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10.勇者の孫、リリア・アッシュベル

 ヴァルトとセレナが、勇者ローガン・アッシュベルの子孫に会うため、山の麓を目指していた頃――。


 世界最恐のダンジョン、その最下層。


 広大な黒龍の間には、ダンジョンを統べる者たちが集まっていた。


 玉座のように積み重なった岩山の上で、黒龍ヴァルグロアがゆっくりと顔を上げる。


「オルフェウス」


「何でしょう、ヴァルグロア様」


 黒い法衣をまとった骸骨の魔導王――リッチロード・オルフェウスが、静かに一礼した。


「ヴァルトから便りは来ておらぬか?」


「来ておりません」


 オルフェウスは即答した。


 ヴァルグロアの黄金の瞳が、わずかに細められる。


「そうか……」


「ヴァルトがダンジョンを旅立ってから、まだ一週間も経っておりません。便りが届かないのも当然でしょう」


「しかし、無事であるなら、その旨を知らせるくらいはできるはずだ」


「地上へ出たばかりのヴァルトが、手紙の送り方を知っているとお思いですか?」


「……教えておくべきであった」


 ヴァルグロアは重々しく呟いた。


 その声には、世界最恐の黒龍とは思えないほど深い後悔が滲んでいる。


 近くで巨大な酒樽を抱えていた魔猿王バルバロスが、たまらず豪快な笑い声を上げた。


「ガハハハッ! 大将は相変わらず心配性だな!」


「何がおかしい」


「ヴァルトだぞ? あの坊主をどうにかできる奴が、地上にいるとは思えねぇ」


 ヴァルトは十五歳にして、すでにフェンリルとバルバロスを打ち破っている。


 並の魔物はもちろん、人間の冒険者が束になったところで、傷一つ負わせられないだろう。


 そのことは、ヴァルグロア自身が誰よりも理解していた。


 だが、強いからといって心配しなくてよいわけではない。


 ヴァルトは、地上の常識をほとんど知らないのだ。


「強さの問題ではない。悪い人間に騙されておるかもしれぬ」


「ヴァルトを騙した人間のほうが、あとでひどい目に遭うんじゃねぇか?」


「食事はきちんと摂っておるのだろうか。腹を空かせて、その辺りに生えている草など食べておらぬだろうな」


「さすがのヴァルトでも、そこまで馬鹿では――」


 言いかけたフェンリルが口を閉ざす。


 オルフェウスも何も言わず、そっと視線を逸らした。


 その場にいた全員の脳裏に、何も考えず雑草を口へ運ぶヴァルトの姿が浮かんでいた。


「あり得るな」


 フェンリルが真顔で呟く。


「でしょう?」


 優雅な声とともに、吸血鬼王カーミラが微笑んだ。


「ですが、ご安心くださいませ。ヴァルトにはセレナがついておりますから」


「なに?」


 フェンリルが勢いよくカーミラを振り返る。


「セレナがついているだと?」


「ええ」


「お前の娘は、ヴァルトを追って勝手にダンジョンを抜け出したのではなかったか?」


「そのようですわね」


「そのようですわね、ではない! 知っていたのか!」


 フェンリルの声が黒龍の間に響き渡る。


 しかし、カーミラは少しも動じることなく、口元へ手を添えた。


「もちろんですわ。あの子が私に気づかれず、ダンジョンを抜け出せるとでも?」


「では、なぜ止めなかった!」


「止める理由がございませんもの」


 カーミラは涼しい顔で答えた。


「世間知らずなヴァルトには、礼儀と常識を知る世話役が必要です。セレナにとっても、地上を知るよい機会になるでしょう」


「それだけか?」


 フェンリルが疑いの眼差しを向ける。


「ほかに何か企んでいるのではないだろうな」


「あら。失礼ですこと」


 そう言いながらも、カーミラの笑みがわずかに深くなる。


「ただ私は、娘にはいずれ優れた殿方と結ばれ、立派な子を産んでもらいたいと思っているだけですわ」


