第一部 起 ―― 出会いと本の謎
◇
電車を三本乗り継いで、それからバスに揺られること四十分。窓の外の景色が、コンクリートの灰色から、田んぼの緑、そして最後には海の青へと塗り替えられていくのを、望月 汐はイヤホンもつけずにただ眺めていた。
スマートフォンの画面には、母からのメッセージが表示されたままになっている。
「着いたら連絡してね。おばあちゃんによろしく」
それだけだった。父の名前は、もうどのメッセージにも出てこない。まるで最初からいなかったみたいに。汐はスマートフォンを鞄の底に沈め、代わりに膝の上に乗せた古びたテディベアの頭を撫でた。名前はロン。毛はところどころ薄くなっていて、片方の目のボタンは色が違う――小学生の時に汐自身が付け替えたからだ。
バスが停留所に着くと、蝉の声が波のように押し寄せてきた。都会では聞いたことのない音量だった。汐は大きなキャリーケースを引きずりながら、坂道を上っていく。額に汗が滲む。それでも、緑の匂いを吸い込むたびに、胸の奥の何かがゆっくりとほどけていくような気がした。
祖母・咲の家は、坂の途中に建つ古い木造家屋だった。庭には大きな柿の木があり、玄関の引き戸は少し建て付けが悪くて、開けるときにガタリと音を立てる。
「汐ちゃん、よく来たね」
咲は割烹着姿で出迎えてくれた。白髪を後ろで一つにまとめ、日に焼けた顔には深い皺が刻まれているが、目元は汐の母によく似ていて、それがどこか安心感を与えた。
「おばあちゃん、久しぶり。……夏休みの間、お世話になります」
「なに、水くさいこと言って。汐ちゃんの部屋、二階に用意してあるから」
案内された部屋は、かつて母が使っていたという六畳の和室だった。窓の障子を開けると、隣家の庭木の向こうに、青い海がわずかに覗いている。汐はしばらくその隙間を見つめていた。まるで、閉じかけた心の中に、細く光が差し込んでくるような窓だった。
部屋の隅には古い学習机が置かれていた。母が高校生の頃に使っていたものだという。天板には、消しゴムで消しきれなかった落書きの跡がうっすらと残っていて、汐は指先でそれをなぞってみた。見知らぬ、けれど確かに自分と血のつながった誰かの、若い日の時間がそこに眠っている気がした。
カーテンレールには、色褪せた星形のオーナメントがひとつだけぶら下がっていた。七夕飾りの残りかもしれない。誰がいつ吊るしたのか、咲に聞けばわかるのだろうが、汐はなんとなく、その問いを口にしないでおいた。この家には、聞けばすぐにわかることと、聞いても答えてもらえないことが、静かに混在している気がしたからだ。
荷物を解きながら、汐は小さくため息をついた。
両親のことを考えると、いつも胸の奥が重くなる。喧嘩をしているところを見たことは、実はそう多くない。ただ、ある日を境に父が家に帰ってこなくなり、母は汐の前で笑うことが増えた――不自然なくらいに。汐はそれが、自分を心配させないための演技だと、とうに気づいていた。
だから汐は「いい子」でいることにした。何も聞かない。何も騒がない。そうすれば、いつか元通りになるかもしれないから。
そんな淡い期待を抱いたまま、汐はこの夏、この町にやってきたのだった。
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◇
到着した日の夜、汐は寝つけずに部屋の中を見回していた。使われていない押し入れの襖に目が留まる。何か懐かしい匂いがした気がして、そっと開けてみると、埃をかぶった段ボール箱がいくつか積まれていた。
「お母さんの、昔のもの……かな」
好奇心には勝てなかった。汐は箱の一つを引っ張り出し、蓋を開ける。中には古いアルバムや、色褪せた文房具、そして――一冊の児童書が入っていた。
表紙には、太陽と海と、椰子の木のイラスト。タイトルは『夏の物語』。ページの端は日に焼けて茶色くなり、湿気で少し波打っている。汐はその本を手に取り、何気なく表紙をめくった。
見返しのページに、鉛筆でこう書かれていた。
「いつかこの砂浜で会おう」
筆跡は子どもの字ではなかった。少し右肩上がりの、几帳面な、けれどどこか性急さを感じさせる字。汐の心臓が、小さく跳ねた。
(誰かへの……メッセージ?)
