われていた。
大広間の前には、いつもより多くの人が集まっている。北区画の住民、配給所の職員、水門を管理する職人たち。それぞれが不安と期待を抱え、開かれる扉を見つめていた。
ミナは胸元の帳票を確かめた。焼け焦げた紙片は、端が黒く崩れている。それでも、搬出先と数量、そして副局長ヴァルターの名は読めた。
「手が冷たいな」
隣に立つレオンが言った。
「緊張しているだけです」
「そうは見えない」
「では、何に見えますか」
「怒っている」
ミナは少しだけ目を見開き、それから静かに息を吐いた。
「怒っています。町の暮らしを数字の隙間に隠して、誰にも分からないと思っていたことに」
「私も同じだ」
レオンは大広間の扉へ視線を向けた。
「中央監査官として、もっと早く気づくべきだった」
「レオンは、気づくために来たんでしょう」
「契約書には、調査の補助と記録の確認としか書かれていない」
「なら、契約以上のことをしたんです」
レオンは答えず、代わりにミナの手元へ視線を落とした。二人の間に交わされた契約の期限は、今日の審査終了までだった。すべてが終われば、彼は中央へ戻り、ミナは配給局の記録室へ戻る。
その事実を思うと、胸の奥に小さな空洞が生まれる。
やがて鐘が鳴り、大広間の扉が開いた。
審査官たちが壇上に並び、中央には副局長ヴァルターが立った。彼はいつもと変わらぬ整った服装で、穏やかな笑みさえ浮かべている。
「本日の議題は、配給記録の不備についてです」
審査官が読み上げる。
「ミナ記録官、前へ」
ミナは一歩進み出た。
背中に幾つもの視線を感じる。けれど、怖くはなかった。配給を待つ人々の顔を知っている。帳面の数字の向こうに、火の消えた家、水を分け合う子ども、夜明けまで灯りを守った職人がいることを知っている。
「私は、配給量が帳簿上だけ増えていることを確認しました」
彼女は三冊の帳面を示した。
「北区画の配給所控え、中央倉庫の受払記録、そして水門管理の作業日誌です。三つを照合すると、月末ごとに配給用魔法石が不足しています」
ヴァルターが口を挟んだ。
「記録官の推測にすぎません。配給所での計量違い、あるいは住民側の申告漏れでしょう」
「それなら、倉庫の資材番号まで一致する説明が必要です」
ミナは次の紙を掲げた。
「配給石は水門管理用の資材として処理され、夜間に北水門から東岸へ運ばれています。作業記録に残る人数では、同日に三か所の作業を行うことはできません。ひとつの命令書が複製されていました」
大広間がざわめいた。
レオンが証拠書類を審査官へ渡す。続いて、水門職人の一人が証言台へ呼ばれた。
「署名は私のものです。しかし、東岸の作業には行っていません。署名をした日は、北水門の修繕にかかりきりでした」
「なぜ、署名を使われたと分かるのですか」
「私は左手で署名する癖があります。記録の署名は右手で書いた形になっている」
別の職員も証言した。夜間、小水門を開ける命令を受けたこと。運ばれた箱には、水門資材とは異なる刻印があったこと。そして、箱を受け取った荷船が商会の私有倉庫へ向かったこと。
最後に、ミナは焼け焦げた帳票を差し出した。
「これは昨夜、東岸の記録庫で焼却されようとしていたものです。搬出先、数量、そして承認者の名前が残っています」
審査官が帳票を読み上げた。
「中央配給局副局長、ヴァルター」
ヴァルターの笑みが消えた。
「偽物です。そんな帳票は見たことがない」
「では、なぜ記録庫を封鎖し、焼却したのですか」
レオンが尋ねた。
「私は関与していない」
「封鎖を命じた許可証は偽造でした。ですが、封鎖を実行した男たちは、あなたの秘書から指示を受けたと証言しています」
レオンの声は冷静だった。けれど、ミナには分かった。その冷静さの奥に、強い怒りがある。
審査は長く続いた。商会の取引記録、船の入港日、水門の開閉時刻。ばらばらだった数字が一つずつ並べられ、横流しの道を明らかにしていく。
夕方、審査官長が立ち上がった。
「副局長ヴァルターおよび関係者について、職務停止と正式な捜査を命じる。配給用魔法石は直ちに回収し、北区画への不足分を優先して配分する。また、記録改ざんを監査する新部署を設置する」
大広間の外から、安堵の声が上がった。
ミナは肩の力を抜いた。終わったのだ。少なくとも、町の灯りを奪っていた仕組みは止まる。
「ミナ記録官」
審査官長が続けた。
「新部署の責任者を、あなたに任せたい。生活魔法配給監査室の設立にあたり、記録と現場の双方を理解する者が必要だ」
ミナは息をのんだ。
「私に、務まるでしょうか」
「務まるかどうかを、数字だけで判断しない者だからこそ任せる」
拍手が起きた。水門職人も、配給所の職員も、見覚えのある住民たちも手を叩いている。
その音を聞きながら、ミナは隣のレオンを見た。
彼は微笑んでいた。
大広間を出ると、夜の水路に新しい灯りが浮かんでいた。回収された魔法石が、順番に配給所へ運ばれているのだろう。水面に揺れる光は、以前より少しだけ強く見えた。
「これで契約は終了ですね」
ミナが言うと、レオンは足を止めた。
「ああ。今日で終わる」
いつもなら簡潔に答える彼が、なかなか歩き出さない。
「中央へ戻るのですか」
「戻る必要はある。報告も処分も残っている」
「そうですか」
ミナは水路へ目を向けた。胸の空洞が、はっきりとした寂しさに変わる。
「けれど、その後は戻ってこられますか」
「君が許すなら」
思いがけない言葉に、ミナは顔を上げた。
レオンは、監査官の顔ではなかった。何かを決めた人の顔をしていた。
「契約が終わるから、言う」
彼はまっすぐにミナを見た。
「私は君を守るために隣にいたのではない。君と同じ場所で、同じものを見て、君の判断を信じたかった。君が記録官として立ち上がる姿を、これからも見ていたい」
ミナの指先が震えた。
「それは、中央監査官としての意見ですか」
「違う」
レオンは首を横に振った。
「一人の男として、ミナ。私は君が好きだ。契約の続きではなく、君自身の意思で、私と会ってほしい」
水路の灯りが、彼の瞳に映っていた。
ミナはしばらく黙った。嬉しい。けれど、すぐに答えてしまえば、これまで築いてきた対等さを自分で崩す気がした。
「私も、あなたといると落ち着きます」
「それは、肯定と受け取っていいのか」
「まだ、少し考えたいです」
レオンの表情がわずかに固まる。
「ただし」
ミナは続けた。
「明日の夕方、中央水路の記録室へ来てください。仕事ではなく、個人的な話をするために」
「分かった」
「そのとき、私も答えを伝えます」
レオンは深くうなずいた。
契約は終わった。だからこそ、次に結ぶものは、どちらかが命じるものでも、期限を定めるものでもない。
夜のリュネで、二人は並んで歩き始めた。
水路を渡る風は冷たかったが、町の窓には一つ、また一つと灯りがともっていく。
ミナはその光を見上げながら、明日の言葉を胸の中で何度も確かめた。




