第三部 転 ―― すれ違いと向き合う痛み
◇
蝉の声が一段と激しくなった、八月の初め。汐はその日、朝から妙に胸騒ぎがしていた。理由はわからない。ただ、空気が湿っぽく、遠くの空に入道雲が不穏な形で盛り上がっているのを見て、なんとなく嫌な予感がしていた。
昼過ぎ、スマートフォンが鳴った。母からの電話だった。汐は縁側に座ったまま、画面に浮かぶ「お母さん」の文字をしばらく見つめてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「汐? 元気にしてる?」
母の声はいつも通り、明るかった。けれど、その明るさの奥に、汐はすぐに違和感を覚えた。長年、母の「無理をしている声」を聞き分けてきた耳が、それを察知したのだ。
「うん、元気だよ。おばあちゃんの家、楽しい」
「そう、良かった。……あのね、汐」
母は一呼吸置いた。その間が、やけに長く感じられた。
「お父さんとのこと、正式に手続きが進んだの。今月中に、離婚が成立する予定」
その言葉は覚悟していたはずだった。それでも実際に耳にすると、想像していたよりずっと重く汐の胸に落ちてきた。
「……そう、なんだ」
「汐には、辛い思いさせてごめんね。でも、これでちゃんと、次に進めると思うから」
「うん」
「夏休みが終わったら、新しい家のこと、一緒に考えようね」
母はそれから、努めて明るい調子で、他愛のない話を続けた。今日の天気のこと、近所の猫のこと。けれど、汐はもう、その言葉のほとんどが耳を素通りしていくのを感じていた。
「汐? 聞いてる?」
「あ、うん。聞いてるよ」
「なんだか、声が小さいね。大丈夫? 無理して元気なふりしなくていいのよ」
その一言に、汐は思わず息を詰まらせた。母のその言葉こそ、いつも汐自身が、母に向けたいと思っていた言葉だったからだ。「無理しなくていい」――それを、逆に自分が言われる側になるとは思わなかった。
「……大丈夫。本当に、大丈夫だから」
結局、汐はそう繰り返すことしかできなかった。母もまた、それ以上は深く踏み込んでこなかった。二人とも、本当は同じように傷ついているのに、互いを気遣うあまり、本音を言い出せずにいる。この親子はいつも、そうやってすれ違ってきたのかもしれないと、汐はふと思った。
電話を切った後、汐はしばらく縁側に座ったまま、動けなかった。夏の日差しが容赦なく照りつけているのに、体の芯が急速に冷えていくような感覚があった。
部屋に戻ると、汐は無意識のうちにテディベアのロンを手に取り、強く抱きしめていた。父がまだ家にいた頃の、遠い記憶――休日の朝、三人で近所の公園を散歩したこと、父の肩車、母の笑い声。そういう断片的な光景が、次々と脳裏をよぎった。
(もう、本当に、終わりなんだ)
頭ではとうに分かっていたはずだった。両親が元に戻ることはない、と。それでも、心のどこかで、微かな希望を捨てきれずにいた自分に、汐は今更ながら気づかされた。
ロンを抱きしめたまま、汐はベッドに横たわった。窓の外では、蝉の声がいつまでも鳴り続いていた。
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◇
翌日、汐は約束通り蒼と海辺で待ち合わせていた。けれど、昨日の電話のことが頭から離れず、汐の表情はどこか沈んでいた。
「どうした。元気ないな」
蒼が気づいて尋ねると、汐は無理に微笑んだ。
「ううん、大丈夫。それより、今日はどこから調べる?」
「……本当に大丈夫か?」
蒼の問いかけに、汐は一瞬、言葉を詰まらせた。話してしまいたい衝動と、話せば本当に涙が出てしまいそうな怖さとが、胸の中でせめぎ合った。
「大丈夫だから。それより――」
汐が話題を変えようとした、その時だった。蒼のスマートフォンが震え、彼は画面を確認して、わずかに顔をしかめた。
「……ちょっと、待って」
蒼は少し離れた場所で電話に出た。切れ切れに聞こえてくる声から、家業のことで何かトラブルがあったらしいと、汐は察した。電話を終えた蒼の表情は、これまで見たことがないほど硬くなっていた。
「蒼くん?」
「……親父が、体調崩したらしい。夏の繁忙期に、これだから」
蒼は苛立ちを隠しきれない様子で、砂を蹴った。