 一瞬、黒龍の間が静まり返った。


 フェンリルの耳がぴくりと動く。


「……まさか」


「何のことでしょう?」


「カーミラ、自分の娘をヴァルトの嫁にするつもりか!」


「セレナが望むのであれば、私は反対いたしませんわ」


「抜け駆けだぞ!」


 フェンリルが牙をむき出しにして叫ぶ。


「ヴァルトの子を望むなど、ダンジョンに暮らす女ども全員の願いではないか! 俺の娘とて――!」


「でしたら、あなたも娘をヴァルトの旅へ同行させればよかったのでは?」


「なに?」


「ヴァルトと一緒になってダンジョンを駆け回り、毎日のように喧嘩ばかりしているから後手に回るのですわ」


「ヴァルトを鍛えるのは大切なことだ!」


「ええ。おかげで、女性への接し方を何も知らない野蛮な子に育ちましたけれど」


「それはカーミラの礼儀作法の教え方が悪いのだろう!」


「まあ。ワンちゃんに教育について語られるとは思いませんでしたわ」


「誰がワンちゃんだ!」


 フェンリルの全身から冷気が噴き出す。


 対するカーミラの周囲にも、深紅の魔力が立ち昇った。


 二人は互いに一歩も引かず、激しく睨み合う。


 黒龍の間に、目に見えない火花が散った。


「いい加減にせぬか!」


 ヴァルグロアの怒声が轟いた。


 最下層全体が大きく揺れ、天井から細かな石の粒が落ちてくる。


 フェンリルとカーミラは、同時に口を閉ざした。


「ヴァルトの伴侶を、我らが勝手に決めることは許さぬ」


 ヴァルグロアは二人を鋭く見下ろした。


「あやつには地上で多くの者と出会い、自らの意思で最愛の相手を見つけてもらいたい」


「ヴァルグロア様……」


 カーミラがわずかに目を見開く。


「ヴァルトが心から愛し、生涯をともにしたいと願う相手ならば、我はその選択を尊重する」


 ヴァルグロアはそこで言葉を切り、さらに低い声で続けた。


「もっとも、その者が我が息子にふさわしいかどうかは、我が直接確かめるがな」


「結局、簡単には認めねぇんじゃねぇか」


 バルバロスが小声で呟いた。


「静かに」


 隣にいたオルフェウスが制する。


 しかし、オルフェウス自身も同じことを思っていた。


 自由に相手を選んでほしいと言いながら、ヴァルトが誰かを連れて帰ってきた日には、ヴァルグロアはその相手を何日もかけて品定めするに違いない。


 本当に親馬鹿だ。


 オルフェウスとバルバロスは、心の中で呆れる。


 だが同時に、その気持ちも痛いほど理解できた。


 ヴァルトは赤子の頃から、彼ら全員で大切に育ててきたのだ。


 どこの誰とも分からない相手に、簡単に任せられるはずがない。


「ところで」


 オルフェウスがヴァルグロアへ顔を向ける。


「便りが届いた場合、どなたが最初に読むのでしょうか」


「無論、我だ」


「それはずるいぞ!」


「俺様にも読ませろ!」


「セレナのことが書かれている可能性もありますわ。私にも読む権利がございます」


 再び騒がしくなった黒龍の間に、ヴァルグロアの怒声が響き渡った。


 ******


 その頃。


 ヴァルトとセレナは、村の先にそびえる山を越え、麓へ到着していた。


 村を出てからしばらく山道を歩いた二人の前に、一軒の小さな山小屋が現れる。


 木々に囲まれた小屋は古びていたが、傷んでいる様子はない。


 屋根や壁は丁寧に手入れされ、入口へ続く細い道の雑草も綺麗に刈られていた。


「あれか?」


 ヴァルトが山小屋を指さす。


「村の人の話では、勇者ローガンの子孫は山の麓に住んでいるそうだから、おそらくそうでしょうね」


「よし」


 ヴァルトは迷うことなく小屋へ近づいた。


 そして、そのまま扉の取っ手へ手を伸ばす。


「待ちなさい」


 セレナがヴァルトの腕をつかんだ。


「なんだよ」


「なんだよ、ではないわ。あなた、何をしようとしているの?」


