8・没落の兆候(レイモンド視点)
一方のクラウゼル公爵家。
僕──レイモンドは一人、執務室で先日のことを思い出していた。
「あの地味で無能な女がいなくなったかと思うと、せいせいするな」
そう言って、紅茶の入ったティーカップを口に傾ける。
──エレナ。
伯爵家の娘。
彼女と婚約していたことは、僕にとって最大の汚点である。
見た目だけはいいものだから、婚約が成立した当初は嬉しかった。
しかし、それがすぐに間違いだったと気づく。
彼女は僕が気まぐれにデートに誘っても、「片付ける仕事が残っていますから」と、まともに取り合わなかった。
些細なミスをして他の貴族を怒らせてしまった時も、彼女は僕を慰めるどころか、注意してきた。
執務室の片隅で黙々と仕事のふりをしているヤツを見ると、虫唾が走る。
公爵家のためになんの役にも立っていない彼女が近くにいるだけで、仕事も捗らないというものだ。
「だが、そんな日々ともおさらばだな」
聞くところによると……この屋敷を出たエレナは、まだ実家に戻っていないらしい。
顔を出さないエレナを、彼女の父上は「あんなヤツは勘当だ!」と激怒していた。
大方、自分の不手際で婚約を解消されたなんて家族に言い出せず、帰るに帰れなくなっているだけだろう。
今頃、どこにいるのやら。
「おっと──あいつのことを考えるのはよそう。なにせ、あいつがいなくなっても、僕は困らないんだから。あんなヤツより、今は公爵家の未来のことだ」
そう口にし、早々と頭の中からエレナのことを消し去ると……。
「レイモンド様」
ドアをノックする音ともに、一人の女性が執務室に入ってきた。
「おお……ミレーユか。待っていたよ。相変わらず、君は可愛いね」
執務室に入ってきた令嬢──ミレーユを見ると、自然と頬が緩む。
ミレーユ。
エレナを追い出して、僕が新しく迎えた婚約者だ。
ミレーユは伯爵家の一人娘で、エレナと比べても家格に遜色はない。
桃色の髪の毛先はふんわりと内側に巻かれ、庇護欲をそそられる顔と体つきは、いかにも可愛らしい。
まさしく僕の隣に立つ、未来の公爵当主として申し分のない女性だ。
「ふふふ、ありがとうございます。レイモンド様も、今日もとーってもカッコいいですよ」
「ありがとう」
お互いに礼を言い合う。
そう──なにも憂うことはない。
働きやすい環境に、可愛らしい未来のお嫁さん。
間違いなく、僕の人生は今が絶頂だ。このままクラウゼル公爵家はますます発展し、その名を轟かせていくだろう。
「それでミレーユ……早速なんだけど、君に僕がやっている仕事の一部を手伝ってもらっていいかな?」
「仕事……ですか?」
「うん。なあに、今日は君が我が家に通うようになって初日だ。だから簡単なものからやってもらう。分からないことがあったら、すぐに僕に尋ねてくれ。なんでも答えるから」
やんわりと言って、僕は書類を取り出す。
執務机に紙を一枚──また一枚と重ねていくごとに、何故かミレーユの顔が青ざめていった。
「──よし。これで全部だ」
「お、多いですね。ちなみに私は今日、どれくらいやればいいんでしょうか?」
「ん? もちろん、全部だ」
どうしてこの子は、そんな当たり前のことを聞くんだろう?
そう思いながらの返答であったが。
「ぜ、全部!? そんなの、出来るはずがありませんよ! レイモンド様は私を過労死させるつもりですか!?」
「え……」
言葉を失う。
そんな……おかしい。
今回、ミレーユにやってもらおうと思った仕事の量は、あの無能な令嬢エレナに任せていた半分にも満たない。
いくら今日が初日とはいえ、ミレーユなら丸一日──いや、エレナ以上に有能な彼女なら半日もあれば終わるものだと思っていた。
なのに、『過労死させるつもりですか』とは……。
「もうっ! レイモンド様は意地悪です! 私に、そんな冗談を言うだなんて!」
「お、おお、ミレーユ。すまなかった。君があまりにも可愛いから、つい意地悪をしたくなっただけなんだ。許してくれ」
ここで押し問答をしても、しょうがない。
そう思った僕は、咄嗟にそう言い繕う。
「そんなことより、レイモンド様。デートに出かけましょうよ! 私、買いたい指輪があるんです。あなたにもきっと気に入ってくれると思って……」
「いいね。君と街を回れると思うだけで楽しくなるよ。でも……ごめん。僕には今日、外せない会議があるんだ。宝石代は渡すから、ミレーユ一人で行ってもらってもいいかな?」
「ええー。レイモンド様のいけず」
ミレーユが指を咥える。
本当は、ミレーユと二人きりでデートに出かけたい……しかし、それは許されない。
会議なんて嘘だ。ミレーユが「出来ない」と言った書類の山に、今すぐ取り掛からなければならない。
だが、こういった雑務はいつもエレナに任せていた。
果たして、僕一人で終わる量なのか……? 少し不安がよぎった。
「でも私、聞き分けのいい子なんです! レイモンド様が忙しいなら、私一人で行っちゃいます! 次はぜーーーったいに、二人で行きましょうね」
「う、うん。約束するよ」
僕に背を向けるミレーユ。
何故だ……おかしい。
当然、ミレーユなら快くやってくれると思っていた。現にエレナは、目の前に積まれている書類の山を目にしても、彼女は文句一つ言わず取り掛かっていた。
なのに、彼女以上──いや、比べるのも烏滸がましい──有能で美しいミレーユがお手上げだと? そんなことは有り得るのか?
「じゃあ、レイモンド様。行ってきます」
「うん、気をつけて行ってきてね」
そう見送る。
……まあ、彼女も公爵家に来たばかりで、まだ緊張しているんだろう。
直に屋敷の空気にも慣れてきて、本来の力を発揮してくれるはずだ。
芽生えた微かな不安を上塗りするように、自分に言い聞かせる。
──だからだろう。
そんなことばかり考えていた僕は、ミレーユが部屋を出ていく間際、その口元に意味ありげな笑みを浮かべていたことには気づけなかった。
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