母の字ではない。そうなると、これは母のものではなく、もっと前――この家に、かつて誰かが置いていったものなのかもしれない。汐は本をめくった。物語自体は、離れ離れになった兄弟が、夏の終わりに約束の浜辺で再会するという、シンプルな児童文学だった。けれど、その見返しの書き込みだけが、妙に生々しく、まるで本当の想いがそのまま滲み出たような重みを持っていた。
汐は本を抱えたまま、階下に降りた。咲はまだ台所で洗い物をしていた。
「おばあちゃん、これ何?」
汐が本を差し出すと、咲の手が一瞬止まった。洗い物の水音だけが、しばらく響いていた。
「……ああ、それは」
咲の声のトーンが、明らかに変わった。汐はその変化を敏感に感じ取る。
「随分昔に、近所の子が置いていったものだよ。忘れ物、みたいなものかね」
「近所の子って?」
「もう時効みたいな話さ。汐ちゃんは気にしなくていい」
そう言って、咲は本をそっと汐の手から取り上げようとした。けれど汐は、なぜかその本を手放したくなかった。
「……借りてもいい? 読んでみたい」
咲は少しの間、汐の顔をじっと見つめた。それから、諦めたように小さく息を吐いた。
「好きにおし。ただ……大事にね」
その「大事に」という言葉には、本そのものへの気遣い以上の何かが込められているように、汐には感じられた。
部屋に戻った汐は、布団の中で本を読み終えると、机の引き出しから使い古した読書ノートを取り出した。それは、汐が幼い頃から、心を動かされた本の感想や、誰にも言えない本音を書き溜めているノートだった。
「この町には、秘密がある気がする」
そう書きつけて、汐はノートを閉じた。窓の外では、波の音が微かに聞こえていた。都会では聞こえるはずのない音。汐は目を閉じて、その音に耳を澄ませながら眠りについた。
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◇
翌朝、汐は朝食を済ませると、本を鞄に入れて外に出た。行く当てはなかったが、なんとなく海を見たい気分だった。坂を下り、松林を抜けると、白い砂浜が広がっていた。
夏の朝の光は、まだ柔らかい。波は穏やかに寄せては返し、遠くにはウィンドサーフィンをする人影が小さく見えた。汐は靴を脱いで、素足で砂を踏みしめる。ひんやりとした感触が心地よかった。
都会にいた頃、汐にとって「海」といえば、電車の窓から一瞬だけ見える、灰色がかった水平線のことだった。こんなふうに、素足で踏みしめ、匂いを吸い込み、音を全身で浴びるような海は、ほとんど記憶になかった。潮の匂いは思っていたよりずっと生々しく、少し生臭くて、それでいて不思議と懐かしい感じがした。まるで、自分が生まれる前から知っていたような匂い。
貝殻を踏まないように気をつけながら、汐はゆっくりと波打ち際を歩いた。小さなカニが横歩きで穴に逃げ込むのを見て、思わず微笑んでしまう。こんなふうに、何でもないことに心が動くのは、いつぶりだろうと思った。
しばらく波打ち際を歩いていると、岩場の近くに一人の少年が座っているのが見えた。日に焼けた肌、短く刈られた黒髪。彼は膝を抱えて、じっと沖を見つめていた。その横顔には、朝の爽やかさとは不釣り合いな、どこか張り詰めたものがあった。
汐は特に意識せず、その少年の近くを通り過ぎようとした。けれど、鞄から本がはみ出していたのだろう、少年の視線がふと汐の手元に留まった。
「……それ」
少年が声を上げた。汐は驚いて足を止める。
「え?」
「その本、どこで?」
少年の目は、明らかに動揺していた。汐は反射的に本を取り出し、見せる。
「これ? おばあちゃんの家の押し入れにあったんだけど」
少年は立ち上がり、大股で近づいてくると、本をひったくるようにして手に取った。ページをめくり、見返しの文字を確認した瞬間、彼の表情が凍りついた。
「……なんで、これが」
「知り合いの本なの?」
汐が尋ねると、少年は本を強く握りしめたまま、しばらく黙っていた。潮風が、二人の間を吹き抜けていく。
「……これは、俺の兄貴のだ」
その一言だけを絞り出すように言うと、少年は本を汐に押し返すように渡し、そのまま踵を返して歩き去ってしまった。
「あ、待って――」
汐が呼び止めようとしたが、少年は振り返らなかった。松林の向こうに消えていく背中を見送りながら、汐は手の中の本を見下ろす。
(お兄さんの……本?)