「中に入る」


「見れば分かるわよ。どうして勝手に入ろうとしているのかと聞いているの」


「勇者の子孫に会いに来たんだから、中にいるか確かめるのは当然だろ」


「人間の家に入るときは、先に扉を叩いて、家主の許可を得るのが礼儀なの」


 セレナはそう言うと、ヴァルトの手を扉から離させた。


「面倒くせぇな。中にいるなら、直接声をかけたほうが早いだろ」


「そういう考え方を野蛮と言うのよ」


「俺のどこが野蛮なんだ」


「その考え方が、すでに野蛮なの」


 セレナは呆れたように息を吐き、扉の前へ立つ。


 軽く拳を握り、扉を三度叩いた。


「ごめんください。どなたかいらっしゃいますか?」


 返事はない。


 セレナはもう一度、少し強く扉を叩いた。


「旅の者です。ローガン・アッシュベル様について、お話を伺いたいのですが」


 しかし、やはり小屋の中から声は聞こえなかった。


「留守なんじゃねぇか?」


「そのようね」


「なら、中で待つか」


「どうしてそうなるのよ!」


 ヴァルトはセレナの制止を無視し、扉の取っ手を回した。


 鍵はかかっていなかった。


 木製の扉が、きしむ音を立てながらゆっくりと開く。


「おい、誰かいるか?」


「勝手に入らないでと言ったでしょう!」


「返事がねぇんだから仕方ないだろ」


「仕方なくないわよ!」


 文句を言いながらも、セレナはヴァルトを一人で行かせるわけにはいかず、そのあとを追って小屋へ入った。


 室内に人の姿はなかった。


 しかし、長い間放置されている様子もない。


 床には埃一つなく、テーブルや椅子も綺麗に整えられていた。


 棚には何冊もの本が並び、壁には古びた剣や革製の鞄が大切そうに飾られている。


 テーブルの上には読みかけらしい本と、まだ湯気の残るカップが置かれていた。


「誰かいるみたいね」


 セレナが声を潜める。


「だったら出てくればいいだろ」


「あんたみたいな大剣を背負った男が突然家へ入ってきたら、普通は隠れるわよ」


「俺は何もしてねぇぞ」


「勝手に家へ入ったでしょう」


 ヴァルトはセレナの小言を聞き流しながら、室内を見回した。


 その目が、棚の上に並べられた何枚もの写真で止まる。


 写真はそれぞれ額縁に収められ、人間の姿が映っていた。


 ヴァルトはそのうちの一枚を手に取る。


「なんだ、これ」


「ちょっと。勝手に触らないの」


「絵か?」


 そこに映っているのは、剣を腰に差した一人の男だった。


 あまりにも精巧で、髪の一本一本や衣服の皺まで、本物のように見える。


「絵にしちゃ、やけに本物っぽいな」


「それは写真よ」


「しゃしん?」


「人間が作り出した魔道具を使って、そのときの景色や人の姿を、紙に写し取ったものよ」


「人間が、これを作ったのか?」


「ええ。魔族にはない技術ね」


「すげぇな」


 ヴァルトは目を輝かせ、写真を顔へ近づける。


 人間は魔族より弱い。


 これまで何度も、カーミラやオルフェウスからそう教えられてきた。


 だが、人間はその弱さを補うために、道具や技術を生み出す。


 その意味が、少しだけ分かった気がした。


「この中に入ってるわけじゃねぇんだよな?」


「入っていないわよ」


「喋ったりもしねぇのか?」


「しないわ」


「なら、そこまで便利じゃねぇな」


「何でも魔法と比べるのはやめなさい」


 棚には、同じ男が映った写真が何枚も並んでいた。


 若い頃らしい姿。


 仲間たちと肩を組み、笑っている姿。


 魔物らしき巨大な牙を前に、剣を掲げている姿。


 そして、髪に白いものが混じり始めた壮年の姿。


 写真を追うにつれ、男は少しずつ年老いていった。


 最後の一枚には、白髪の老人と、まだ幼い金髪の少女が並んでいる。


 老人は逞しい腕で少女を抱き上げ、豪快な笑顔を浮かべていた。


