第14話 契約書に書かれていない気持ち
荷車の車輪が軋む音は、霧の向こうからゆっくり近づいてきた。
ミナは足を止めた。レオンも同時に立ち止まり、証拠袋を押さえる。
「さっきの荷車でしょうか」
「分からない。だが、確認する価値はある」
二人は水路沿いの石壁に身を寄せた。霧は濃く、灯りの輪郭さえぼやけている。やがて、倉庫街の角から一台の荷車が現れた。御者は外套の襟を立て、顔を隠している。荷台には粗末な布が掛けられていた。
車輪が、また軋んだ。
ミナは荷台の下を見た。車軸に、細い青い紐が結ばれている。配給所で使われる封印紐と同じ色だった。
「レオン、あれを」
声を潜めた瞬間、御者がこちらを振り向いた。
「気づかれた!」
レオンがミナの腕をつかみ、脇道へ引いた。荷車は速度を上げ、水路に沿って走り出す。二人も後を追った。
石畳は濡れて滑りやすい。ミナは何度も転びそうになったが、レオンの手が離れなかった。角を曲がると、荷車は古い跳ね橋へ向かっていた。橋の先には、使われていない染色工房がある。
「逃げ道を塞ぎます」
レオンが言った。
「私は荷台を見ます」
「危険だ」
「契約に、私を隠しておくとは書かれていません」
レオンが一瞬、目を見開いた。
「契約を盾にするのか」
「あなたがいつもそうするからです」
言い合っている間に、荷車は橋を渡り始めていた。レオンは先回りするため、細い路地へ駆け込む。ミナは荷車の後ろを追った。
染色工房の門が開き、荷車が中へ入る。御者が飛び降り、荷台の布をめくった。
中に積まれていたのは、魔法石の箱だった。
ミナは息をのんだ。箱には中央配給局の印が刻まれている。その一つが落ち、石畳の上で淡い光を放った。
御者がミナに気づき、懐から短い棒を抜いた。
「余計なことを覚える女だな」
食堂の女主人の言葉が蘇った。
棒が振り下ろされる。ミナはとっさに横へ転がった。地面に当たった棒から、火花が散る。生活魔法用の小さな石を仕込んでいるらしい。
次の一撃が来る前に、レオンが御者の腕をひねり上げた。
「ミナ、下がれ!」
御者は舌打ちし、レオンの膝を蹴った。レオンの身体が揺らぐ。その隙に、男は工房の奥へ逃げ込んだ。
ミナは散らばった箱を見た。箱の蓋に、波のような細い傷がある。
「レオン、箱を!」
「追う!」
「違います。これを先に記録しないと、また消されます!」
彼は一瞬だけ迷った。
ミナは箱の印、封印の状態、荷台の数を次々に書き留めた。指先は震えていたが、文字は崩さなかった。
工房の奥で扉が閉まる音がした。レオンが追う。しかし、しばらくして戻ってきたとき、男の姿はなかった。
「裏の水路へ抜ける通路があった」
レオンは息を整えながら言った。右手の甲に浅い傷ができている。
「怪我を」
「これくらいは傷とは呼ばない」
「呼ぶかどうかは、記録する側が決めます」
ミナは布を取り出し、彼の手に巻いた。レオンは抵抗しなかった。
工房に残された箱は、全部で十二個あった。中身は生活魔法に使われる小粒の魔法石で、配給帳から消えた数量とほぼ一致している。
ミナは帳簿と現物を照合した。
「これで、横流しの証明ができます」
「まだだ」
「なぜですか」
「この荷車を誰が出したのか、御者が誰の命令を受けたのかが分からない」
「でも、箱には配給局の印があります」
「印だけなら、偽造できる」
レオンは厳しい目で箱を見た。
「公開審査に出すなら、証拠を一つも曖昧にできない。君が傷つかないようにするためにも」
ミナは包帯を結び終えた。
「また、私を守る話ですか」
「違う」
レオンは静かに答えた。
「君の判断を信じているから、失敗してほしくないと言っている」
その言葉は、いつもの冷静な声よりも深く、ミナの胸に残った。
「それは、契約に書かれていません」
「ああ」
「協力者が怪我をしたら手当てをすることも、危険なときに手を離さないことも」
「書いていない」
「契約が終わったら、どうするのですか」
問いかけたあとで、ミナは自分が何を聞いたのか分からなくなった。レオンはすぐには答えなかった。
工房の割れた窓から、夜の水路が見える。霧の向こうで、どこかの鐘が一つ鳴った。
「契約が終われば、君は君の仕事に戻る」
「あなたは?」
「私も監査局へ戻る」
「それだけですか」
レオンはミナを見た。
「それだけで終わらせたくないと思っている」
心臓が、帳簿の数字を写し損ねたように跳ねた。
彼は視線を逸らさずに続けた。
「だが、今は事件を終わらせることが先だ。君に選ばせたい。仕事の続きも、その先のことも」
ミナは、巻き終えた包帯の端を整えた。
「なら、選べるようにしてください」
「何を」
「私が、誰かに守られるだけではないと証明できるように」
レオンの表情が、わずかに和らいだ。
「分かった」
二人は魔法石の箱を一つずつ運び出した。工房の外へ出ると、霧は少し薄れていた。遠くでは、食堂の明かりがまだ消えていない。
ミナは歩きながら、胸の内に生まれた小さな違和感を考えていた。
契約書に書かれているのは、調査の期限と役割と報告の義務だけだ。そこには、手を伸ばす理由も、離れたくないと思う気持ちもない。
けれど今夜、彼女は初めて知った。
書かれていないことにも、確かに守るべきものがあるのだと。




