第13話 小さな食堂の大きな証言
公開審査が終わったころには、リュネの空はすっかり暗くなっていた。
倉庫前に集まっていた人々は、証拠袋の中の銀板を見たあとも、なかなか帰ろうとしなかった。十年前の横流し事件。その言葉が、それぞれの記憶を呼び起こしているようだった。
誰かが、昔も冬に魔法石が足りなくなったと言った。
別の誰かが、あの年から南職人区の配給量が少しずつ減ったのだと話した。
証言は途切れ途切れで、数字も日付も曖昧だった。けれど、ミナは一つも聞き流さなかった。曖昧な記憶の中にも、重なり合う部分がある。記録係として、彼女はそれを知っていた。
「このままでは、皆さんが凍えてしまいますよ」
倉庫の管理人がそう言うと、集まっていた人々はようやく散り始めた。
ミナは帳簿を抱え直した。冷たい風が水路から吹き込み、指先の感覚を奪っていく。隣ではレオンが証拠袋を上着の内側へしまっていた。
「中央監査局へ戻るのですか」
「今夜は戻らない」
「え?」
「銀板と荷車の記録を保管する場所を決める必要がある。中央局へ送れば、途中で差し替えられる可能性もある」
レオンは周囲を見渡した。
「それに、まだ聞けていない証言がある」
「誰のですか」
「荷車が見つかった場所を、普段から見ている人間だ」
彼は水路の向こうを指した。倉庫街の端に、小さな食堂が一軒だけ明かりを灯している。軒先に吊られた看板には、青い魚の絵が描かれていた。
「食堂の主人が、夜の荷車をよく見ているらしい」
二人は食堂へ向かった。
店内は狭く、木の長机が四つ並んでいるだけだった。壁際の棚には乾燥した香草や、瓶に入った保存食が置かれている。客は少なく、暖炉の前で職人が二人、湯気の立つ椀を抱えていた。
カウンターの奥から、白髪の女主人が顔を上げた。
「監査局のお役人が、こんな時間に何の用だい」
「お役人ではありません」
ミナが答えると、女主人は鼻を鳴らした。
「帳簿を持っている人間は、みんなそう言うよ」
レオンが身分証を示そうとしたが、ミナは手で制した。女主人の目は身分証よりも、二人の顔を見ていた。
「食事を二つください。食べながら話を聞かせていただけますか」
「話を聞く代金まで払う気かい」
「必要なら」
ミナが財布を取り出すと、女主人は少しだけ目を細めた。
「金をもらって嘘をついたと思われるのは嫌だ。飯代だけでいい」
出されたのは、豆と根菜の煮込みだった。質素だが、冷えた身体にはありがたかった。
女主人は、しばらく二人が食べる様子を眺めていた。
「荷車のことだね」
先に口を開いたのは彼女だった。
「昨夜、裏の水路を通った。車輪が軋んでいたから、荷が重いと思った。けれど、門番に聞いたら空荷だと言われたよ」
「何時ごろですか」
「鐘が三つ鳴ったあと。日付が変わる少し前だ」
ミナはすぐに帳簿を開いた。
「荷車の数は?」
「一台。御者は男が一人。商会の外套を着ていた」
「顔は見ましたか」
「見ていない。だが、声は覚えている」
女主人は煮込み鍋の蓋を閉めながら続けた。
「その男は、店に入ってきた。酒を一杯だけ頼んで、裏口から出ていった。注文のとき、誰かに合図をしていたんだ」
「合図?」
「指で机を三回叩いた。すると、向かいの倉庫から別の男が出てきた」
レオンが身を乗り出した。
「その男の特徴は」
「背が高くて、右手に黒い手袋をしていた。顔は見えなかったが、歩き方が妙だった。左足を少し引きずっていたよ」
ミナの脳裏に、倉庫の証拠袋が浮かんだ。
「その二人は何を話していましたか」
「声は小さかった。聞き取れたのは一言だけだ」
女主人はレオンを見た。
「『古い借りは、今年で終わる』」
空気が変わった。
レオンの手が椀の縁で止まる。表情は崩れていない。だが、握った指が白くなっていた。
「その言葉を、確かに聞いたのですか」
「ああ。私は耳が遠くなったが、聞き間違いじゃない。あの男は、そう言った」
ミナは女主人の言葉を一字ずつ書き留めた。
「他に、何か残っていませんか。例えば、支払いに使ったものや、荷車の印など」
「酒代を払ったのは銀貨だった。普通の銀貨じゃない。片面に、波のような細い傷があった」
レオンが顔を上げた。
「波形刻印……」
「知っているのですか」
「中央監査局の旧式の通行証に使われていた印だ。十年前、師が追っていた荷車の関係者だけが持っていた」
女主人はため息をついた。
「なら、あんたたちの探している相手は、まだこの町にいる」
「どうしてそう思うのですか」
「十年前のことを口にする人間が、遠くから来たばかりには見えなかったからさ」
女主人は窓の外を見た。
「それに、あの男は帰る前に言っていた。『食堂の婆さんは、昔から余計なことを覚えている』ってね」
ミナの背中を冷たいものが走った。
証言を残す者もまた、狙われている。
レオンは立ち上がった。
「あなたは今夜、別の場所へ移ったほうがいい」
「脅しているのかい」
「警告です」
「なら、私が動く前に、帳簿に名前を書いておくれ」
女主人は棚の奥から古い木箱を取り出した。中には、黄ばんだ紙片や、食材の仕入れ札が束ねられている。
「十年前から、夜に来た荷車の数を記録していた。誰も頼んじゃいないが、商売をしていれば、何が運ばれているかくらい気になるからね」
紙片には日付と荷車の数、通った時間が並んでいた。
ミナは一枚ずつめくった。
冬の始まりから春先まで、夜の荷車は毎年増えている。しかも、配給帳で魔法石の不足が記録された時期と、ぴたりと重なっていた。
「これは、とても重要な証拠です」
「証拠かどうかは、あんたたちが決めることじゃない。私は見たものを書いただけだよ」
ミナは女主人をまっすぐ見た。
「いいえ。見たものを残す人がいなければ、起きたことはなかったことになります」
女主人は、しばらく黙っていた。
「若いのに、分かったようなことを言うね」
「まだ分からないことばかりです。でも、残すべきことは分かります」
レオンが紙束を受け取り、証拠袋に入れた。
店を出ると、水路の上に薄い霧が流れていた。
「あなたの師を襲った相手は、今もこの町にいるかもしれません」
ミナが言うと、レオンは霧の向こうを見た。
「ああ」
「怖くないのですか」
「怖い。だが、今度は一人ではない」
その言葉に、ミナは返事をしなかった。
食堂の小さな証言は、十年分の記録を一本の線につないだ。横流しの経路、削られた印、消された報告書。そして、古い借りを終わらせようとしている誰か。
二人は食堂の明かりを背に、中央監査局の臨時詰所へ歩き出した。
背後で、青い魚の看板が風に揺れた。
次の瞬間、遠くの水路から、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。




