第四部 結 ―― 約束の浜辺
◇
「蒼くん。……あなたは、あの朝、一人じゃなかった」
その言葉が、夕暮れの砂浜に落ちた瞬間、蒼の顔から一切の表情が消えた。まるで、時間が止まったかのようだった。
「……何、言ってんだよ」
蒼の声は、乾いていた。
「おばあちゃんが見てたの。あの朝、蒼太さんが浜に向かって歩いていくのを。……その少し後を追うように、蒼くんも、歩いていったって」
「……嘘だ」
蒼は首を振った。何度も、何度も。
「俺は、覚えてない。何も、覚えてないんだ」
「うん。覚えてなくて当然なの。……それだけ、あの朝のことが、蒼くんにとって辛かったってことだと思う」
汐は、努めて静かな声で続けた。
「権田さんが見た『もう一人の人影』は、蒼太さんじゃなくて、浜に泳ぎ着いた蒼くん自身だったんだと思う。……大人たちが駆けつけた時、蒼くんは一人で、ずぶ濡れのまま浜辺に座り込んでいたって、おばあちゃんが言ってた」
蒼は両手で顔を覆った。指の隙間から、掠れた声が漏れる。
「……なんで、今頃」
「ずっと、言うべきかどうか迷ってた。おばあちゃんも、ずっと迷ってた。蒼くんを守りたいという気持ちと、真実を隠し続けることが、本当に蒼くんのためになるのかっていう気持ちの間で」
汐は一歩、蒼に近づいた。
「でも、わたしは思ったの。知らないままでいることが、本当に蒼くんを守ることになるのかなって。……蒼くんの体は、ずっと何かを覚えてる。潮の匂いを嗅ぐと苦しくなるのも、朝の海を避けてきたのも、全部あの朝の記憶と繋がってるんだと思う」
蒼は顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。波の音だけが、二人を包んでいた。
「……俺、思い出すのが、怖い」
顔を覆う手の下から、震えた声が漏れた。
「もし思い出したら……もし本当に俺のせいで兄貴が死んだんだったら、俺はそれを知って、これまで通り生きていける自信がない」
汐はその言葉に、胸が締め付けられた。それでも、汐は静かに、けれど確かな声で言った。
「一人じゃないよ」
蒼が顔を上げた。涙で濡れた目が、汐をまっすぐに見つめていた。
「わたしが、一緒にいる。何を思い出しても、蒼くんが一人にならないように、ちゃんと隣にいるから」
夕暮れの光が、二人の影を長く砂浜に伸ばしていた。しばらくの沈黙の後、蒼は深く息を吸い込み、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かった」
その声には、まだ怯えが滲んでいた。けれど、同時に、これまでにない確かな決意も宿っていた。
「明日の朝。あの岩場に、行く」
「一緒に行くよ」
汐がそう言うと、蒼は小さく頷いた。夕日が完全に沈み、辺りは静かに暮れていった。
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◇
その夜、蒼は自分の部屋で、天井を見つめたまま眠れずにいた。手には、汐から預かったままの『夏の物語』があった。ページをめくり、兄の字をなぞる。
「いつかこの砂浜で会おう」
(兄貴は、あの朝、俺に何を伝えようとしてたんだ)
考えても、考えても、記憶の霧は晴れなかった。ただ、体の奥底に、確かに何かが眠っている感覚だけがあった。まるで、深い水底に沈んだ記憶が、今、ゆっくりと浮かび上がろうとしているかのように。
蒼は本を閉じ、目を閉じた。すると、断片的なイメージが、瞼の裏にちらつき始めた。
早朝の、涼しい空気。誰かの背中。潮の匂い。そして――誰かの叫び声。
「先に行け……!」
その声が、耳の奥で反響した。蒼ははっと目を開けた。心臓が激しく脈打っている。
(今の、声は――)
