第二部 承 ―― 夏の交流と近づく距離
◇
あの日から、汐と蒼は週に何度か顔を合わせるようになった。とはいえ、劇的な進展があったわけではない。海辺で偶然を装って落ち合い、他愛のない話をしながら、少しずつ蒼太の手がかりを探していく――そんな、地味で気長な日々だった。
「そういえば、町の写真館、知ってるか」
ある日の午後、蒼がぽつりと言った。汐は麦茶のグラスを傾けながら首を傾げる。二人は咲の家の縁側で、宿題という名目の待ち合わせをしていた(実際には、蒼が宿題を汐に手伝ってもらっているだけだったが)。
「写真館?」
「商店街の奥にある、古い店だよ。ばあちゃん――じゃなくて、うちの親父の代からずっとある店で、昔は町の行事とか、家族写真とか、何でも撮ってた」
「そこに、何かあるの?」
「兄貴の写真、あるかもしれない。あそこの店主、昔から顔が広くて、町の写真は大体保管してあるらしいから」
蒼の声には、これまでにない積極性が滲んでいた。汐はその変化を、嬉しく思いながらも聞いた。
「行ってみる?」
「……ああ」
二人は自転車を並べて、商店街へと向かった。夏の日差しが容赦なくアスファルトを焼いていたが、木陰に入るたびに涼しい風が吹き抜けて、それが妙に心地よかった。
写真館は、年季の入ったガラス戸の店だった。中に入ると、古い現像液の匂いと、埃っぽい紙の匂いが入り混じって漂っている。壁一面には、色褪せたモノクロ写真から、比較的新しいカラー写真まで、様々な時代の町の記録が飾られていた。
豊漁を祝う漁師たちの集合写真、廃校になった小学校の最後の運動会、今はもうない映画館の看板前で撮られた家族写真――この店には、町の記憶そのものが時代の順に折り重なって保存されているようだった。汐はその一枚一枚に目を留めながら、いつか自分たちの今日この日も、こうして誰かの記憶の中に残っていくのだろうかと、ふと思った。
「いらっしゃい。おや、蒼くんじゃないか」
白髪の店主が、老眼鏡越しに二人を見た。
「久しぶりだね。……ああ、蒼太くんの」
店主の言葉が、一瞬、店の空気を張り詰めさせた。蒼は少し硬い声で用件を切り出す。
「兄貴の写真、残ってないかなと思って。あの、夏祭りとか、地区の行事の時の」
「あるよ、もちろん。ちょっと待ってな」
店主は奥の棚から、色褪せたアルバムを何冊か取り出してきた。埃を払いながら、ページをめくっていく。
「ほら、これだ。蒼太くん、高校の頃の夏祭りだね」
差し出されたページには、浴衣姿の少年少女たちが写っていた。その中央近くに、はにかんだ笑顔を浮かべる青年の姿があった。蒼によく似た目元、けれど蒼よりも柔らかい、人懐っこい笑い方をしている。
「……兄貴だ」
蒼が呟いた声には、懐かしさと、痛みが同居していた。汐は隣で、その写真をじっと見つめる。
「優しそうな人だね」
「ああ。誰にでも、優しかった」
蒼は写真の中の兄を見つめたまま、しばらく動かなかった。店主が別のページをめくると、そこには、もう少し幼い蒼と、蒼太が並んで写っている写真もあった。兄が弟の肩に手を回し、二人揃って照れくさそうに笑っている。
「これ、いつの写真だろう。蒼くん、まだ小さいね」
「……多分、小学生の頃だ。兄貴が、俺を肩車してくれた帰りに撮った気がする」
蒼の声が、ふと柔らかくなった。汐はその変化を見逃さず、そっと尋ねる。
「お兄さんとは、仲良かったんだね」
「……ああ。年は離れてたけど、俺のことをいつも構ってくれた。うるさがられたことなんて、一度もなかった気がする」
店主が、少し遠くを見るような目で言った。
「蒼太くんは、本当にいい子だったよ。将来のこと、随分悩んでたみたいだったけどねぇ」
その一言に、蒼と汐は同時に反応した。
「悩んでた……って?」
蒼が尋ねると、店主は少し困ったように頭をかいた。
「いや、詳しいことは知らないよ。ただ、店に写真を取りに来た時、進学のこととか、家業のこととか、ぽつぽつ話してくれたことがあってね。『町を出るべきか、残るべきか』って、ずいぶん真剣な顔で悩んでいたよ」
蒼は写真を見つめたまま、黙り込んだ。汐もまた、その情報を静かに胸に刻んだ。
(進路の悩み……もしかしたら、それが本の書き込みと関係してるのかもしれない)
写真館を出た後、二人はしばらく無言で自転車を押しながら歩いた。夕方の光が、商店街のシャッターに長い影を落としている。
「……知らなかった。兄貴が、そんなこと悩んでたなんて」
蒼がぽつりと言った。汐は隣で頷く。
「もしかしたら、あの書き込みは、蒼くんへの言葉だったのかもね。町を出るかもしれないけど、いつかまた会おう、みたいな」
「……俺、へ?」
蒼は驚いたように汐を見た。汐は少し慌てて手を振る。