書き込みの文字は、確かに子どもの字ではなかった。ならば、あの見返しの言葉は、彼の兄が誰かに宛てて書いたものなのだろう。汐の中で、小さな謎が輪郭を持ち始めていた。
汐はしばらくその場に立ち尽くしていた。少年の去り際の横顔――動揺というより、ほとんど恐怖に近い表情を浮かべていたのを、汐は見逃さなかった。ただの「懐かしい本を見つけた」という反応ではない。もっと深いところに触れられたような、ひどく無防備な顔だった。
汐は自分の胸に手を当てた。父の名前を誰かに聞かれた時、自分もきっと、あんな顔をしているのだろうと思った。触れられたくない場所を、不意に押されたときの顔。だからこそ、汐はあの少年の反応を、無神経に詮索していい話だとは思えなかった。同時に、放っておくこともできない気がした。
その日の夕方、汐は近所の商店で少年について尋ねてみた。店番をしていた老婦人は、「ああ、遠野さんとこの蒼くんだね」とあっさり教えてくれた。
「遠野……蒼くん」
汐はその名前を、読書ノートに書き留めた。
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◇
その夜、夕食の席で、汐は何気なく切り出してみた。
「おばあちゃん、遠野 蒼くんって知ってる? さっき、海であの本のこと聞いたら、急に走って行っちゃって」
箸を動かしていた咲の手が、再び止まった。今度は、昨夜よりもはっきりとした反応だった。
「……蒼くんに会ったのかい」
「うん。あの本、蒼くんのお兄さんのものだったみたい」
咲は箸を置き、湯呑みに手を伸ばした。お茶をひと口飲んでから、ゆっくりと口を開く。
「汐ちゃん。その本のことは、あまり詮索しない方がいい」
「どうして?」
「……蒼くんには、色々あったんだよ。二年前にね」
咲はそこで言葉を切った。汐が続きを待っていると、咲は首を振り、話題を変えるように立ち上がった。
「もう遅いから、お風呂に入っておいで」
それ以上は何も語ろうとしなかった。汐は釈然としない気持ちを抱えながら、風呂場へ向かう。湯船に浸かりながら、汐は考えていた。
(二年前に、何があったんだろう)
咲の態度、蒼の反応。どちらも「何かを隠している」ことを示していた。それも、軽い秘密ではない。もっと重く、触れてはいけない何かを。
汐はその夜、なかなか寝つけなかった。布団の中でテディベアのロンを抱きしめながら、天井を見つめる。
(わたしも、家族のことを誰にも話さない。話したら、本当になっちゃう気がするから)
両親のことを、汐は誰にも打ち明けたことがなかった。友人にも、担任の先生にも。話せば、それが「動かしようのない事実」として確定してしまう気がして、怖かったのだ。
だからこそ、蒼の――そして咲の――沈黙が、汐には他人事に思えなかった。
汐は起き上がり、机の引き出しから読書ノートを取り出した。
「みんな、何かを抱えて黙っている。わたしも、そうだ」
そう書いてから、少し考えて、こう付け加えた。
「でも、蒼くんの本の中の言葉――『いつかこの砂浜で会おう』――は、誰かへの約束だった。約束は、いつか果たされるべきものだと思う。わたしは、その約束の相手を探してみたい」
ノートを閉じ、汐は再び布団に潜り込んだ。窓の外では、遠く波の音が続いていた。
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◇
一方その頃、遠野 蒼は一人、家の裏手にある小さな倉庫の前に座り込んでいた。手には、汐から押し返された時の感触がまだ残っている、あの本の記憶。
