9.ヴァルトの血
「セレナ!」
ヴァルトは大木の根元へ駆け寄った。
地面に倒れているセレナの身体を抱き起こし、その顔をのぞき込む。
「おい、大丈夫か?」
「う……」
セレナは苦しげに顔を歪めた。
意識は残っている。
呼吸も止まってはいない。
純血の吸血鬼が持つ再生能力によって、腹部の傷も少しずつ癒え始めていた。
しかし、荒い呼吸は収まっていない。
深紅の瞳は赤く輝いたままで、鋭く伸びた牙も元へ戻っていなかった。
「血……」
セレナは震える声を漏らし、ヴァルトのコートをつかんだ。
「血が……欲しい……」
ヴァルトは周囲を見回した。
村人たちは家の中へ避難している。
襲われかけた男も、宿屋の店主が中へ運び込んだ。
ここでセレナを解放すれば、再び人間を襲うかもしれない。
「しょうがねぇな」
ヴァルトは黒いコートの襟元をつかみ、自分の首筋が見えるようにずらした。
そして、無防備な首筋をセレナの口元へ差し出す。
「吸え」
セレナの赤い瞳が、わずかに揺れた。
「な……にを……」
「血が欲しいんだろ?」
「駄目……」
残されたわずかな理性で、セレナは首を横に振る。
「ヴァルトの血は……吸えない……」
「いいから吸え」
ヴァルトはセレナの後頭部へ手を添え、自分の首筋へ引き寄せた。
「お前が村の奴らを襲うよりましだ」
「でも……」
「早くしろ。また暴れられると面倒なんだよ」
ヴァルトの頬から流れた血の匂いが、セレナの鼻をくすぐる。
その喉が大きく鳴った。
「すま……ない……」
セレナは小さく呟くと、ヴァルトの首筋へ牙を立てた。
「ぐっ……」
鋭い痛みに、ヴァルトがわずかに顔をしかめる。
温かな血が、セレナの口の中へ流れ込んだ。
通常の人間とは比べものにならないほど、強大な魔力を含んだ血だった。
ひと口飲み込むだけで、枯渇していた力が身体の隅々まで満ちていく。
焼けつくようだった喉の渇きも、ゆっくりと癒えていった。
セレナは夢中でヴァルトの血を吸い続ける。
ヴァルトは彼女を振り払おうとはしなかった。
セレナの身体を支え、その背中を宥めるように軽く叩く。
やがて、セレナの荒かった呼吸が収まっていった。
赤く輝いていた瞳が、本来の深紅色へ戻っていく。
鋭く伸びていた爪も牙も、徐々に元の長さへ戻った。
「ん……」
正気を取り戻したセレナが、ゆっくりと目を開く。
目の前にある、ヴァルトの首筋。
そこへ突き立てている、自分の牙。
口の中に残る、血の味。
「――っ!」
セレナは慌ててヴァルトから離れた。
「わ、私は……!」
口元を手で押さえながら、周囲を見回す。
粉々に壊れた村の柵。
抉れた木の幹。
倒れた草木。
割れた宿屋の窓。
途切れ途切れだった記憶が、徐々に蘇ってくる。
宿屋から飛び出したこと。
酔っていた男を襲おうとしたこと。
止めに来たヴァルトへ攻撃を仕掛けたこと。
そして、ヴァルトの首筋へ牙を立てたこと。
セレナの顔から血の気が引いていく。
「す、すまない……」
普段の高飛車な態度からは想像できないほど、小さな声だった。
「私は、あなたを傷つけた。それに、人間まで襲おうとして……」
「気にすんな」
ヴァルトは首筋の傷を手で押さえながら、あっさりと答えた。
「だが……」
「腹が減ったら、誰だっておかしくなるだろ」
「血への渇きと空腹を一緒にしないでくれる?」
「似たようなもんじゃねぇのか?」
「全然違うわよ!」
思わずいつもの調子で言い返したセレナだったが、すぐに口を閉ざした。
今は怒鳴れる立場ではない。
そんなセレナを見て、ヴァルトは首を傾げる。
「元気になったなら戻るぞ」
「戻るって……宿屋に?」
「ああ。眠ぃ」
「あなた、こんな状況でまだ眠れるの?」
「夜なんだから寝るだろ」
当然のように答え、ヴァルトは立ち上がった。
座り込んでいるセレナへ手を差し出す。
「立てるか?」
セレナは、その手を見つめた。
自分が襲いかかっても。
傷つけても。
血を吸っても。
ヴァルトは責めようとしない。
いつもと変わらない、ぶっきらぼうな態度で手を差し出している。
「……ええ」
セレナはヴァルトの手を取った。
立ち上がった直後、ヴァルトの身体がわずかにふらつく。
「ヴァルト?」
「ん?」
「本当に大丈夫なの?」
「何がだ?」
「あんたの血を吸ったのよ」
「これくらいなら平気だ」
ヴァルトは何事もなかったかのように、宿屋へ向かって歩き始めた。
その背中を見つめながら、セレナは小さく唇を噛む。
「ありがとう……」
「あ?」
「何でもないわ」
セレナは顔を背け、ヴァルトのあとを追った。
******
翌朝。
ヴァルトとセレナが一階へ下りると、食堂には宿屋の店主が一人で立っていた。