それが兄の声だったのか、蒼にはまだ確信が持てなかった。けれど、その声の切迫感だけは、はっきりと蒼の胸に刻まれた。
蒼は起き上がり、机の引き出しから古いアルバムを取り出した。写真館で見たのとは別の、家族だけが持っている私的なアルバムだった。兄と自分が並んで写る写真を、一枚一枚、丁寧にめくっていく。
幼い日の記憶の中で、兄はいつも、蒼を守る立場にいた。転んで泣いた時、真っ先に駆け寄ってくれたのも兄だった。台風の夜、怖がる蒼のために、一緒の布団で眠ってくれたのも兄だった。
(兄貴が、俺を見捨てるはずがない)
その確信だけが、蒼の中で、少しずつ形を取り始めていた。もし本当に、あの朝、何かが起きていたのだとしたら――それは、蒼が恐れているような単純な「事故」ではないのかもしれない。
蒼は窓の外を見た。月明かりが、静かに町を照らしている。明日の朝、自分は何を思い出すのだろうか。恐怖と、かすかな希望が入り混じったまま、蒼は長い夜を過ごした。
---
◇
翌朝、まだ薄暗いうちに、蒼は家を出た。約束通り、汐が浜辺の入り口で待っていた。
「眠れた?」
「……あんまり」
二人は無言のまま、砂浜を歩いた。夜明け前の海は、昼間とはまったく違う表情を見せていた。灰色がかった水面、静かな波音、そして、肌に纏わりつくような湿った潮の匂い。
岩場に近づくにつれ、蒼の呼吸が浅くなっていくのが、汐にも分かった。
「大丈夫? 無理しなくていいよ」
「……いや、行く」
蒼は自分に言い聞かせるように呟き、一歩、また一歩と、岩場へと足を進めた。かつて兄と何度も訪れた場所。潮だまりのある、あの岩の上に、蒼はゆっくりと腰を下ろした。
目を閉じ、深く息を吸い込む。潮の匂いが、鼻腔いっぱいに広がった。
その瞬間、蒼の中で、堰が切れたように記憶が溢れ出した。
---
◇
――早朝五時。まだ薄暗い中、蒼は兄の蒼太に、こっそりと起こされた。
「蒼、今日、大事な話があるんだ。誰にも言うなよ」
兄の声は、いつになく真剣だった。眠い目をこすりながら、蒼は兄の後について、浜辺へと向かった。歩きながら、蒼は少しだけ不安だった。兄がこんな時間に、こんな真剣な顔で話があるなんて、初めてだったから。
二人が家を出た時、空はまだ紺色に近い薄闇で、東の空だけがわずかに白み始めていた。誰も起きていない町の道を、兄弟だけが歩いていく。その静けさが、かえって蒼の胸をざわつかせた。いつもは饒舌な兄が、その朝に限って、ほとんど口を開かなかったからだ。
「兄ちゃん、眠くないの」
「……ん、まあな」
生返事をしながら、兄は時折蒼の方を振り返り、何か言いたげな顔をしては、また視線を前に戻す。その繰り返しを、蒼は今でもはっきりと覚えていた。
浜辺に着くと、兄はしばらく黙って海を見つめていた。蒼は隣に座り、兄が口を開くのを待った。
「なあ、蒼」
「なに?」
「……もし俺が、この町を出て、大学に行くって言ったら、お前、どう思う?」
その問いに、蒼は驚いて兄の顔を見た。家業を継ぐことを、当然のように期待されていた兄が、そんなことを口にするとは思っていなかった。
「兄ちゃん、店、継がないの?」
「……分からない。ただ、本当は、もっと勉強したいことがあるんだ。海のこと、生き物のこと。ちゃんと大学で学んで、いつかこの町の海を守るような仕事がしたい」
兄の目には、これまで見たことのない輝きがあった。けれど、すぐにその輝きは、翳りを帯びた。
「でも、親父たちには、まだ言えてない。……蒼にだけは、先に言っておきたかった」
蒼は、兄の横顔をじっと見つめた。何と言えばいいのか、当時十五歳の蒼には、上手い言葉が見つからなかった。
「兄ちゃんが、そうしたいなら……いいと思う」