「あ、ごめん、まだ憶測だけど。でも、可能性としてはあるかなって」
蒼は何も言わず、写真館で見た兄の笑顔を思い出すように、遠い目をしていた。
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◇
写真館からの帰り道、二人は海辺の東屋で少し休むことにした。蒼は自動販売機で買った麦茶を汐に手渡しながら、ふと汐の鞄からはみ出しているものに目を留めた。
「それ、いつも持ってるよな。ぬいぐるみ」
汐は少し照れくさそうに、テディベアのロンを鞄から取り出した。
「これ、ロンっていうの。……変かな、高校生にもなって、ぬいぐるみ持ち歩いてるの」
「別に。俺は気にしないけど」
蒼はロンの片方の目のボタンが違う色をしているのに気づいた。
「これ、目、色違うな」
「ああ、それは……小学生の時、片方取れちゃって、自分で付け替えたの。裁縫、あんまり得意じゃなかったから、糸目茶苦茶で」
汐は笑いながら、ロンの頭を撫でた。それから、少し声のトーンを落として続けた。
「これ、お父さんが買ってくれたの。わたしが小学校に上がる前、まだ両親が……仲良かった頃に」
蒼は黙って耳を傾けた。汐は海を見つめながら、言葉を選ぶように話し続けた。
「お父さんとお母さん、今、別居してるの。もうすぐ、正式に離婚するって聞いてる」
その言葉には、抑えた重さがあった。蒼は何と言えばいいかわからず、しばらく黙っていた。
「……大変だったな」
ようやく絞り出した言葉は、ありきたりだったけれど、汐はそれで十分だというように微笑んだ。
「ありがとう。……誰かにこの話、初めてしたかも」
「初めて?」
「うん。友達にも、先生にも、言ったことなかった。話したら、本当になっちゃう気がして」
蒼は汐の横顔をじっと見つめた。都会育ちの、どこか大人びた雰囲気を持つこの少女が、実は自分と同じように言葉にできない痛みを抱えていたのだと、改めて気づかされた。
「このロンはね、わたしにとって、両親がまだ仲良かった頃の、最後の証拠みたいなものなの。だから、手放せなくて」
「……大事なんだな」
「うん。大事」
汐はロンを胸に抱きしめながら、小さく笑った。
「だから、蒼くんの気持ち、少しはわかる気がするの。大事な人との思い出を、簡単には手放せない気持ち」
蒼はその言葉に、何か胸を突かれたような表情を見せた。けれど、それ以上は何も言わず、ただ静かに海を見つめていた。
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。波の音だけが、静かに二人の間を満たしていた。
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◇
数日後、蒼は一人で海辺を歩いていた。汐とは別行動の日で、蒼は何となく、兄が好きだった防波堤の辺りをぶらついていた。
防波堤の近くで、蒼は顔見知りの老漁師、権田と出くわした。日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、この海を何十年も見てきた男だった。
「よう、蒼くん。精が出るな」
「権田さん、お疲れ様です」
二人はしばらく、他愛のない世間話を交わした。今年の漁の様子、夏祭りの準備、そんな話題が続く中で、権田がふと、思い出したように口を開いた。
「そういえば、蒼太くんのことなんだがな」
その名前を聞いた瞬間、蒼の体が強張った。
「……兄貴が、何か?」
「いや、大したことじゃないんだが。あの日の朝――事故があった朝な。俺、たまたま船の準備をしてて、浜を見てたんだよ」
権田はそう言いながら、遠く沖を見つめた。
「蒼太くんが浜に向かうのは見えたんだが……その後ろに、もう一人、誰かいたような気がしてなあ。小さい子供くらいの背丈の、誰かが」
蒼の心臓が、大きく跳ねた。
「もう一人……?」
「まあ、俺も年だし、見間違いかもしれん。当時もそう証言はしたが、警察は『蒼太くん一人だった』って結論になったし、まあそれでいいんだろうとは思ってたんだが」
権田は、特に深い意図もなく、ただの昔話として語っていた。けれど蒼にとっては、その言葉が、これまで抱えてきた漠然とした違和感に、初めて形を与える一言だった。
(もう一人……誰だ)
蒼の脳裏に、あの正体不明の感覚――潮の匂いを嗅ぐと苦しくなる、あの断片的な記憶が、ちらつく。
「蒼くん? どうした、顔色悪いぞ」
「……いえ、大丈夫です。ちょっと、暑さにやられたかも」
蒼は無理に笑顔を作り、権田に別れを告げた。けれど、家路につく足取りは、これまでになく重かった。
(もう一人いたって、誰のことだ。俺は――あの朝、どこにいた?)
