第20話 新しい記録、新しい約束
翌日の夕方、中央水路の記録室には、まだ昼の明るさが残っていた。
窓の外を流れる水面に、傾きかけた陽が細長く揺れている。ミナは机の上に新しい帳面を開き、最初の頁に日付を書いた。
生活魔法配給監査室、設立記録。
その文字の下に、配給所、倉庫、水門、住民からの申告を順に記録するための欄を作る。今まで別々の場所に散らばっていた数字を、一つの流れとして追えるようにするためだ。
数字は、暮らしの形を映す。
そう教えてくれたのは、誰だっただろう。思い返すまでもなく分かっていた。自分自身が、調査の日々を通して何度も確かめてきたことだ。
扉の向こうで、控えめな足音が止まった。
「入ってもいいか」
「どうぞ」
レオンが姿を現した。中央へ戻るための正式な制服を着ている。肩には報告書の入った鞄が掛かっていたが、昨日までのような堅い緊張はなかった。
「早かったですね」
「遅れる理由を探していたら、余計に遅れると思った」
「理由を探していたのですか」
「少しだけ」
レオンは机の向かいに座った。ミナは新しい帳面を閉じず、そのまま彼の前に置いた。
「設立記録です。今日から始めます」
「もう始めていたのか」
「責任者になった以上、始めない理由がありません」
レオンは帳面を見つめ、それからミナを見た。
「君らしいな」
「褒めていますか」
「もちろん」
短い言葉だったが、ミナの胸は静かに温かくなった。
しばらく、二人は窓の外を見ていた。水路を行き交う小舟には、回収された魔法石を積んだものもある。配給所の灯りは昨夜より早くともり、北区画では冬に備えた燃料の分配が始まったと聞いている。
すべてが元通りになったわけではない。横流しによって失われた石は多く、商会との取引を見直す必要もある。責任を問われる者も、これから増えるだろう。
それでも、町は動き始めていた。
「中央からの報告は、いつ終わるのですか」
「明日の朝には提出する。その後、ヴァルターの件を正式な審理へ移すため、数日はこちらに残る」
「それは仕事ですね」
「ああ」
「その後は?」
レオンは一度、言葉を選ぶように視線を落とした。
「中央監査局から、リュネに新しい監査官を置く案が出ている。私はその候補になった」
ミナは目を瞬いた。
「戻ってこられるのですね」
「君に会うためだけに戻るわけではない」
「それは、少し残念です」
「だが、君に会いたいと思っている。それは仕事とは別だ」
ミナは笑った。自分でも驚くほど自然に笑えた。
「では、私も仕事とは別に、あなたに会いたいと思っています」
レオンの目がわずかに見開かれる。
「それは……」
「答えです」
言ってしまうと、胸の奥に張っていたものがほどけていった。
「私は、あなたが好きです。最初は融通の利かない監査官だと思っていました。今も、融通が利かないところはあると思います」
「否定できない」
「でも、あなたは私の記録を疑うとき、私自身を否定しなかった。私が間違えたときは指摘して、私が正しいときは認めてくれた。私を守ると言って、決める権利を奪うこともしなかった」
ミナは帳面の表紙に指を添えた。
「あなたとなら、仕事も、暮らしも、対等に考えていける気がします」
レオンは長く息を吐いた。安堵しているのか、緊張しているのか、ミナにはまだ判別できない。
「それなら、私は一つ約束をしたい」
「契約書は必要ですか」
「今回は必要ない」
レオンはまっすぐに彼女を見た。
「君の仕事を尊重する。君の判断を奪わない。困ったときは、頼まれるのを待つだけでなく、私自身もきちんと話す。君と私の間に、曖昧な命令や期限を置かない」
ミナは少し考えた。
「良い約束だと思います。でも、追加してもいいですか」
「もちろん」
「忙しいときほど、食事を抜かないこと」
レオンは初めて見るほど困った顔をした。
「それは、私への約束か」
「二人への約束です。私も夢中になると忘れますから」
「分かった。守る」
「もう一つ」
ミナは立ち上がり、窓辺へ歩いた。夕暮れは深まり、水路の灯りが一つずつ浮かび始めている。
「毎年、冬の配給記録を一緒に見直しましょう。新しい監査室が、十年後にも必要とされるように」
「十年後も、私がここにいていいのか」
「リュネに戻ってくるなら」
「戻る」
迷いのない返事だった。
レオンは机の上の帳面を手に取った。最初の頁を開くと、設立記録の下には、まだ何も書かれていない欄が残っている。
「ここに、今の約束を書かないか」
「公文書にするつもりですか」
「記録は残すものだろう」
「個人的な約束まで?」
「君は、忘れないために記録するのではなく、守るために記録するのだと言っていた」
ミナは彼を見つめた。いつか自分が言った言葉を、彼は覚えていた。
彼女は羽根ペンを取り、帳面の余白にゆっくりと書いた。
――互いの仕事と意思を尊重し、必要なときには同じ机で話し合う。期限を定めず、誰かに命じられたからではなく、自分たちの意思で、これからも共に歩く。
書き終えると、ミナはペンをレオンへ渡した。
彼はその下に、自分の名を書いた。続いて、ミナも署名する。
契約書のように印章は押さなかった。代わりに二人は、署名の横へ小さな水路の印を描いた。リュネで働く者なら誰でも知っている、流れが途切れず続くことを願う印だった。
「これで、新しい記録の始まりですね」
「ああ」
「新しい約束の始まりでもあります」
レオンが手を差し出した。
ミナはその手を取った。固く握るのではなく、確かめるように指を重ねる。昨日までの契約にはなかった、二人だけの選択だった。
外では、夜の鐘が鳴った。
配給所の明かりが水面を照らし、窓の向こうで町の人々がそれぞれの夜を迎えている。誰かが火を起こし、誰かが明日の仕事道具を整え、誰かが家族のために温かい食事を用意している。
その一つ一つの暮らしが、これからも正しく記録されるように。
そして、記録だけでは守れないものを、二人が自分の目で見つめ続けられるように。
ミナは新しい帳面を閉じた。
「明日から忙しくなります」
「覚悟している」
「監査室の最初の仕事は、北区画の配給計画を見直すことです」
「手伝ってもいいか」
「仕事としてなら」
「仕事が終わった後は?」
ミナは水路の灯りを見ながら、穏やかに笑った。
「そのときは、また考えます」
二人は並んで記録室を出た。
契約は終わった。けれど、物語が終わったわけではない。
新しい記録の頁には、まだ何も書かれていない。だからこそ、二人はこれからの日々を、自分たちの言葉と選択で記していく。
流れ続ける水路のそばで、リュネの灯りは夜明けまで消えなかった。