それだけ言うのが、精一杯だった。兄は少し驚いたように蒼を見て、それから、くしゃっと笑った。
「ありがとな」
その笑顔が、蒼の記憶の中で、ひときわ鮮明に浮かび上がった。
兄は、それから少しだけ迷うような沈黙を挟んでから、続けた。
「あのさ、蒼。もし俺が町を出て、大学行って……それでもし、なかなか帰ってこられなくなっても」
「うん」
「いつか、絶対にここに戻ってくるから。だから、お前も、いつかここで待っててくれよ。……いつかこの砂浜で、また会おう」
その言葉を、蒼はその時、深く考えずに聞き流していた。ただの、兄らしい大げさな言い回しだと思っていた。まさかそれが、二年後の自分に、これほど重い意味を持って蘇るとは、当時の蒼には知る由もなかった。
それから、いつものように、二人は海に入った。兄弟だけの、早朝の遠泳。子どもの頃から続けてきた、二人だけの儀式のようなものだった。
沖に向かって泳ぎ始めて、しばらく経った頃だった。突然、体が思うように動かなくなった。まるで、見えない手に引っ張られるように、体が沖へと流されていく。
「蒼! 岸に戻れ!」
兄の叫び声が、耳に飛び込んできた。振り返ると、兄もまた、同じ流れに巻き込まれていた。
「離岸流だ! 慌てるな、流れに逆らうな! 横に、横に泳げ!」
兄の指示に従い、蒼は必死に横方向へ泳ごうとした。けれど、恐怖でパニックになり、体が思うように動かない。
「兄ちゃん……!」
蒼が悲鳴を上げると、兄は蒼のもとへ泳ぎ寄り、力強く体を押した。
「先に行け……! 俺は大丈夫だから!」
その一言と共に、蒼の体は、押し出されるように岸の方向へと流れていった。無我夢中で腕を動かし、蒼はなんとか浅瀬にたどり着いた。荒い息をつきながら振り返った時――兄の姿は、もう見えなかった。
「兄ちゃん……! 兄ちゃん!」
叫んでも、返事はなかった。蒼は浜に這い上がり、震える体で座り込んだ。そこから先の記憶は、断片的だった。誰かが駆けつけてくる足音。自分の名前を呼ぶ声。そして、深い、深い、闇。
---
◇
岩場に座ったまま、蒼は肩を震わせていた。目からは、止めどなく涙が溢れていた。
「兄ちゃんが……押した」
咲が聞いていた言葉の意味が、今、蒼自身の口から、確かな真実として語られた。
「兄ちゃんが、俺を、助けるために、押したんだ」
汐は、蒼の隣にそっと寄り添った。
「俺のせいじゃ……なかったのか」
蒼は震える声で、自分自身に問いかけるように呟いた。
「ずっと、怖かった。もし思い出したら、俺が兄貴を見殺しにしたんじゃないかって。俺が、自分だけ助かるために、兄貴を置き去りにしたんじゃないかって……」
「違うよ」
汐は、はっきりと言った。
「蒼太さんは、自分の意志で、蒼くんを助けたんだよ。それは、蒼くんのせいなんかじゃない。……蒼太さんが、蒼くんを守りたいと思って、そうしたの」
蒼は顔を上げ、涙に濡れた目で海を見つめた。
「兄ちゃん……」
朝日が、水平線からゆっくりと昇り始めていた。橙色の光が、静かに海面を照らしていく。蒼はその光景を見つめながら、二年間抱え続けてきた重い罪悪感が、少しずつその光に溶かされていくのを感じた。
「兄ちゃんは、最後まで、俺を守ろうとしてくれてたんだ」
その言葉と共に、蒼は声を上げて泣いた。これまで、誰の前でも見せたことのなかった、剥き出しの感情だった。汐は、ただ黙って、その隣に座り続けた。
どれくらいそうしていただろうか。空はすっかり明るくなり、朝の漁に出る船のエンジン音が、遠くから聞こえ始めていた。蒼は洟をすすりながら、ゆっくりと顔を上げた。
「情けないとこ、見せたな」
「そんなことないよ」
「……お前の前でだけは、なんか、素直になれる気がする」
