7.勇者の故郷
森を抜けてしばらく歩いた二人は、辺りがすっかり暗くなった頃、小さな村へとたどり着いた。
村と呼ぶには少々寂しく、建物も十数軒ほどしか見当たらない。道を歩く人影もまばらで、聞こえてくるのは家畜の鳴き声と、夕餉の支度をする物音くらいだった。
「大きな村ではないけれど……宿くらいはありそうね」
セレナが辺りを見回していると、通りの端に古びた看板を掲げた建物が見えた。
看板には、色あせた文字で『旅人の止まり木』と書かれている。
「今夜はここに泊まるわよ」
「おう。やっと地面以外で寝られるな」
ヴァルトが迷いなく扉を押し開けると、取り付けられていた鈴が軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥にいた恰幅のいい中年の男が、二人に向かって愛想よく頭を下げる。
ヴァルトはそのままカウンターまで歩み寄ると、片肘をつき、店主を真っすぐに見据えた。
「おい、おっさん。部屋は空いてんのか?」
「ひっ……!」
背中に大剣を背負い、漆黒のコートをまとった少年に威圧するような目を向けられ、店主の顔が引きつる。
次の瞬間――。
パァンッ!
「いってぇぇぇっ!」
セレナの平手が、ヴァルトの後頭部へ容赦なく叩き込まれた。
「なにすんだよ!」
「それはこちらの台詞よ! いきなり店主さんを脅してどうするの!」
「脅してねぇ! 部屋が空いてるか聞いただけだろ!」
「その聞き方が問題なの!」
セレナは頭を押さえてうずくまるヴァルトを無視し、店主に向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、店主さん。この子、人と話すことに慣れていなくて……」
「こ、この子って言うな!」
「私たちは旅の者です。今夜一晩、泊めていただきたいのですが、お部屋は空いているでしょうか?」
セレナが丁寧な口調で尋ねると、店主は胸をなで下ろしながら頷いた。
「え、ええ。ですが、ちょうど一部屋しか空いていないんです」
「一部屋……?」
セレナの表情が固まる。
「それでいい」
ヴァルトは気にした様子もなく答えると、腰に下げていた革袋をカウンターへ放り出した。
ずしりと重い音が響く。
中を確認した店主は、目を見開いた。
「こ、こんなにはいただけませんよ!」
店主は慌てて袋から四つのジェムだけを取り出し、残りをヴァルトへ返した。
「宿代は、これで十分です」
「たったこれだけでいいのか?」
「ええ。一晩ですから」
ヴァルトは袋を受け取ると、感心したように店主を見た。
「おっさん、いい奴だな」
「だから、店主さんと呼びなさい!」
再びセレナの手が上がりかけ、ヴァルトはとっさに頭を守った。
「分かった! もう叩くな!」
店主から鍵を受け取った二人は、軋む階段を上り、二階の部屋へ向かった。
案内された部屋は、簡素な造りだった。
窓際には、小さなテーブルが一つ。その横に椅子が一脚。そして部屋の奥には、木製のベッドが一台だけ置かれている。
セレナはベッドを見たまま、しばらく動かなかった。
「……ちょっと、ヴァルト」
「あ?」
「同じ部屋って、どういうことよ」
「どういうことって、一部屋しか空いてねぇんだから仕方ねぇだろ」
「だからって、年頃の男女が同じ部屋で寝るなんて――」
「嫌なら外で寝ろ」
「どうして私が外で寝なきゃいけないのよ!」
セレナが声を荒らげるが、ヴァルトはすでに部屋の外へ向かっていた。
「飯行くぞ、飯! 腹が減って死にそうだ!」
「人の話を聞きなさい!」
宿屋の一階には、小さな食堂が併設されていた。
店内では数組の客が酒を酌み交わしながら、楽しそうに談笑している。焼けた肉と香草の匂いが漂い、ヴァルトの腹が盛大に鳴った。
二人が空いている席に着くと、若い店員が注文を取りにやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「なんでもいい! 適当に持ってこい! あと酒!」
パァンッ!
