8.理性を失った吸血鬼
深夜。
静まり返った宿屋の一室に、セレナの苦しげな呼吸が響いていた。
「うっ……く……」
ベッドの上で身を丸めたセレナは、胸元を押さえながらシーツを強く握りしめている。
額には大量の汗が浮かび、腰まで伸びた銀髪が白い頬に張りついていた。
喉が焼けるように熱い。
身体の奥から湧き上がる渇きが、残された理性を少しずつ食い潰していく。
「血……」
震える唇から、かすかな声が漏れた。
セレナの深紅の瞳が妖しく輝き、唇の隙間からのぞく牙が、普段よりも鋭く伸びていく。
人間の食事を摂っていれば、しばらく血を飲まなくても問題はない。
セレナはそう考えていた。
だが、慣れない地上での旅に加え、昼間には血液魔法を使って魔犬の群れと戦っている。
自分で思っていた以上に、身体は消耗していたのだ。
吸血鬼の本能が、新鮮な血を求めていた。
「駄目……よ……」
セレナは必死に自分へ言い聞かせる。
ここは人間の村だ。
人を襲ってはいけない。
誇り高きブラッドローズ家の吸血鬼が、理性を失って人間に牙を立てるなど、決して許されることではない。
しかし、いくら頭で否定しても、本能は収まらなかった。
床から聞こえてくる寝息。
毛布にくるまって眠るヴァルトの首筋から、血が脈打つ音が聞こえる。
ドクン。
ドクン。
吸血鬼の鋭敏な感覚が、温かな血の存在をはっきりと捉えてしまう。
「ヴァ……ルト……」
セレナの視線が、眠っているヴァルトへ向けられた。
一歩、ベッドから足を下ろす。
もう一歩、ヴァルトへ近づく。
だが、その途中で、セレナは激しく首を横に振った。
「駄目……ヴァルトは……駄目……」
ヴァルトは大切な幼馴染だ。
危なっかしくて、礼儀知らずで、いつも自分を困らせる弟分。
自分が守らなければならない相手だ。
そのヴァルトに牙を立てるなど、絶対にできない。
セレナはヴァルトから逃げるように窓へ向かった。
そして――。
ガシャァァン!
窓を突き破り、夜の村へ飛び出した。
「んあ……?」
激しい破砕音に、床で眠っていたヴァルトが目を開ける。
上半身を起こし、寝ぼけた顔で周囲を見回した。
「なんだ……?」
割れた窓から冷たい風が吹き込み、破れたカーテンを揺らしている。
それでも、まだ頭が眠っているヴァルトは、状況を理解できない。
「風、強ぇな……」
そう呟くと、再び毛布へ潜り込もうとした。
******
宿屋の前を通る細い道では、一人の男が千鳥足で歩いていた。
「うぃー……飲んだ、飲んだ……」
つい先ほどまで、宿屋に併設された食堂で酒を飲んでいた客だった。
顔は真っ赤に染まり、足元も覚束ない。
「こんな時間に帰ったら、かかあに怒られちまうなぁ……」
男が締まりのない笑みを浮かべながら歩いていると、目の前に人影が降り立った。
月明かりを反射する銀色の髪。
雪のように白い肌。
深紅の瞳を持つ、美しい少女。
「おお……?」
男は目を細め、セレナの姿を眺めた。
「ずいぶんと綺麗な姉ちゃんじゃねぇか」
セレナは答えない。
肩を大きく上下させながら、男の首筋だけを見つめている。
赤く輝く瞳。
鋭く伸びた牙。
指先から伸びる爪。
普段の勝ち気な少女の面影はなく、そこにいるのは獲物の血を求める吸血鬼そのものだった。
しかし、酔いの回った男は、その異変に気づかない。
「こんな夜中に一人じゃ危ないぜ。俺が送ってやろうか?」
へらへらと笑いながら、男はセレナへ近づいていく。