「兄貴がいれば……いや、なんでもない」
その一言に、汐は胸を突かれた。蒼が背負っているものの重さが、改めて伝わってきた気がした。
「わたしにできること、ある?」
汐が尋ねると、蒼は苛立ったように振り返った。
「お前に何ができるんだよ」
その言葉には、これまでにない棘があった。汐は思わず息を呑む。
「……ごめん、そういう意味じゃなくて」
蒼は自分の言葉の強さに、少し戸惑ったような表情を見せた。けれど、それを取り繕う余裕もないようだった。
「悪い。……今、色々ありすぎて、頭がおかしくなりそうなんだ」
蒼は砂浜に座り込み、頭を抱えるようにして続けた。
「親父は倒れる、店は回らない、なのに周りは『いずれ蒼くんが継ぐんだろう』って、当たり前みたいな顔して言ってくる。俺はまだ十七だぞ。……なのに、兄貴の代わりを、当然のように期待されてる気がする」
その言葉には、これまで蒼が誰にも打ち明けてこなかった重圧が、初めてはっきりとした形で溢れ出していた。汐は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
「それに、あの権田さんの話を聞いてから、ずっと頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。もう一人いたって、誰のことだよ。俺は、あの朝、どこで何してたんだ。……考えれば考えるほど、怖くなる」
蒼は膝の間に顔を埋めるようにして、しばらく黙り込んだ。
「こんな状態で、悠長に本の謎解きなんて、続けてる余裕がない」
「蒼くん……」
「悪いけど、少し一人にしてくれ」
その声には、拒絶というより、これ以上何かを背負いきれないという限界の色が滲んでいた。汐はそれでも何か言葉をかけようとしたが、蒼はそれを遮るように立ち上がった。
「……この本の謎解きも、少し休む。今は、そんな余裕ない」
蒼はそう言って、逃げるようにその場を立ち去った。汐は呼び止めることもできず、ただその背中を見送るしかなかった。
(わたし、何か悪いこと言った……?)
自問しながらも、汐は蒼の中で何かが張り詰めていることを感じていた。それは、単なる家業の心配だけではない、もっと根深い何かのように思えた。
一人残された砂浜で、汐は膝を抱えて座り込んだ。昨日の電話のこと、そして今の蒼の態度。二つの痛みが重なって、汐の胸を締め付けた。
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◇
その夜、汐は部屋にこもり、『夏の物語』の内容を思い出しながら、自分の読書ノートを開いた。改めて考えてみると、汐はこの数週間、蒼太の謎を追うことに、ある種の熱中を見せていた。
(わたし、本当は……)
ノートのページをめくりながら、汐はふと気づいた。自分がこれほどまでに蒼太の謎に入れ込んでいたのは、単なる好奇心からだけではなかったのかもしれない、と。
両親のこと、家族が壊れていくことから、目を逸らすために。誰かの謎を解くことに没頭することで、自分自身の痛みと向き合わずに済んでいたのかもしれない――そう気づいた瞬間、汐の目から涙がこぼれた。
「わたし、結局、逃げてただけなんだ」
声に出してそう呟くと、涙は止まらなくなった。本の中の物語には、いつもちゃんとした結末がある。離れ離れになった人が再会し、悲しみにさえ意味が与えられる。けれど、現実はそうではない。両親は元には戻らないし、蒼太はもう帰ってこない。
汐は自分の手を見つめた。この手で、本当に誰かを助けることなどできるのだろうか。ただ、他人の物語に首を突っ込んで、自分の痛みから目を逸らしていただけではないのか――そんな自己嫌悪が、次々と押し寄せてきた。
テディベアのロンを抱きしめながら、汐はしばらく声を殺して泣いた。窓の外では、いつもと変わらず波の音が続いていたが、その音さえも、今夜はどこか虚しく聞こえた。
どれくらい泣いていただろうか。涙が少しずつ乾いていくと、汐の頭の中に、ふと蒼の言葉が蘇ってきた。「お前に何ができるんだよ」――突き放すようなその言葉に、傷つかなかったと言えば嘘になる。けれど今、涙の底で汐が感じていたのは、蒼への反発ではなく、むしろ深い共感だった。