思い出そうとするたびに、耳の奥で、あの重たい水音が反響する。蒼は頭を振って、その音を追い払おうとした。けれど、一度呼び覚まされた違和感は、簡単には消えてくれなかった。
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◇
その夜、汐は咲の家の縁側で、涼みながら星を見上げていた。咲が湯呑みを二つ持って、隣に腰を下ろす。
「汐ちゃん、蒼くんとは、うまくやってるかい」
「うん。……色々、話すようになった」
咲はゆっくりとお茶をすすりながら、汐の横顔を見つめた。
「あの子、この二年、ずっと肩に力を入れっぱなしだったから。汐ちゃんと話すようになって、少し柔らかくなった気がするよ」
「そうかな」
「ああ。あたしから見てもわかる」
汐は少し迷ってから、思い切って尋ねた。
「おばあちゃん。……二年前の事故のこと、詳しく知ってる?」
咲の表情が、わずかに曇った。夜風が、縁側の風鈴を小さく鳴らす。
「……なぜ、そんなことを聞くんだい」
「今日、権田さんっていう漁師さんの話を、蒼くんから又聞きしたの。事故の朝、もう一人誰かいた気がするって」
咲は湯呑みを両手で包み込んだまま、しばらく黙っていた。星空を見上げるその横顔には、何か深い葛藤が浮かんでいるように、汐には見えた。
「……汐ちゃん」
やがて、咲は静かに口を開いた。
「あの子に、無理に思い出させないであげて」
「……どういうこと?」
「蒼くんは、あの事故のことを、ほとんど覚えていない。医者に言わせれば、ショックによる一時的なものだろうって話だったけど……あたしはね、それでいいと思ってたんだよ」
咲の声には、深い慈しみと同時に、隠しきれない重さがあった。
「思い出さない方が、幸せなこともある。特に、あの子にとっては」
「でも……蒼くんは、思い出そうとしてる。今、まさに」
汐がそう言うと、咲は目を閉じ、深いため息をついた。
「……そうかい」
それ以上、咲は多くを語らなかった。けれど、その沈黙の重さが、汐に一つの確信を与えた。
(おばあちゃんは、何かを知ってる。それも、蒼くんに関わる、とても重要なことを)
「おばあちゃんは、あの日、何を見たの?」
汐が思い切って尋ねると、咲は長い沈黙の後、ようやく短く答えた。
「……今はまだ、言えない」
それだけ言うと、咲は湯呑みを持って、静かに家の中へ入っていった。縁側に一人残された汐は、夜空を見上げながら、深く息をついた。
(今は、まだ……ってことは、いつかは話してくれるってことだよね)
汐は、真実が少しずつ、水面下で動き始めていることを感じていた。同時に、それが決して軽い話ではないという予感に、胸が重くなった。
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◇
数日後、町は夏祭りの準備で賑わい始めていた。神社の境内には提灯が吊るされ、商店街には出店の骨組みが立ち並んでいく。汐と蒼も、地区の子どもたちに交じって、準備の手伝いに駆り出された。
「浜田、こっちの提灯持ってきて」
蒼が声をかけると、幼馴染の陽菜が元気よく駆け寄ってきた。
「はーい。……あ、汐ちゃんも来てたんだ」
「うん。お手伝い」
陽菜は人懐っこい笑顔で汐に近づいてきた。日焼けした肌に、快活な目元。地元の子らしい、屈託のない明るさを持った少女だった。
「蒼から聞いてるよ。二人で、蒼太くんの本のこと調べてるんでしょ」
「あ……うん」
「わたしも、蒼太くんのこと、少し覚えてる。優しいお兄さんだったよね」
陽菜はそう言いながら、蒼をちらりと見た。何か含みのある視線だったが、蒼は気づかない様子で、黙々と提灯を吊るしていた。汐はその視線に、少しだけ胸がざわつくのを感じた。
(陽菜ちゃん、もしかして蒼くんのこと……)