蒼はそう言って、照れくさそうに目元を拭った。汐は、その言葉に、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
しばらくして、涙が落ち着いてくると、蒼はぽつりと呟いた。
「今まで、思い出すのが怖かった。……でも、思い出してよかった」
「うん」
「兄ちゃんは、俺を恨んでなんかいなかった。むしろ、最後の最後まで、俺のことを考えてくれてた」
蒼はそう言って、朝日に向かって、深く息を吸い込んだ。潮の匂いが、もう、以前のように蒼を苦しめることはなかった。
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◇
二人はしばらく、朝日を眺めながら並んで座っていた。やがて、汐は鞄からテディベアのロンを取り出し、そっと蒼に見せた。
「これ、話したことあったよね。お父さんがくれた、最後の贈り物」
「ああ、覚えてる」
「わたし、ずっとこれを手放せなかった。両親が仲直りしてくれるかもしれないっていう、淡い希望を、このぬいぐるみに託してたんだと思う」
汐はロンを胸に抱きながら、静かに続けた。
「でも、この間、お母さんから離婚が正式に決まったって聞いて……ようやく分かった。わたしは、このぬいぐるみを抱きしめることで、現実から目を逸らしてたんだって」
「……それで?」
「蒼くんの謎を追いかけることも、同じだったのかもしれない。誰かの痛みに寄り添うふりをして、本当は、自分の痛みと向き合うことから逃げてた」
汐は蒼の方を向いた。
「でも、今は違う。蒼くんと一緒に、この謎を最後まで解いて……蒼くんが泣くところも、笑うところも、ちゃんとこの目で見られた。それは、逃げてたら、絶対に得られなかったものだと思う」
蒼は汐の言葉を、じっと聞いていた。
「守られてばかりの自分は、誰も守れない。……そう思って、わたしは一歩踏み出したの。蒼くんに、真実を伝えるって決めた時」
「……ありがとう」
蒼は静かに言った。
「お前が伝えてくれなかったら、俺は、一生このままだったと思う。怖くて、逃げ続けて」
「わたしも、蒼くんがいてくれたから、逃げてた自分に気づけたの。だから、お互い様だよ」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、小さく笑った。朝の光が、二人の顔を優しく照らしていた。
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◇
蒼は鞄から『夏の物語』を取り出し、見返しのページを開いた。
「いつかこの砂浜で会おう」
その文字を、蒼はもう一度、じっと見つめた。
「これ、多分、俺への言葉だったんだと思う」
「……うん、わたしもそう思う」
「兄貴は、大学に行くために、いつかこの町を出るつもりだった。でも、弟の俺のことを、ちゃんと考えてくれてた。……『もし俺が町を出ても、いつかまた、ここで会おう』って、そういう約束だったんだと思う」
蒼はページを指でなぞりながら、続けた。
「兄貴は、多分、あの朝、俺にその話をするつもりだったんだ。でも、上手く切り出せなくて、代わりに、いつもの遠泳をしようって言い出した。……そして、あんなことになった」
「蒼太さんの想いは、ちゃんと形を変えて、蒼くんに届いてたんだね」
汐がそう言うと、蒼は静かに頷いた。
「この約束、果たせなかったな。兄貴とは、もう二度と、ここで会えない」
その声には、深い喪失感が滲んでいた。汐はしばらく黙っていたが、やがて、静かに口を開いた。
「でも、蒼くんは、今日、ちゃんとここに来た。……それも、一つの約束の果たし方なんじゃないかな」
蒼は驚いたように汐を見た。