(蒼くんも、きっと同じだったんだ)
誰かに寄りかかりたいのに、寄りかかり方が分からない。弱さを見せることが怖くて、つい強い言葉で相手を遠ざけてしまう。それは、汐自身がずっとやってきたことと、同じ形をしていた。
汐は濡れた頬を拭いながら、ゆっくりと体を起こした。まだ答えは出ていない。それでも、さっきまでのただ塞ぎ込むような涙とは違う。何か新しい感情が、胸の奥に生まれ始めているのを感じた。
しばらくして、涙が落ち着いてくると、汐は静かにノートを開いた。震える手で、ペンを握る。
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◇
汐はページに、これまでにないほど乱れた字で、思いのままを書きつけた。
「守られてばかりの自分は、誰も守れない」
その一文を書いた後、汐は少し呼吸を整えてから、続けた。
「わたしは、いつも『いい子』でいることで、何かを守ろうとしてきた。両親が仲直りしてくれるように。誰にも迷惑をかけないように。でも、それは結局、自分から動くことを避けているだけだった」
「蒼くんの謎を追いかけることも、もしかしたら同じだったのかもしれない。誰かの痛みに寄り添っているつもりで、本当は自分の痛みから逃げていただけ」
「でも――」
汐はそこで一度手を止め、窓の外を見つめた。月明かりが、静かに海を照らしている。
「でも、もしそうだとしても。蒼くんと過ごした時間が、嘘だったとは思いたくない。写真館で見た兄の笑顔に、蒼くんが涙ぐんだ時。テディベアの話をした時、初めて誰かに本音を話せた気がした、あの瞬間。あれは、確かに本物だった」
「だから、わたしは、ちゃんと一歩踏み出したい。守られるだけじゃなくて、誰かを守れる自分に、なりたい」
書き終えると、汐はノートを閉じ、深く息を吐いた。涙で滲んだ文字は、それでも確かに、汐自身の本音だった。
その夜、汐はなかなか寝付けなかった。蒼のこと、両親のこと、そして咲が抱えている何か――すべてが絡み合って、汐の心をざわつかせていた。
(明日、おばあちゃんに、もう一度ちゃんと聞いてみよう)
そう決意しながら、汐はようやく眠りについた。
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◇
翌朝、汐は台所で朝食の支度をする咲の背中を見つめながら、声をかけるタイミングを計っていた。咲はいつもと変わらない様子で、味噌汁の鍋をかき混ぜている。
「おばあちゃん」
「なんだい」
「わたし……昨日、色々あって。自分のこと、ちゃんと向き合わなきゃいけないなって思ったの」
咲は手を止め、汐の方を振り返った。その目には、何かを察したような色が浮かんでいた。
「……何があったんだい」
「お母さんから、離婚が正式に決まったって連絡があって。それと、蒼くんとも、ちょっと気まずくなっちゃって」
咲はしばらく黙って汐の顔を見つめていた。それから、鍋の火を止め、エプロンで手を拭きながら、静かに言った。
「座りな。少し、話そうか」
二人は台所の椅子に向かい合って座った。朝の光が、窓越しに柔らかく差し込んでいる。
「汐ちゃん。あんたは、この一月足らずの間に、随分変わったね」
「そう、かな」
「ああ。最初に来た時は、何もかも一人で抱え込んで、誰にも本音を見せないようにしてる子だと思ってた。……でも、今のあんたは、ちゃんと自分の痛みと向き合おうとしてる」
咲はそこで一度言葉を切り、深く息を吸った。
「だから、あたしも、ちゃんと話さなきゃいけないね。蒼くんのことを」
汐は息を呑んで、咲の言葉を待った。台所には、二人の呼吸の音だけが響いていた。
「……あの日ね」
咲は静かに、けれど確かな声で語り始めた。
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◇
「二年前の、あの事故があった朝のことだよ」
咲は湯呑みを両手で包み込みながら、遠い記憶をたぐり寄せるように話し始めた。
「あたしは、早起きして庭の手入れをしていたんだ。この家の二階からは、坂の下の道が少し見えるだろう。その時、蒼太くんが、一人で浜の方に向かって歩いていくのが見えたんだよ」
