第16話 町じゅうの灯りを集めて
水門の操作室は、長く使われていない倉庫のように冷え切っていた。
壁際には古い歯車と滑車が並び、中央には水位を示す魔法盤が据えられている。盤面の光は弱く、北区画へ流れる水路だけが赤く点滅していた。
「水圧が限界に近い」
レオンが盤面を見て言った。
「このままでは、扉が壊れます」
「壊れたら、下流の家々が浸かる」
ミナは操作盤の刻印を指でなぞった。歯車を動かすには、中央の魔法石へ一定量の魔力を送らなければならない。だが、主石は抜き取られていた。代わりに粗悪な石が一つだけ差し込まれ、赤い警告を灯している。
「石を盗んだ人は、最初から水門を開けられないようにしたんですね」
「閉めるだけなら、残った石でもできる。開くには足りない」
「なら、足りる分を集めればいい」
ミナは操作盤から離れ、窓の外を見た。白い霧の向こうに、リュネの屋根が連なっている。朝の灯りが一つ、また一つと水路沿いに浮かんでいた。
「生活魔法の小石を使えませんか」
「家庭用の石では、出力が安定しない」
「一つではなく、町じゅうから集めるんです」
レオンは眉を寄せた。
「住民の石を取り上げるのか」
「借りるだけです。水門を開けたら、すぐに返す。今、北区画の水路が止まれば、暖房も湯も使えなくなります。家々に分散している魔力を、ここへ集めれば」
「理屈は通る。だが、誰が協力する」
ミナは机の上の記録帳を閉じた。
「私が頼みます。記録官としてではなく、同じ町に住む人として」
レオンはしばらく彼女を見ていた。やがて、操作盤の横に置かれた古い伝達管を手に取る。
「中央局の放送回線につなげる」
「使えるんですか」
「壊れていなければ」
「壊れていたら?」
「町じゅうを歩く」
ミナは思わず笑った。
「本当に、融通が利かなくなりましたね」
「君の影響だろう」
彼が淡々と言ったので、ミナは返事を失った。
伝達管から、やがて低い雑音が流れた。ミナは管口へ顔を寄せ、息を吸う。
「こちらは中央配給局の記録官、ミナです。北水門が不正に閉鎖され、北区画への生活用水が止まっています。水門を開けるため、家庭用魔法石を一時的にお借りします。無理にとは言いません。届けられる方は、最寄りの水路管理所へお持ちください。必ず記録し、開門後にお返しします」
声が町のあちこちへ響いていく。
「この水門は、誰かの利益のために閉じられました。けれど、水は誰か一人のものではありません。皆さんの暮らしを守るために、皆さんの力を少しだけ貸してください」
放送が途切れると、操作室は急に静かになった。
「来るでしょうか」
「分からない」
レオンは正直に答えた。
「だが、君の言葉は記録ではない。命令でもない。だから届く可能性がある」
最初に現れたのは、水門番の老人だった。手には小さな青い魔法石が二つある。
「わしの家の湯沸かし用だ。今日は水で我慢するさ」
その後ろから、職人街の娘が駆けてきた。
「うちは一つしかないけど、半分だけなら使える?」
「半分でも助かります」
ミナが受け取ると、娘はほっとしたように笑った。
やがて人が増えた。パン屋の主人、洗濯場の女たち、夜勤を終えた運河船の船員。誰もが大きな石を持っているわけではない。小さな欠片や、使いかけの石を布に包んで差し出した。
ミナは一つずつ番号を振り、持ち主と用途を帳面に記した。レオンは操作盤のそばで魔力の量を測り、配置を決めていく。
「商会の倉庫からも持ってきた」
息を切らせて現れたのは、昨夜の工房で働いていた若い職人だった。
「隠してあった予備品だ。横流しに使われる前に、町へ返す」
彼が差し出した袋には、十個以上の魔法石が入っていた。
レオンの表情が険しくなる。
「出所を記録する」
「もちろんだ」
職人はまっすぐ彼を見た。
「今度こそ、記録を消させないでくれ」
レオンはうなずいた。
「消させない」
集まった石を操作盤へつなぐと、赤く点滅していた魔法盤が青く変わった。歯車が重く回り始め、水門の奥で巨大な扉が軋む。
「水圧、安定しました」
ミナが盤面を読む。
「あと少しです」
そのとき、入口から怒鳴り声が響いた。
「勝手に魔法石を使うとは、何の権限がある!」
振り返ると、濃紺の外套を着た男が立っていた。胸元には、貴族商会の紋章。後ろには二人の警備兵が控えている。
「水門管理権は商会の委託を受けた私にある。直ちに作業をやめろ」
ミナは男の顔を見た。昨夜、水門の上に立っていた人影と同じ声だった。
「あなたが鎖を切ったんですね」
「証拠があるのか」
「あります」
ミナは帳面を開いた。
「商会の留め具、青い封印紐、波形の傷。さらに、あなたが今ここで作業を妨害した事実も記録しました」
男は笑った。
「記録だけで人を裁けると思うな」
「裁くのは私ではありません。公開審査です」
レオンがミナの隣に立った。
「中央監査官レオンの名において、北水門の臨時管理権を発動する。不正な閉鎖に関する審査が終わるまで、誰もこの操作を妨げてはならない」
「そんな権限が――」
「監査規程第十八条」
レオンは懐から証票を取り出した。
「生活基盤への危険が認められる場合、中央監査官は現場を保全できる」
男の顔から笑みが消えた。
その間にも、扉は少しずつ持ち上がっていく。水が低く唸り、閉ざされていた水路へ流れ始めた。魔法盤の光が、集められた石の数だけ強くなる。
「開きます!」
ミナが叫んだ。
最後の歯車が回り、水門が完全に上がった。堰き止められていた水が一気に流れ、北区画へ向かって走っていく。町の地下を通る水路が震え、遠くで歓声が上がった。
男は後ずさった。警備兵も、もう彼の前に立とうとはしなかった。
ミナは集められた魔法石を見渡した。小さな灯りが、操作盤の上で一つにつながっている。
「一人分では足りなくても」
彼女は静かに言った。
「町じゅうの灯りを集めれば、水門だって開けられるんですね」
レオンは流れ始めた水を見つめ、それから彼女へ視線を戻した。
「ああ。君が、町の人に頼ったからだ」
「あなたも、歩くと言ったでしょう」
「私は君についてきただけだ」
「それでも、隣にいました」
レオンはわずかに目を伏せた。契約の期限は、もうすぐ終わる。公開審査が済めば、二人がこうして並ぶ理由もなくなる。
その予感が、開いた水門の音よりも大きく胸に響いた。
ミナは帳面へ最後の一行を書いた。
北水門、開門。町の協力により、生活用水の流れを回復。
そして、その下に小さく付け加えた。
記録したのは、私たち二人。
水は町へ戻った。だが、真実を隠そうとする者との戦いは、まだ終わっていなかった。公開審査まで、残された時間は二日。集まった灯りが照らし出した証拠を、今度こそ誰の手にも消させないために、ミナとレオンは中央局へ戻ることにした。