「蒼太さんが望んでいたのは、多分、蒼くんがこの場所に立ち続けることだったんじゃないかな。逃げずに、この海と、この町と、向き合い続けること。今日、蒼くんはそれをした」
その言葉に、蒼の目に、再び涙が浮かんだ。けれど、今度の涙は、これまでとは違う、静かで温かいものだった。
「……そうかもな」
蒼は本を閉じ、それを大切そうに胸に抱いた。
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◇
その頃、少し離れた松林の陰から、咲がひっそりと二人の様子を見守っていた。早朝の散歩と称して、咲もまた、この日、浜辺に来ていたのだった。
朝日に照らされる蒼の姿を見つめながら、咲の目にも涙が滲んでいた。
(蒼太くん……あんたの弟は、ちゃんと、あんたの想いを受け取ったよ)
二年前、この浜辺で二人の兄弟を見送った日から、咲はずっと、自分の選択が正しかったのかどうか、答えの出ない問いを抱え続けてきた。けれど今、朝日の中で涙を流しながらも確かな安堵の表情を浮かべる蒼を見て、咲は初めて心から思うことができた。
(これで、良かったんだね)
沈黙を守り続けたことも、そして今、汐がその沈黙を破ったことも――どちらも蒼を想う気持ちから生まれたものだった。二つの選択が時を経て、ちゃんと一つの結末に繋がったのだと、咲は静かに感じていた。
咲はそれ以上、二人に近づくことはせず、松林の陰からそっと踵を返した。この朝の光景は、若い二人だけのものだと、咲には分かっていたから。
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◇
それから数日後、汐が都会に戻る日がやってきた。駅までの道を、蒼が見送りについてきた。
「もう、行っちゃうんだな」
「うん。夏休み、終わっちゃうから」
二人は、駅前のベンチに並んで座った。夏の終わりを告げるような、少し涼しい風が吹いていた。
「離婚のこと、大丈夫か」
「……分からない。でも、ちゃんと、お母さんと向き合ってみる。逃げないで」
「そうか」
「うん。この夏、蒼くんを見てて思ったの。過去から目を逸らし続けても、いつか必ず、向き合わなきゃいけない時が来るって。だったら、早く向き合った方が、きっと楽になれる」
蒼は少し考えるように黙ってから、頷いた。
「……お前らしいな、それ」
「そうかな」
「ああ。最初に会った時から、変な奴だと思ってたけど。人の家族の事情に、あんなにまっすぐ踏み込んでくるやつ、初めてだったから」
汐はその言葉に、思わず笑ってしまった。
「それ、褒めてる? けなしてる?」
「……さあな」
蒼もつられるように笑った。二人のそんな他愛のないやり取りが、これまでの重い日々を、少しずつ癒していくようだった。
汐はそう言って、鞄からテディベアのロンを取り出した。
「このロン、しばらく蒼くんに預かってもらってもいい?」
「……なんでだよ」
「なんとなく。守られるだけの自分から、卒業した証、みたいな感じ。それに、また会いに来る時の、口実にもなるかなって」
蒼は少し驚いたような顔をしたが、やがて、小さく笑ってロンを受け取った。
「分かった。……ちゃんと預かっとく」
二人はしばらく、無言のまま、夏の終わりの空気を感じていた。やがて、蒼が鞄から『夏の物語』を取り出した。
「これ、見返しのページ、まだ余白があるんだ」
蒼はポケットからペンを取り出し、兄の字の下に、新しい言葉を書き加えた。
「今度はここで、また会おう」
その文字を、汐はじっと見つめた。
「これ……」
「兄貴の約束の続き。……今度は、俺の番だ」
蒼は少し照れくさそうに、けれどまっすぐな目で汐を見た。
「来年の夏も、再来年の夏も、ここに来いよ。……ちゃんと、待ってるから」