蒼は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。潮風が鼻腔をくすぐる。とたん、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
(またか)
この二年間、何度も繰り返されてきた感覚だった。特定の潮の匂いを嗅ぐと、理由もわからず息が詰まる。心臓が早鐘を打つ。まるで、何かとても恐ろしいものがすぐそこにあるかのように。
医者に相談したことは一度もない。誰にも話したことすらなかった。ただ、蒼は無意識のうちに、早朝の海に近づくことを避けるようになっていた。かつては兄と毎朝のように泳いでいたはずなのに、今ではもう何年も、朝の海に足を踏み入れていない。
(兄貴……)
二年前の夏に亡くなった兄、蒼太のことを思うと、いつも記憶に薄い霧がかかったようになる。事故のことは覚えている――正確には、「事故があった」という事実だけを覚えている。その日の朝、自分がどこで何をしていたのか、蒼ははっきりと思い出せなかった。
家族も、周囲の大人たちも、あの日のことを詳しく話そうとはしなかった。まるで、腫れ物に触るように。蒼自身も、深く知りたいとは思わなかった。知ってしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がしていたからだ。
思い出せるのは、断片だけだった。夏の早朝特有の、まだ涼しい空気。誰かの、自分を呼ぶ声――それが兄の声だったのか、それとも別の誰かの声だったのか、蒼には判然としない。そして、耳の奥にこびりついたまま消えない、水音。ざぶん、と何かが沈むような、あの重たい音。
その音を思い出すたび、蒼は喉の奥が締め付けられるのを感じる。だから、なるべく思い出さないようにしてきた。考えないようにする、というより、考えることそのものを、体が拒んでいるような感覚だった。
それなのに、今日。夏休みの間だけこの町に来ているという、見知らぬ少女が、兄の本を持って現れた。
蒼は本の内容を思い出す。あの見返しの文字――「いつかこの砂浜で会おう」。それは間違いなく、兄・蒼太の筆跡だった。几帳面で、少し右肩上がりの字。子どもの頃から見慣れた、兄の字。
(誰に、宛てて書いたんだ……)
蒼太は本好きな青年だった。将来のことで悩んでいたことも、蒼はうっすらと覚えている。けれど、その悩みの中身までは知らなかった。年の離れた弟には、兄は多くを語らなかったから。
ただ、記憶の中の兄は、いつも蒼にだけは優しかった。五つ年の離れた弟を、疎ましがることもなく、むしろ「一番の相棒」のように扱ってくれた。早朝、まだ誰も起きていない時間に、こっそり蒼を誘って浜辺を散歩したこと。潮だまりに隠れる小さな生き物の名前を、飽きずに教えてくれたこと。そういう温かい記憶の断片は、確かに蒼の中に残っている。なのに、その記憶の続きにあるはずの「あの朝」だけが、ぽっかりと空白になっている。まるで、フィルムの途中だけが焼き切れてしまったかのように。
倉庫の戸の隙間から、家の中の明かりが漏れている。両親の話し声が微かに聞こえた。家業のことだろう。蒼太が継ぐはずだった民宿を、今は父が一人で切り盛りしている。いずれ、蒼が継ぐことを、誰も言葉にはしないが、当然のように期待している。
蒼はその期待を、重荷だとは思っていなかった。ただ――自分にその資格があるのかどうか、時々わからなくなる瞬間があった。兄の分まで生きなければならないという思いと、自分は何も覚えていない、何もわかっていないという後ろめたさが、いつも心の奥でせめぎ合っていた。
蒼は立ち上がり、家の中へ戻ろうとした。その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。幼馴染の浜田陽菜からのメッセージだった。