 ヴァルトはその老人をじっと見つめる。


 腰には使い込まれた剣。


 立っているだけで伝わってくる、堂々とした雰囲気。


 年老いてなお、その眼差しには強者らしい鋭さが残っていた。


「この爺が、勇者ローガンか?」


 ヴァルトが呟いた、そのときだった。


 小屋の奥から、何かが落ちる音が響く。


 がたん、と大きな音を立てて桶が床へ転がり、中の水が勢いよくこぼれた。


「誰ですか……?」


 少女の声だった。


 か細く、怯えを含んだ声。


 ヴァルトとセレナが同時に振り返る。


 小屋の奥にある扉の前に、一人の少女が立っていた。


 腰まで届く金色の髪。


 透き通るような蒼い瞳。


 白い肌に、小柄で華奢な身体。


 年齢は、ヴァルトより少し上に見える。


 少女は簡素な白いシャツと膝丈のスカートを身につけ、腰には細身の剣を差していた。


 しかし、その手は小刻みに震えている。


 床には少女が落とした桶が転がり、こぼれた水が足元へ広がっていた。


「誰って、俺はヴァルトだ」


 ヴァルトは少女へ向き直る。


 少女の肩がびくりと跳ねた。


 ヴァルトが背負う巨大な大剣を見て、その顔がみるみる青ざめていく。


 さらに、隣に立つセレナの深紅の瞳に気づくと、少女は一歩後ずさった。


「き、吸血鬼……?」


 震える声が漏れる。


 セレナは自身の瞳を隠すように、わずかに顔を背けた。


「落ち着いて。私たちは、あなたに危害を加えるつもりはないわ」


「そうだ。話を聞きに来ただけだ」


「それを言うなら、まず勝手に入ったことを謝りなさい」


「まだ言ってんのか」


「当然でしょう!」


 二人の言い争いを見て、少女は困惑したように目を瞬かせた。


 ヴァルトは構わず、手に持っていた写真を少女へ向ける。


「お前、この爺を知ってるか?」


 少女の表情が変わった。


 恐る恐る写真へ視線を向け、そこに映る老人を見つめる。


「……お祖父様」


「じいさん?」


「その方は……私の祖父です」


 少女は震える手を胸元へ添えた。


「ローガン・アッシュベルは、私の祖父です」


 ヴァルトの金色の瞳が、大きく見開かれる。


「じゃあ、お前が勇者の子孫か」


「は、はい……」


「名前は?」


 少女は一瞬ためらったあと、意を決したように顔を上げた。


「リリアです」


 まだ怯えは消えていない。


 それでも少女は、勇気を振り絞るように自らの名を口にする。


「リリア・アッシュベルと申します」


 父ヴァルグロアを倒した、唯一の人間。


 伝説の勇者ローガン・アッシュベル。


 その血を受け継ぐ少女が今、ヴァルトの目の前に立っていた。


 ヴァルトはリリアを、頭の先から足元まで眺める。


 華奢な身体。


 震える手。


 青ざめた顔。


 目が合っただけで、さらに一歩後ろへ下がる。


 ヴァルトが想像していた勇者の子孫とは、あまりにもかけ離れていた。


「お前、本当に勇者の孫なのか?」


「なっ……!」


 リリアの顔が、羞恥と動揺で赤く染まる。


「そ、そうです! 私は勇者ローガン・アッシュベルの孫です!」


「でも、さっきから震えてるぞ」


「ふ、震えてなどいません!」


「いや、震えてるだろ」


「これは、その……寒いだけです!」


 穏やかな春の日差しが、窓から室内へ差し込んでいる。


 ヴァルトは窓の外を見たあと、改めてリリアへ目を向けた。


「暖かいぞ?」


「うるさいです!」


 リリアの叫び声が、小さな山小屋に響き渡った。


 こうしてヴァルトは、伝説の勇者の孫娘と出会った。


 しかし、その少女が魔物を見るだけで足が震えるほど臆病であることを、彼はまだ知らなかった。

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