ヴァルトが言い終わるのとほぼ同時に、セレナの平手が再び後頭部を捉えた。
「いってぇぇっ!」
ヴァルトは頭を押さえながら、セレナを睨みつける。
「何度も何度も叩くんじゃねぇ! カーミラに言いつけるぞ!」
「お母様に言いつけられて困るのは、あんたのほうでしょう」
「ぐっ……」
幼い頃から礼儀作法を教えられてきた記憶が蘇ったのか、ヴァルトは悔しそうに口を閉ざした。
セレナは店員に向き直り、何事もなかったように微笑んだ。
「すみません。今日のおすすめを二人分お願いします」
「かしこまりました。今日のおすすめは、羊肉のソテーです」
「では、それをお願いします。それと……」
セレナは一瞬ためらった後、いつもの癖で口にしてしまう。
「血をいただけますか?」
「……血?」
店員の顔が引きつった。
周囲の客たちの話し声まで、わずかに小さくなる。
セレナは自分の失言に気づき、慌てて両手を振った。
「し、しまった……! い、今のは冗談です! 冗談!」
「びっくりさせないでくださいよ。吸血鬼かと思いました」
店員は苦笑しながらそう言うと、カウンターの奥へ戻っていった。
セレナは引きつった笑顔のまま、その背中を見送る。
「危なかったわ……」
「そうか。お前、人間の飯より血のほうがいいんだよな」
ヴァルトが何の悪気もなく口にすると、セレナは鋭く睨んだ。
「大きな声で言わないで!」
「別に、吸血鬼だって言えばいいだろ」
「人間の村で正体を明かしたら、大騒ぎになるかもしれないでしょう!」
「面倒くせぇな、人間って」
「一番面倒を起こしているのは、あんたよ」
二人が言い争っていると、近くの席で酒を飲んでいた男が声をかけてきた。
「なあ、坊主。そのでかい剣と格好……冒険者か?」
ヴァルトは男へ目を向けた。
「まあ、そんなようなもんだ」
「やっぱりか。ここいらじゃ冒険者なんて滅多に見かけねぇから、珍しくてな」
男は木製の杯を傾けると、どこか誇らしげに胸を張った。
「だが、この村も昔は有名だったんだぜ。なんせ、伝説の勇者が育った村だからな」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルトの目つきが変わった。
「伝説の勇者?」
「ああ。ローガン・アッシュベルって知ってるか?」
ヴァルトは勢いよく立ち上がった。
「ローガンだと!? どこにいる!」
突然の大声に、食堂中の視線が集まる。
男は驚いて身体を仰け反らせた。
「ど、どこって……もういねぇよ」
「いない?」
「かなり前に死んだ。数十年前の人間だからな」
ヴァルトの表情から、一瞬で勢いが消えた。
「……死んだ?」
「ああ。この村を出て勇者になり、世界中を旅したって話だ。最後は故郷へ戻って、静かに生涯を終えたらしい」
「嘘だろ……」
ヴァルトは力なく椅子へ腰を下ろした。
父ヴァルグロアを唯一打ち破った人間。
その男に会い、戦い、強さの秘密を直接確かめるために、ヴァルトはダンジョンを旅立った。
だが、旅の目的だった相手は、とうの昔にこの世を去っていた。
「ヴァルト……」
セレナが心配そうに、その横顔を見つめる。
男は少し気まずそうに頭をかいた。
「会いに来たのか? 悪かったな。けど、ローガン本人はいなくても、アッシュベル家の血は残ってるぞ」
ヴァルトが顔を上げた。
「子孫がいるのか?」
「ああ。この村から山を越えた先、その麓に小さな家がある。今はローガンの子孫が、そこで暮らしているはずだ」
「強いのか?」
「さあな。俺も詳しいことは知らねぇが、勇者の血を引いてるってことで、村じゃ有名だ」
ヴァルトの金色の瞳に、再び力が戻る。
「よし。明日、会いに行くぞ」
「決めるのが早いわね……」
「ローガンが死んでるなら、その子孫に聞けばいい。ローガンがどんな奴だったのか、どうやって親父に勝ったのかも知ってるかもしれねぇ」
セレナは少し考えた後、静かに頷いた。
「そうね。ここまで来たのだもの。会ってみる価値はあるわ」
やがて運ばれてきた羊肉のソテーを、ヴァルトは勢いよく平らげた。
食事を終えた二人は、翌朝早く山の麓へ向かうことを決め、宿の部屋へ戻った。
部屋に入るなり、セレナはベッドを指さす。
「このベッドは私が使うから」
「はあ? なんでだよ」
「女性を床で寝かせるつもり?」
「三百五十歳だろ」
再び、部屋の中に乾いた音が響いた。
「いってぇぇぇっ!」
「女性の年齢を口にするなと、お母様から習わなかったの!?」
「習ったけど忘れた!」
「胸を張って言うことじゃないわ!」
結局、セレナがベッドを使い、ヴァルトは毛布を一枚だけ借りて床に寝ることになった。
「固い床なんて、ダンジョンで慣れてるからな」
「そう。なら問題ないわね」
「少しは申し訳なさそうにしろよ」
灯りを消すと、部屋はすぐに静寂に包まれた。
窓の外から淡い月明かりが差し込み、床に横たわるヴァルトと、ベッドで眠るセレナを照らしている。
しばらくすると、ヴァルトの寝息が聞こえ始めた。
その夜――。
ベッドの上で眠っていたセレナの眉が、苦しそうに歪んだ。
「う……」
白い指が、シーツを強く握りしめる。
額には汗が浮かび、呼吸が浅くなっていく。
閉じられた瞼の奥で、深紅の瞳がかすかに光った。
そして、彼女の唇の隙間からのぞく牙が、いつもよりも鋭く、長くなっていた。
「血……」
か細い声が、静かな部屋にこぼれる。
だが、床で眠るヴァルトは、まだその異変に気づいていなかった。