「明日の朝練、来る? 夏祭りの盆踊りの練習、そろそろ本番並みにやらないとヤバいよ」
蒼は短く「行く」とだけ返信し、家の中に入った。日常は、何事もなかったかのように続いていく。けれど今夜、蒼の胸の中には、これまでになかった小さなさざ波が立っていた。
(あの子は、誰なんだ……)
汐の顔を思い出す。人懐っこいような、それでいてどこか自分と似た、何かを抱え込んでいるような目をした少女だった。
---
◇
数日後、汐は再び海辺へと足を運んだ。あれから蒼とは会っていなかったが、彼のことが頭から離れなかった。あの本、あの反応、そして咲の態度。すべてが一つの謎として、汐の中で像を結びつつあった。
海辺には、地元の子どもたちが浮き輪で遊んでいる姿があった。汐はその賑やかな声を背に、岩場の方へと歩いていく。あの日、蒼が座っていた場所だった。
誰もいない岩に腰を下ろし、汐は鞄から『夏の物語』を取り出した。何度も読み返した見返しのページを、もう一度眺める。
「いつかこの砂浜で会おう」
この言葉の意味を、汐は考え続けていた。恋人への言葉なのか、友人への言葉なのか。それとも――家族への言葉、なのだろうか。
ふと、砂浜の向こうに人影が見えた。蒼だった。彼は誰かと一緒ではなく、一人で、いつものように海を眺めるように立っていた。汐は一瞬躊躇したが、意を決して立ち上がった。
「――蒼くん」
声をかけると、蒼はびくりと肩を震わせて振り返った。
「なんで、ここに」
それから、少し遅れて眉をひそめる。
「……つーか、何で俺の名前」
「商店のおばちゃんに聞いたの。遠野 蒼くんっていうんでしょ」
蒼は少し気まずそうに視線を逸らした。汐はそこでふと気づいた。名乗り返してもらっていないことに。
「あ……わたしは、望月 汐。この夏だけ、おばあちゃんの家に来てるの」
「望月……ああ、咲さんとこの」
「うん。おばあちゃん、この辺りじゃ有名なの?」
「まあ、な。昔から本の読み聞かせとかしてた人だから」
それだけ言うと、蒼は気まずさを誤魔化すように咳払いをした。名前を交わしたことで、わずかに空気が和らいだ気がした。
「たまたま。……この間はごめんね、勝手に本のこと聞いちゃって」
蒼は視線を逸らし、何も言わなかった。気まずい沈黙が流れる。汐は勇気を振り絞って、続けた。
「あの本の書き込み、蒼くんのお兄さんが書いたものなんだよね。……誰に向けて書いたか、知りたくない?」
「……知って、何になる」
蒼の声は硬かった。汐はひるみそうになりながらも、言葉を続ける。
「もしかしたら、その相手は今もこの町にいるかもしれない。もし約束が果たされていないなら――誰かがずっと、待っているかもしれない」
蒼はしばらく黙り込んでいた。波の音だけが二人の間を満たしていく。
「……お前、変わってるな」
ようやく口を開いた蒼の声には、わずかに呆れたような、けれどどこか柔らかい響きが混じっていた。
「初対面の奴の家族のことに、そんなに首突っ込んでくるやつ、初めてだ」
「ごめん。でも……本当に、気になったの。この本のこと」
汐は本を胸に抱きしめながら、正直に言った。
「わたし、今まで自分のことちゃんと話したことなくて。誰にも。だから、誰かの『言えないこと』を見ると、放っておけない気がして」
その言葉に、蒼は汐の顔をまじまじと見つめた。何かを探るような視線だった。しばらくして、蒼は小さくため息をついた。
「……お前も、何か抱えてるのか」
汐は答えなかった。ただ、小さく頷いた。それだけで十分だというように、蒼はそれ以上聞いてこなかった。
二人はしばらく、並んで海を見つめていた。夕方の光が、水面を橙色に染めていく。
