第15話 閉ざされた水門
翌朝、リュネの空は、昨夜の霧をそのまま抱え込んだように白かった。
ミナは中央配給局の記録室で、工房から運び出した十二箱の魔法石を前にしていた。箱は仮封印を施され、机の上には昨夜書き留めた記録が並べられている。荷車の車軸に結ばれていた青い紐。箱に刻まれた波形の傷。配給帳から消えた数量。
数字は、どれも一致していた。
それでも、レオンは納得していなかった。
「御者が逃げた通路は、北水門へ続いていた」
彼は地図を広げ、工房の裏手を指した。
「水門を抜ければ、外河へ出られる。朝までに閉ざされていれば、昨夜の逃走経路を確認できるかもしれない」
「水門が閉じていたら、ですか」
「今朝から動かないそうだ」
ミナは顔を上げた。
「故障ではなく?」
「水門番の報告では、昨夜誰かが手動の鎖を切断した」
嫌な予感が、胸の奥で静かに形を持った。証拠を運び出した直後に、逃走経路だけが閉ざされた。偶然とは考えにくい。
「見に行きましょう」
「その前に、上司へ報告する」
「報告したら、先に誰かが水門を調べます」
レオンは地図から目を離した。
「君は、私が誰を疑っているか分かっているようだな」
「分かりません。ただ、昨日の荷車が配給局の印を使っていたことは、もう隠しきれません。事件に関わった人が局内にいるなら、こちらが動いたことも伝わっているはずです」
レオンは短く息を吐いた。
「君の判断を採用する」
その言葉に、ミナの指がわずかに止まった。
「採用する、ですか」
「対等な協力者の意見として」
以前なら、そんな言い方をされたら反論していたかもしれない。だが今は、胸の奥が不思議に温かくなった。
二人は必要な記録を持ち、北水門へ向かった。
水路都市リュネの北端には、古い石造りの水門がある。水位を調整し、生活用水を各区画へ分ける重要な設備だった。冬が深まれば、魔法石で温めた水を流すためにも使われる。
水門前には、水門番の老人が一人立っていた。鎖の切断面を眺め、困ったように帽子を押さえている。
「昨夜、変な音を聞かなかったか」
レオンが尋ねた。
「夜半に、金属が鳴る音を一度。それから水門が閉じた。開けようとしたが、鎖が切られていた」
「誰かを見たか」
「霧で何も。ただ、向こう岸に灯りが一つ」
老人は水門の奥を指した。
「灯りはすぐ消えた。舟の音も聞こえたよ」
ミナは水門の足元にしゃがみ込んだ。濡れた石の隙間に、青い繊維が挟まっている。配給所の封印紐と同じ色だった。
さらに水際を見ると、泥の上に靴跡が残っていた。大きさは、昨夜の御者のものに近い。しかし靴底の模様は途中で途切れ、代わりに細い舟の櫂を引きずった跡が伸びている。
「こちらから逃げた」
ミナが言うと、レオンはすぐに水門の内側へ降りた。
「待ってください。水位が不安定です」
「確認しなければ、跡が消える」
彼はためらわず足場へ移った。ミナも後に続く。水門の隙間から、冷たい水が勢いよく噴き出していた。閉ざされた扉の向こうでは、水が行き場を失い、低く唸っている。
ミナは石壁に刻まれた傷に気づいた。波形の細い線。魔法石の箱にあったものと同じだ。
「レオン、ここにもあります」
彼は灯りを近づけた。
「印ではない。合図かもしれない」
「荷車の箱、水門、封印紐。全部を同じ人間が扱っていたなら、配給局の倉庫だけでなく、水路の管理にも手を伸ばせます」
「魔法石を横流しした者は、流通だけでなく、水位まで操作できる」
レオンの声が硬くなった。
「冬の配給が始まれば、水門を閉じたままにするだけで、いくつもの区画が生活魔法を使えなくなる」
ミナは水面を見た。水路の先には、貧しい職人街がある。あの区画では、古い暖炉の代わりに生活魔法へ頼る家が多い。魔法石が届かなければ、寒さをしのげない。
「横流しの目的は、石を売ることだけではないのかもしれません」
「配給を止め、住民の不安を煽る」
「そして、別の商会が高値で石を売る」
言葉にした瞬間、事件の輪郭が一段深くなった。
そのとき、水門の上から石が落ちてきた。ミナの肩をかすめ、水面へ沈む。
「下がれ!」
レオンがミナの腕を引いた。次の石が足場を砕き、二人の間に水しぶきが上がる。
水門の上に、人影が立っていた。外套の襟で顔は見えない。その手には、切断された鎖の残りが握られている。
「記録するだけの役人が、ずいぶん深く潜るものだ」
低い声が水音に混じった。
ミナは懐の記録帳を押さえた。
「あなたは、配給局の印を使った人ですね」
「印など、誰でも使える」
「では、箱の波形の傷は何ですか」
人影がわずかに動いた。
「知ったところで、証明はできない」
「証明します。水門に残った繊維も、靴跡も、切断面も。あなたが消し忘れたものを、全部記録します」
相手は笑った。
「水門が開かなければ、記録を届ける道もない」
そう言って、人影は上流側へ走った。
レオンが追おうとした瞬間、閉ざされた扉の向こうで水圧が大きく揺れた。足場が傾き、ミナの身体が水路側へ滑る。
レオンは彼女の手をつかんだ。
「離してください。あなたが落ちます!」
「離さない」
「水門が壊れます!」
「君を先に引き上げる」
腕に力がこもる。ミナは空いた手で、足元の鎖の切断面を探った。切れた鎖の根元に、小さな金属片が挟まっている。商会の荷印に使われる留め具だった。
「レオン、これを!」
彼はミナを引き上げながら、金属片を受け取った。
「今度は、消される前に私が持ちます」
「ええ。二人で記録します」
ようやく足場へ戻ると、人影の姿はもうなかった。だが、上流へ続く石段には、濡れた足跡が残っている。
ミナは帳面を開き、震える指で書き始めた。
閉ざされた水門。切断された鎖。配給局の封印紐。商会の留め具。そして、配給を止めようとする者の言葉。
その横で、レオンも同じ証拠を記録していた。
書き終えた彼が、ふとミナを見る。
「公開審査まで、あと三日だ」
「証拠は増えました」
「同時に、相手も追い詰められた」
「なら、急がなければ」
ミナは立ち上がった。
「水門を開けます。町の暮らしを止めさせないために」
レオンはうなずいた。
「私も手伝う」
閉ざされた水門の向こうで、水はなお激しく流れていた。二人は鎖の残骸を見つめ、開門の方法を探し始めた。たとえ誰かが流れを塞ごうとしても、町を生かす水まで止めさせるつもりはなかった。