その身体から漂う血の匂いに、セレナの喉が大きく鳴った。
「あ……」
次の瞬間、セレナの姿が消えた。
「へ?」
男が気づいたときには、地面へ押し倒されていた。
「な、なんだぁ?」
セレナは男の両肩を押さえつけ、その首筋へ顔を近づける。
月明かりを受けた牙が、怪しく輝いた。
「ひっ……!」
さすがに異常を察し、男の顔から酔いが引いていく。
セレナが口を開き、首筋へ牙を突き立てようとした、そのときだった。
「ば、化け物だぁぁぁ!」
宿屋から出てきた店主が、悲鳴を上げた。
持っていたランプを取り落とすと、慌てて宿屋へ引き返していく。
店主は階段を転がるように駆け上がり、ヴァルトたちの部屋へ飛び込んだ。
「た、大変だ!」
「うるせぇな……」
ヴァルトは毛布を頭までかぶったまま、不機嫌そうな声を漏らした。
「起きてください! 外に化け物が!」
「ああ……?」
店主に肩を揺さぶられ、ヴァルトがようやく上半身を起こす。
「なんだよ、おっさん。まだ夜じゃねぇか」
「あ、あなた、冒険者なんですよね?」
「冒険者みたいなもんだ」
「だったら、お願いします! あ、あいつを倒してください!」
店主が震える指で、割れた窓を示した。
ヴァルトは欠伸をしながら、ベッドへ目を向ける。
そこにいるはずのセレナの姿がない。
「あれ?」
目をこすり、もう一度ベッドを見る。
「セレナがいねぇ」
ヴァルトは割れた窓へ近づき、外をのぞき込んだ。
道の中央では、セレナが男を地面へ押さえつけている。
鋭い牙が、今にも男の首筋へ突き立てられようとしていた。
「何やってんだ、あいつ」
ヴァルトは寝ぼけたまま目を細める。
だが、牙が男の肌へ触れかけた瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
「セレナ!」
窓枠へ足をかけ、そのまま二階から飛び降りる。
着地と同時に、地面が小さく陥没した。
ヴァルトは勢いを殺さずに駆け出すと、セレナの身体を後ろから抱え込んだ。
「おい! 何やってんだ!」
「グルルル……」
セレナの喉から、人間のものとは思えない唸り声が漏れる。
ヴァルトは両腕に力を込め、男から引き離そうとした。
「離れろ、セレナ!」
しかし、セレナの身体はびくともしない。
「なっ……!」
細い身体からは想像もできないほどの力で押し返され、ヴァルトの足元に二本の溝が刻まれていく。
「やっぱりカーミラの娘だな……」
ヴァルトは歯を食いしばり、さらに力を込める。
「つえぇぇ!」
強引にセレナの身体を引き上げ、ようやく男から引き離した。
「ひ、ひぃぃ!」
解放された男が、地面を這いながら逃げようとする。
セレナは目の前の獲物を逃すまいと、鋭い爪を振り上げた。
「邪魔……するな!」
腕を振り抜く。
五本の爪が赤い軌跡を描き、ヴァルトへ迫った。
「おっと!」
ヴァルトは上半身を反らし、爪をかわす。
その隙に男の襟首をつかみ、軽々と持ち上げた。
「おっさん!」
ヴァルトは、宿屋の入口で震えている店主の方へ男を放り投げる。
「こいつを宿の中へ連れていけ!」
「う、うわぁ!」
店主は飛んできた男を受け止めきれず、二人そろって地面へ転がった。
「早くしろ!」
「は、はいぃ!」
店主は男を引きずり、慌てて宿屋へ逃げ込んでいく。
獲物を奪われたセレナが、怒りに満ちた瞳をヴァルトへ向けた。
「ヴァルト……」