「……蒼太さんが」
「ああ。まだ薄暗い時間でね。何をしに行くんだろうと、少し気になって見ていたら――」
咲は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「その少し後を追うように、蒼くんも歩いていったんだ。当時、まだ十五歳だった蒼くんが」
汐は驚きに目を見開いた。
「蒼くんも、一緒に……?」
「ああ。あたしは、てっきり兄弟で朝の散歩でもするんだろうと思って、それ以上気にも留めなかった。……でも、その日の昼前に、事故の知らせが届いたんだよ」
咲の声が、わずかに震えた。
「蒼太くんが、海で溺れて亡くなったって。それを聞いた時、あたしは真っ先に、蒼くんのことを心配した。だって、あの子も一緒に浜へ向かうのを見ていたから」
「それで……?」
「駆けつけると、蒼くんは浜辺に一人、座り込んでいた。ずぶ濡れで、放心状態で。何を聞いても、『覚えていない』としか言わなかった。医者は、ショックによる記憶の混乱だろうと言っていたよ」
咲は湯呑みを置き、両手を膝の上で握りしめた。
「あたしはあの時、あの子の唇が真っ青になっているのを見て、生きていてくれただけで、もう十分だと思ったんだよ。それ以上のことは、何も聞けなかった」
「蒼くんは、その時、何か話さなかったの?」
「一言だけ、覚えている言葉がある。『兄ちゃんが、押した』って」
汐は息を呑んだ。
「……押した?」
「あたしにも、それがどういう意味か、当時は分からなかった。乱暴に押しのけられたということなのか、それとも……別の意味なのか。とにかく、あの子は震えながら、その言葉だけを繰り返していた」
咲は目を伏せ、深く息をついた。
「警察には、漁師の権田さんも含めて、何人かが『蒼太くん一人だったように見えた』と証言した。あたしは、蒼くんが一緒にいたことを知っていたけど……言わなかったんだよ」
「どうして?」
「言えば、蒼くんが、事故に何か関わっていたんじゃないかと、周りに疑われるかもしれないと思ったから。それに何より、あの子自身が『覚えていない』と怯えきっていた。そんな子に、無理やり『お前もあそこにいたんだ』なんて、突きつけられなかった」
咲の目に、深い後悔と確かな慈愛が、同時に浮かんでいた。
「それに――あたしにも、迷いがあったんだよ」
「迷い?」
「蒼太くんのご両親に、これ以上の苦しみを負わせたくなかった。もし蒼くんが一緒にいたと知れば、あの子自身が『自分のせいで兄が死んだんじゃないか』と思い詰めてしまうかもしれない。あたしは、それが一番怖かった」
汐は、咲の言葉の一つひとつを、噛みしめるように聞いていた。
「だから、あたしは、蒼くんを守ることを選んだんだよ。真実を明らかにすることより、あの子が壊れずに生きていくことの方が、大事だと思ったから」
咲はそこで一度言葉を切り、汐の目をまっすぐに見た。
「血の繋がりはなくても、あたしはずっと、あの子のことを、まるで孫のように思ってきたんだよ。蒼太くんが小さい頃から絵本を読んであげてね。蒼くんが生まれた時も、この手で抱かせてもらったくらいだから」
「でもね、汐ちゃん。この二年間、あたしはずっと考えていたんだ。あたしがしたことは、本当に蒼くんを守ることになっていたんだろうかって。……黙っていることが、本当は、あの子から何か大事なものを奪っていたんじゃないかって」
汐は、咲の告白の重さに、しばらく言葉を失っていた。
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◇
咲の告白を聞いた後、汐は自分の部屋に戻り、しばらく呆然と座り込んでいた。
(蒼くんは、あの朝、確かにあの場にいた。それなのに、本人はそのことを、まったく覚えていない……)
権田の証言、咲の目撃談。それらが重なり合うことで、これまで漠然としていた謎に、初めて具体的な輪郭が見えてきた。けれど、それと同時に、汐は重い問いに直面していた。
(このことを、蒼くんに伝えるべきなんだろうか)
もし伝えれば、蒼は自分が事故の朝、兄と一緒にいたという事実に向き合わざるを得なくなる。そして、その後の記憶がすっぽりと抜け落ちているという事実にも、正面から向き合うことになる。それは、蒼にとって、途方もなく苦しいことかもしれない。