普段なら朝食を取る村人たちで賑わっているはずだが、今日は誰の姿も見当たらない。
「おう、おっさん。朝飯くれ」
「ひっ!」
ヴァルトに声をかけられ、店主の肩が大きく跳ねた。
店主は恐る恐る、ヴァルトの隣を見る。
そこには、何事もなかったかのように身だしなみを整えたセレナが立っていた。
銀髪は綺麗に梳かされ、乱れていた衣服にも皺一つない。
見た目だけなら、育ちのよい可憐な少女にしか見えなかった。
しかし、店主の脳裏には昨夜の姿が焼きついている。
男を地面へ押さえつけ、牙を突き立てようとしていた吸血鬼の姿だ。
「あ……あ……」
店主は顔を青ざめさせ、カウンターの奥へ一歩下がった。
セレナは気まずそうに視線を泳がせる。
昨夜は迷惑をかけた。
本来なら、きちんと事情を説明して謝罪するべきだろう。
だが、自分が吸血鬼だと正直に話せば、さらに怯えさせてしまう。
セレナは少し考えたあと、両手を身体の前でそろえた。
そして、母カーミラから教わった、とびきり愛想のよい笑顔を浮かべる。
「お、おはようございます」
小さく首を傾げ、何事もなかったかのように可愛らしく挨拶した。
「ひぃぃ!」
店主は悲鳴を上げ、完全にカウンターの下へ隠れてしまった。
「どうしてよ!」
「そりゃ怖ぇだろ」
「あなたまで余計なことを言わないで!」
「本当のことだろ」
「誰のためにごまかそうとしていると思っているの!」
セレナが声を荒らげると、カウンターの下から店主の小さな悲鳴が聞こえた。
「ほら。また怖がってるぞ」
「あなたが煽るからでしょう!」
結局、朝食として出されたのは、店主が震える手で用意したパンと干し肉だけだった。
食事を終えて宿屋を出ると、村の通りにはほとんど人影がなかった。
家々の窓から、村人たちがこっそりと二人の様子をうかがっている。
ヴァルトが視線を向けると、勢いよく鎧戸が閉じられた。
少し先では、井戸から水を汲んでいた女性が二人に気づいた。
「ひっ!」
女性は桶をその場へ置き去りにし、近くの家へ逃げ込む。
遊んでいた子供たちも、ヴァルトとセレナを見つけるなり、一斉に親のもとへ走っていった。
「完全に避けられているわね……」
セレナは肩を落とした。
「歩きやすくていいじゃねぇか」
「よくないわよ! 私たち、完全に危険人物だと思われているのよ!」
「実際、昨夜のお前は危険だっただろ」
「分かっているから落ち込んでいるの!」
「気にすんな」
「もう少し心のこもった慰め方があるでしょう!」
「昨日も言っただろ。気にすんなって」
「言葉を繰り返せばいいというものではないわ!」
二人は言い争いながら、村の出口へ向かって歩いていく。
村外れまで来たところで、ヴァルトが足を止めた。
正面には、朝日に照らされた山がそびえている。
昨夜、宿屋の客から聞いた話では、伝説の勇者ローガン・アッシュベルの子孫は、あの山を越えた麓に建つ小屋で暮らしているという。
「この先に、ローガンの子孫がいるんだな」
「村人の話が正しければね」
「ローガン本人には会えなかったが、子孫なら何か知ってるかもしれねぇ」
ヴァルトは山を見上げた。
自分を圧倒した父ヴァルグロアを、唯一打ち破った人間。
伝説の勇者ローガン・アッシュベル。
彼がどのような人物で、どのようにしてヴァルグロアへ勝利したのか。
その答えを、ヴァルトはどうしても知りたかった。
「行くぞ、セレナ」
「言われなくても行くわよ」
ヴァルトが歩き出し、セレナもその隣へ並ぶ。
だが、数歩進んだところで、セレナはヴァルトの首筋へ目を向けた。
そこには、自分が牙を立てた跡が残っている。
「ねえ、ヴァルト」
「あ?」
「首の傷……本当に大丈夫なの?」
「もう治りかけてる」
「そう……」
セレナは安心したように息を吐いた。
そして、少しだけ頬を赤らめながら顔を背ける。
「昨夜のことは、お母様には黙っておきなさいよ」
「なんでだ?」
「心配をかけるでしょう」
「カーミラなら、お前が俺の血を吸ったって知ったら喜ぶんじゃねぇか?」
「どうしてよ!」
「昔から、俺たちをくっつけようとしてただろ」
「そ、それとこれとは別よ! それに……!」
セレナは何かを言いかけたが、途中で口を閉ざした。
顔を真っ赤にしているセレナを見て、ヴァルトは不思議そうに首を傾げた。
「変な奴だな」
「あんたにだけは言われたくないわよ!」
二人の騒がしい声が、朝の山道へ響いていく。
こうしてヴァルトとセレナは、村人たちに恐れられながら村をあとにした。
目指すのは、伝説の勇者の血を引く者が暮らすという山の麓。
ヴァルトはまだ知らない。
そこで待っている勇者の子孫が、彼の想像する英雄とは大きくかけ離れた、臆病な少女であることを。