陽菜は蒼と同じ地区で育った幼馴染で、物心つく前から一緒に遊んできた仲だという。子供の頃は蒼太にもよく懐いていたらしく、境内の隅で提灯の紐を結びながら、ふと懐かしそうに目を細めた。
「蒼太くんね、昔よくわたしたちの遊びに付き合ってくれたの。鬼ごっこでも、缶蹴りでも、絶対手を抜かないで本気で追いかけてきて」
「そうなんだ」
「うん。だから今でも、夏祭りの時期になると、ちょっと思い出しちゃうんだよね」
陽菜の声には、屈託のない明るさの奥に、確かな寂しさが滲んでいた。 汐はその横顔を見ながら、この町に住む誰もが、それぞれのやり方で蒼太を覚えていて、その不在と折り合いをつけているのだと感じた。
深く考える前に、陽菜は明るく話題を変えた。
「そうだ、汐ちゃん、浴衣持ってきた? 祭りの日、みんなで着ようって話してるの」
「あ、持ってない……」
「じゃあ、貸してあげる! ちょうど一枚、余ってるやつあるから」
陽菜の勢いに押され、汐は思わず頷いてしまった。準備作業は続き、夕方には出店の骨組みがほぼ完成した。汗を拭いながら、蒼が汐に声をかける。
「疲れたか」
「ううん、楽しかった。こういうの、初めてだから」
「そうか」
蒼は少し照れくさそうに視線を逸らした。汐はその横顔を見ながら、ふと思う。この数週間で、蒼の表情は確かに変わってきていた。最初に会った時の、警戒するような硬い顔つきが、今では時々、こうして柔らかくほどけるようになっている。
夕日が、境内の提灯を橙色に染めていた。祭りの本番は、もうすぐそこまで迫っていた。
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◇
祭り当日の夜、境内は多くの人で賑わっていた。太鼓の音が遠くから響き、屋台から漂う醤油とソースの匂いが夜風に混じっている。子どもたちの笑い声、盆踊りの輪から漏れる音頭、それらすべてが混ざり合って、この一夜だけの特別な空気を作り出していた。
浴衣姿の汐は、陽菜に借りた薄紫色の浴衣に身を包み、いつもとは違う雰囲気を纏っていた。慣れない下駄の感触に、時折よろけそうになりながら、それでも汐の顔には隠しきれない高揚があった。
「似合ってるじゃん、汐ちゃん」
陽菜が嬉しそうに言うと、汐は照れくさそうに笑った。そこへ、蒼が浴衣姿で現れる。
「……お前も、浴衣なんだな」
「陽菜ちゃんが貸してくれたの。蒼くんも、意外と浴衣似合うね」
「うるさい」
蒼はそっぽを向きながらも、耳が少し赤くなっていた。三人は出店を巡り、金魚すくいに挑戦した。汐は不器用に何度もポイを破ってしまい、蒼が代わりに金魚をすくってくれた。
「はい」
「あ、ありがとう」
小さな金魚が入った袋を受け取りながら、汐は蒼と目が合った。祭りの喧騒の中で、その瞬間だけ、二人の間に少し特別な空気が流れた気がした。
しばらくして、陽菜が友人たちに呼ばれて離れると、汐と蒼は自然と二人きりになった。人混みを避けるように、神社の裏手へと歩いていく。
「そういえば」
汐が思い出したように口を開いた。
「『いつかこの砂浜で会おう』って書き込み、砂浜って書いてあるけど、この町の砂浜って、結構広いよね。具体的にどの辺りを指してるんだろう」
「……確かに」
「お兄さんが好きだった場所、とかない? 岩場とか、特定の目印がある場所」
蒼は少し考え込んだ。
「……そういえば、兄貴、よく岩場の方に一人で行ってたな。潮だまりを見るのが好きだったんだ」
「岩場……」
「今日は祭りだけど、明日にでも行ってみるか」
「うん、行きたい」
二人は、祭りの喧騒を背に、静かに頷き合った。提灯の明かりが、遠くでゆらゆらと揺れていた。
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◇