「やっと俺だって分かったか?」
「邪魔を……するな!」
「分かってねぇな」
セレナの周囲から、赤黒い魔力が噴き出した。
指先から流れた血が宙へ浮かび、一本の深紅の鞭へと変化する。
地面を蹴ったセレナが、一瞬で距離を詰めた。
鞭が夜の闇を切り裂く。
ヴァルトが身体をひねると、鞭はその脇を通過し、背後にあった村の柵を粉々に吹き飛ばした。
「おい! 壊したら怒られるだろ!」
ヴァルトの声など聞こえていないかのように、セレナは続けて鞭を振るう。
ヴァルトは身をかがめ、地面を転がりながら攻撃をかわした。
深紅の鞭が木の幹へ直撃し、表面を深く抉る。
「容赦ねぇな!」
騒ぎを聞きつけ、周囲の家々に明かりが灯り始めた。
扉や窓が開き、眠そうな村人たちが顔を出す。
「なんの騒ぎだ?」
「外で誰かが戦ってるぞ!」
「化け物が出た!」
家から出てこようとする村人たちを見て、ヴァルトが振り返った。
「おい、てめぇら!」
その声に、村人たちの動きが止まる。
「出てくるんじゃねぇ! 死にてぇのか!」
村中に響き渡る怒声。
その迫力に怯えた村人たちは、一斉に家の中へ引っ込んだ。
扉が閉まり、窓の鎧戸まで固く閉ざされる。
「よし」
ヴァルトが満足そうに頷いた直後、深紅の鞭が頬をかすめた。
薄く切れた皮膚から、一筋の血が流れる。
その血を見た瞬間、セレナの瞳がさらに強く輝いた。
「血……!」
セレナが、これまで以上の速さで飛びかかる。
ヴァルトは両腕を交差させ、振り下ろされた爪を受け止めた。
衝撃によって地面が沈み、周囲へ亀裂が走る。
「セレナ! 大人しくしろって!」
「血を……よこせ!」
「だったら最初からそう言え!」
もっとも、今のセレナに会話が通じている様子はない。
深紅の鞭が振るわれるたび、柵や草木が次々と破壊されていく。
「まずいな」
ヴァルトは攻撃をかわしながら、周囲を見回した。
このままでは、村が壊される。
家の中に隠れている人間たちまで、攻撃に巻き込まれるかもしれない。
「仕方ねぇか」
ヴァルトは小さく息を吐き、腰を落とした。
セレナは純血の吸血鬼だ。
強靭な肉体と、高い再生能力を持っている。
少しくらい強く殴ったところで、簡単に死ぬような奴ではない。
「あとで文句言うんじゃねぇぞ、セレナ」
ヴァルトは右手を強く握りしめた。
拳の周囲へ、漆黒の霧が集まっていく。
霧は生き物のように腕へ絡みつき、やがて黒龍の頭を思わせる形へと変化した。
重く禍々しい魔力が、村の通りを満たしていく。
「血を……よこせ!」
セレナが地面を蹴った。
深紅の爪を突き出し、ヴァルトの胸を狙う。
その瞬間、ヴァルトの姿が消えた。
「――龍闘術」
一歩でセレナの懐へ潜り込み、腰を大きくひねる。
「黒龍震衝!」
漆黒の霧をまとった拳が、セレナの腹部へ叩き込まれた。
轟音が響く。
拳から放たれた衝撃がセレナの身体を突き抜け、その背後で爆発した。
「ぐはっ……!」
セレナの身体が宙を舞う。
何度も地面を跳ねながら吹き飛ばされ、村外れに立つ大木へ背中から激突した。
太い幹が大きく揺れ、無数の葉が夜空へ舞い上がる。
セレナは力を失い、そのまま大木の根元へ崩れ落ちた。
「セレナ!」
ヴァルトはすぐさま駆け出した。
理性を失った吸血鬼との戦いは、終わった。
だが――。
大木の根元で荒い呼吸を続けるセレナの瞳からは、まだ血を求める赤い輝きが消えていなかった。