汐の胸に、温かいものがこみ上げてきた。恋と呼ぶには、まだ早すぎるかもしれない。それでも、この夏に芽生えた確かな絆は、これから先も、きっと続いていくのだと、汐には分かっていた。
「うん。約束」
電車が到着するアナウンスが響いた。汐は立ち上がり、蒼と向き合った。
「ありがとう、蒼くん。この夏、蒼くんと出会えて、本当に良かった」
「……こっちこそ。お前がいなかったら、俺は今も、ずっと同じ場所で立ち止まったままだった」
二人は、どちらからともなく、小さく微笑み合った。
「じゃあ、また」
「ああ、また」
汐は電車に乗り込み、窓越しに蒼に手を振った。蒼もまた、ロンを片手に抱えたまま、電車が見えなくなるまで、ホームに立ち続けていた。
---
◇
電車の窓から、汐は遠ざかっていく町の景色を見つめていた。緑豊かな山々、青い海、そして小さくなっていく蒼の姿。
鞄の中には、あの本の代わりに、汐自身の読書ノートが入っていた。この夏の出来事を、汐は丁寧に、一ページずつ書き綴っていた。
「今年の夏、わたしは初めて、自分から誰かに手を伸ばした。誰かの謎を解くことから始まった旅は、結局、自分自身と向き合う旅でもあった」
汐はノートを閉じ、窓の外に視線を戻した。夏の光が、まだ眩しく町を照らしていた。
一方、町に残った蒼は、テディベアのロンを自分の部屋の窓辺に置き、それを見つめながら、静かに息をついた。潮の匂いが、開けた窓から流れ込んでくる。それはもう、蒼を苦しめる匂いではなく、兄との大切な記憶を運ぶ、優しい匂いへと変わっていた。
蒼は机に向かい、これまで漠然としていた将来のことを、初めて真剣に考え始めていた。兄が果たせなかった夢――海を守る仕事。もしかしたら、自分がその夢を代わりに追いかけてみてもいいのかもしれない。それは、兄の代わりに生きるということではなく、兄の想いを受け継ぎながら自分自身の道を歩くということだ。蒼は今なら、そう分かる気がした。
窓の外では、夏の終わりを告げる蜩の声が、静かに響いていた。
その日の午後、蒼は幼馴染の陽菜と、防波堤で顔を合わせた。陽菜は蒼の少し晴れやかな表情に気づいたのか、からかうように笑った。
「なんか、顔つき変わったね、蒼」
「……そうか?」
「うん。前より、ずっと自然に笑うようになった」
陽菜はそう言って、少し寂しそうに、けれど清々しい笑顔を見せた。
「汐ちゃんのおかげかな」
「……さあな」
蒼が曖昧に答えると、陽菜は小さく肩をすくめた。
「まあ、いいけど。蒼が元気になったなら、それで」
その言葉には、淡い想いを静かに手放すような、大人びた響きがあった。蒼はそれに気づかないまま、いつも通り、陽菜と他愛のない話を交わしながら、防波堤を後にした。夏の終わりは、それぞれの胸に、それぞれの形の変化を残していった。
この夏、望月 汐と遠野 蒼は、一冊の本に隠された約束を通じて、それぞれが抱えていた痛みと向き合った。そして、一歩を踏み出すことができた。守られるだけだった少女は、誰かを守れる強さを見つけた。過去に囚われていた少年は、その過去を胸に抱いたまま、未来へと歩き出す勇気を見つけた。
夏はまだ、終わらない。二人が交わした約束のように、それはまた、いつか巡ってくる季節として、確かにこの町に、この二人の心に刻まれ続けていくのだろう。
『夏の物語』の見返しには、今、二つの時代を超えた言葉が並んでいる。
「いつかこの砂浜で会おう」
「今度はここで、また会おう」
夏の匂いのするそのページは、これからも、新しい約束を重ねながら、静かにその物語を綴り続けていく。
完
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