翌朝早く、二人は約束通り、岩場へと向かった。朝の光は柔らかく、波は穏やかだった。蒼は岩場に足を踏み入れた瞬間、わずかに表情を硬くした。
「大丈夫?」
「……ああ」
二人は岩の上に腰を下ろし、潮だまりを覗き込んだ。小さな魚やヤドカリが、透き通った水の中で動いている。
「兄貴、よくここで、俺に色々教えてくれたんだ。この生き物の名前とか、潮の満ち引きの仕組みとか」
蒼はそう言いながら、懐かしそうに目を細めた。けれど、その表情はすぐに曇る。
「……なあ」
「うん?」
「俺、実はさ」
蒼は言葉を探すように、しばらく黙り込んだ。汐は急かさず、静かに待った。
「潮の匂いを嗅ぐと、たまに、息が苦しくなるんだ。理由も分からないのに、心臓が変な感じに早くなる」
その告白に、汐は息を呑んだ。
「それって……」
「多分、あの事故と関係あるんだと思う。権田さんから聞いた話――もう一人いたって話も、頭から離れなくて」
蒼の声が、わずかに震えていた。汐は蒼の手が、無意識に強く握りしめられているのに気づいた。
「俺、あの朝のこと、ほとんど覚えてないんだ。なのに、体だけが、何かを覚えてる気がして……それが、すごく怖い」
汐は何と言葉をかければいいか分からず、ただ蒼の隣に寄り添うように座っていた。しばらくの沈黙の後、蒼は不意に口を閉ざした。
「……いや、やっぱりいい。忘れてくれ」
「蒼くん」
「大丈夫だから。行こう、もう」
蒼はそう言って、逃げるように立ち上がった。汐は慌てて後を追う。
「待って、蒼くん」
---
◇
岩場を離れ、松林の入り口辺りで、汐はようやく蒼に追いついた。
「ごめん」
汐は思わず謝った。
「わたしが、深く聞きすぎたから」
蒼は足を止め、振り返った。その顔には、苦しさと、それでも汐を責めるつもりはないという複雑な感情が浮かんでいた。
「……違う」
蒼は低く、けれどはっきりと言った。
「汐のせいじゃない。……お前は、ただ、俺と一緒に謎を解こうとしてくれてるだけだ。それは、分かってる」
「でも」
「ただ、俺自身が、まだ向き合う準備ができてないだけなんだ」
蒼はそう言って、視線を落とした。その言葉には、これまで見せたことのない、剥き出しの弱さがあった。
「兄貴のことを、ちゃんと思い出したい気持ちと……思い出すのが、怖い気持ちと。両方が、ずっとせめぎ合ってる」
汐は黙って、その言葉を受け止めた。両親のことを誰にも話せずにいた自分と、蒼の姿が重なる。
「わたしも、同じだよ」
汐は静かに言った。
「本当は、お父さんとお母さんのこと、ちゃんと分かりたい。でも、分かったら、もう後戻りできない気がして、怖くて」
蒼は汐の顔を見つめた。松林を抜ける風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
「……似た者同士だな、俺たち」
蒼がぽつりと言うと、汐は小さく笑った。
「そうかもね」
二人はしばらく、何も言わずに並んで歩いた。松の匂いと、遠くに聞こえる波の音だけが、その沈黙を優しく埋めていた。
「なあ」
やがて蒼が口を開いた。
「……もう少しだけ、付き合ってくれるか。この謎解き」
「もちろん」
汐は迷わず頷いた。蒼の表情に、わずかな安堵が浮かぶ。
「ただし」
汐は続けた。
「無理はしないで。苦しくなったら、ちゃんと言って。一人で抱え込まないで」
蒼は少しの間、汐の顔をじっと見つめていた。それから、小さく、けれど確かに頷いた。
「……分かった」
夏の日差しが、二人の影を松林の中に長く伸ばしていた。まだ真実には辿り着いていない。けれど、二人の間には、確かに何かが変わり始めていた。
それぞれが抱える痛みを、少しずつ言葉にできるようになっていく。それこそが、この夏の、静かな、けれど確かな変化だった。
第二部 了
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