(でも、知らないままでいることが、本当に蒼くんのためになるんだろうか)
汐は、咲の判断を否定するつもりはなかった。血の繋がりを超えて、蒼くんを孫のように大切に想い、その子を守りたいという咲の想いは、痛いほど理解できた。けれど、汐自身の経験――両親のことを誰にも話せず、一人で抱え込んできた経験――が、汐にこう囁いていた。
(真実から目を逸らし続けることは、本当の意味で、その人を守ることにはならない)
汐は、自分自身のノートに書いた言葉を思い出した。「守られてばかりの自分は、誰も守れない」。もし自分が今この真実を知りながら、蒼を「守る」という名目のもとに黙っているとしたら。それはまさに、汐がこれまで陥っていた過ちの繰り返しになるのではないか。
窓の外では、夕暮れの光が、海を橙色に染めていた。汐は長い間、その光を見つめながら考え続けた。
(伝えよう)
やがて、汐は一つの結論に達した。
(ただ伝えるだけじゃなくて、ちゃんと、蒼くんの隣にいる。一人にはさせない。それが、わたしにできることだと思う)
その決意を固めた時、汐の脳裏に浮かんだのは、あの日、蒼が突き放すように言った言葉だった。「お前に何ができるんだよ」――その問いへの答えを、汐は今、見つけた気がした。
---
◇
汐は部屋を出て、階段を駆け下りた。玄関で靴を履きながら、咲に声をかける。
「おばあちゃん、蒼くんのところに行ってくる」
咲は驚いたように振り返ったが、すぐにその意図を察したようだった。
「……話すのかい」
「うん。伝えるべきだと思うから」
咲はしばらく汐の顔を見つめた後、静かに頷いた。
「そうかい。……あんたがそう決めたなら、それでいい」
「おばあちゃん、怒らない?」
「怒るわけないだろう。あたしはただ、蒼くんを守りたかっただけだ。でも、本当に守るということが何なのか、あたし自身も、もう一度考え直さなきゃいけないのかもしれないね」
咲の言葉に背中を押されるように、汐は玄関を飛び出した。夕暮れの坂道を、息を切らしながら駆け下りる。
海辺に近づくにつれ、汐の胸の鼓動は速くなっていった。蒼にどう伝えればいいのか、まだ完全には整理できていない。それでも、今、行かなければならないという思いだけが、汐の足を動かしていた。
防波堤の近くまで来た時、汐は遠くに、一人で海を見つめる蒼の姿を見つけた。夕日を背に、その背中はどこか寂しげに見えた。
「蒼くん!」
汐が大きな声で呼びかけると、蒼はゆっくりと振り返った。その表情には、驚きと、わずかな戸惑いが浮かんでいた。
「……汐?」
「話したいことがあるの。……大事な話」
汐は息を整えながら、蒼に近づいていった。夕暮れの光の中、二人の影が、長く砂浜に伸びていた。これから語られる真実が、蒼にどんな衝撃を与えるのか、汐にはまだ分からなかった。それでも、汐はもう、逃げるつもりはなかった。
「聞いてほしいの。……二年前の、あの朝のこと」
蒼の顔が、一瞬にして強張った。波の音だけが、二人の間に満ちていく。夏の夕暮れは、いつもよりずっと長く、そして重く感じられた。
蒼は何かを察したように、一歩後ずさった。
「……なんだよ、急に」
「おばあちゃんから聞いたの。あの日、蒼くんが、どこにいたか」
その一言で、蒼の表情から、それまでの警戒がすっと抜け落ちた。代わりに浮かんだのは、剥き出しの怯えだった。
「……俺が、どこに?」
蒼の声は、かすれていた。汐は一歩、また一歩と、蒼との距離を詰めていく。逃げ場を失った蒼は、その場に立ち尽くしたまま、汐の言葉を待つしかなかった。
防波堤に打ち寄せる波が、いつもより大きく、重く響いているように、汐には感じられた。これから語る言葉が、蒼のこれまでの二年間を、根底から揺さぶることになるかもしれない。それでも、汐はもう、後戻りするつもりはなかった。
「蒼くん。……あなたは、あの朝、一人じゃなかった」
その言葉が、静かに、確かな重みを持って夕暮れの砂浜に落ちた。
第三部 了
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