「なあ」
やがて蒼が口を開いた。
「その本の謎……お前、本気で調べる気か」
「うん」
「……なんで、そんなに」
汐は少し考えてから、答えた。
「本の中の物語ってね、いつも“ちゃんと終わる”の。離れ離れになった人が、ちゃんと再会したり、悲しいことにも、ちゃんと意味があったりする。……でも、現実って、そうじゃないでしょ。中途半端なまま、何も解決しないまま、時間だけが過ぎていく」
汐はテディベアを抱きしめる仕草を思い出しながら、続けた。
「だから、もしこの本の中の約束が、まだ果たされていないなら……わたしはちゃんと、終わらせてあげたい。誰かのために」
蒼は、しばらく無言だった。やがて、ぽつりと呟いた。
「……勝手にしろよ」
その言葉は突き放すようでいて、どこか許可のようにも聞こえた。汐は思わず微笑んだ。
「じゃあ、一緒に探してくれる?」
「は?」
「蒼くんが一番、お兄さんのこと知ってるでしょ。一人より、二人の方が早く見つかると思う」
蒼は虚を突かれたような顔をして、それから小さく舌打ちした。けれど、その表情に嫌悪の色はなかった。むしろ、どこか観念したような、そしてほんの少し――安堵したような色が浮かんでいるのを、汐は見逃さなかった。
「……夏休み、暇だしな」
ぶっきらぼうにそう言うと、蒼は海の方に視線を戻した。橙色の光が、二人の影を長く砂浜に伸ばしていた。
汐は鞄からもう一度『夏の物語』を取り出すと、両手で蒼に差し出した。
「これ、蒼くんが持ってて。お兄さんの本だし、わたしが持ってるより、ちゃんとした場所にあるべきだと思うから」
蒼は一瞬、本を見つめたまま動かなかった。受け取ることをためらっているようにも見えた。けれど、やがて手を伸ばし、本を両手で包み込むように受け取る。
「……ありがとう」
その声は、これまでよりずっと小さく、素直だった。
「その代わり、何か手がかりが見つかったら、ちゃんと教えて。一人で抱え込まないで」
「わかってるよ」
蒼はそう言って、本を大事そうに自分の鞄にしまった。汐はその仕草を見て、少しだけ安心した。
汐は隣で、静かに息をついた。この瞬間から、二人だけの小さな謎解きが始まることを、まだ二人とも、その先に何が待っているのか知らなかった。
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◇
その夜、汐は久しぶりに穏やかな気持ちで日記――否、読書ノートを開いた。
「今日、遠野 蒼くんと約束をした。あの本の謎を、一緒に解いていくこと。……なんだか、初めて自分から誰かに手を伸ばした気がする」
ペンを止め、汐は窓の外を見つめる。月明かりに照らされた海が、静かに輝いていた。
同じ月を、蒼もまた、自分の部屋の窓から見上げていた。彼の手には、汐から預かった『夏の物語』があった。ページをめくり、兄の字をなぞるように指でそっと触れる。
(兄貴は、誰に、何を伝えたかったんだろう)
二年間、目を背け続けてきた過去に、初めて自分から近づこうとしている自分に、蒼自身が一番驚いていた。
窓の外では、遠く波の音が絶え間なく続いている。それは、これから始まる夏の物語の、静かな幕開けを告げる音のようでもあった。
――こうして、望月 汐と遠野 蒼の、一冊の本をめぐる夏が始まった。二人はまだ知らない。この本に隠された言葉の奥に、二年前のあの夏の朝、本当は何が起きていたのかを。そして、その真実にたどり着いたとき、二人がどんな景色を見ることになるのかを。
夏はまだ、始まったばかりだった。
(第一部 了)
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