5.吸血鬼、セレナ・ブラッドローズ
ヴァルトが世界最恐のダンジョンを出てから、半日ほどが経っていた。
初めのうちは、見るものすべてが新鮮だった。
頭上に広がる青い空。
どこまでも続く森。
木々の隙間から差し込む日の光。風に揺れる草花。そして、枝から枝へと飛び移る小さな鳥。
どれもダンジョンの中にはなく、カーミラの授業で話を聞いただけのものばかりだ。
ヴァルトは物珍しそうに辺りを見回しながら、夢中になって森の中を歩き続けた。
しかし――。
「……どこまで行っても木ばっかりじゃねぇか」
数時間もすれば、その感動もすっかり薄れていた。
右を見ても木。
左を見ても木。
振り返っても、やはり木。
代わり映えのしない景色に飽きたヴァルトは、うんざりした顔で枝をかき分ける。
そのときだった。
ぐぅぅぅぅ……。
静かな森の中に、大きな腹の音が響き渡る。
「腹減った……」
ヴァルトはその場にどかりと腰を下ろした。
手近に生えていた草を一本引き抜き、何のためらいもなく口へ運ぶ。
「……苦ぇ」
顔をしかめて草を吐き出すと、背負っていた鞄を開けた。
中から取り出したのは、出発前に持たされた干し肉だった。以前ヴァルトが狩ったイノシシ型の魔物を、ダンジョンの使用人たちが保存食に加工したものである。
ヴァルトは干し肉へ大きくかじりつき、硬い肉を乱暴に噛みしめた。
味は悪くない。
だが、いつも食べていた温かい料理と比べれば、どうしても物足りなかった。
「これからは、飯も自分で用意しなきゃならねぇのか……」
狩りの方法も、火の起こし方も知っている。
魔物の解体だって、フェンリルやバルバロスから叩き込まれていた。
それでも、毎日の食事となれば話は別だ。
これまでは使用人たちが当たり前のように食事を用意してくれていたため、自分で献立を考えたことなど一度もない。
今さらながら、ダンジョンでの暮らしがどれほど恵まれていたのかを思い知らされる。
やがて辺りが暗くなり、空には白く輝く丸いものが昇り始めた。
ヴァルトは草の上に寝転がり、それを見上げる。
「これが夜ってやつか。んで、あのまん丸いのは……なんつったっけ?」
オルフェウスの授業で習った気がする。
しかし、肝心の名前が出てこない。
「まあ、いいか」
考えることを早々に諦め、ヴァルトは野宿の準備を始めた。
乾いた枝を集め、手際よく火を起こす。さらに、近くの落ち葉や柔らかい草を集め、簡単な寝床も作った。
準備を終えてしまえば、ほかにすることは何もない。
ヴァルトは焚き火の前に仰向けになり、燃える薪を眺めながら、父から聞いた男のことを思い浮かべた。
伝説の勇者――ローガン・アッシュベル。
あのヴァルグロアを、たった一人で打ち破った人間。
「親父に勝ったローガン・アッシュベルか……。どんな奴なんだろうな」
父から話を聞いて以来、会ってみたいという気持ちは強くなる一方だった。
どれほど大きな男なのか。
どのような武器を使い、どのようにしてヴァルグロアを倒したのか。
そんなことを考えていたヴァルトは、先ほどから気になっていたことを不意に口にした。
「で――お前、どこまでついてくるつもりだ?」
返事はなかった。
森の中には、薪がぱちぱちと爆ぜる音だけが響いている。
ヴァルトは面倒くさそうに顔を上げ、近くに立つ木の陰へ視線を向けた。
「隠れてねぇで出てこいよ、セレナ」
しばらくの沈黙のあと、木の陰から一人の少女が姿を現した。
腰まで伸びた銀髪。
闇の中で淡く輝く深紅の瞳。
黒と深紅を基調とした旅装に身を包んだ、純血の吸血鬼――セレナ・ブラッドローズだった。
セレナは不満そうに腕を組む。
「……いつから気づいていたの?」
「ダンジョンを出たときから」
「最初からですって?」
「ああ」
あまりにも平然と答えるヴァルトに、セレナの眉がぴくりと動いた。
「だったら、どうして声をかけなかったのよ」
「黙ってりゃ、そのうち諦めて帰ると思った」
「帰るわけがないでしょう?」
「帰れよ」
「嫌よ」
間髪を入れずに返され、ヴァルトは露骨に嫌そうな顔をした。
「なんでだよ」
するとセレナは腰に手を当て、胸を張った。
まるで、それが世界の常識であるかのように、堂々と言い放つ。
「弟を一人で旅に出す姉が、どこにいるというの?」
「誰が弟だ。お前はカーミラの娘だろ」
「私のほうが年上なのだから、似たようなものでしょう?」
「全然違ぇよ」
「細かいことを気にする男は嫌われるわよ」
「お前に好かれなくても困らねぇ」
ヴァルトは追い返そうとしたが、セレナに帰る様子は微塵もなかった。
それどころか、彼女は近くの木の枝に吊るしていた獲物を持ってくると、慣れた手つきで肉を切り分け始めた。
どうやら、ヴァルトを追いかける途中で仕留めたらしい。
「お前、それどうしたんだ?」
「途中で見つけたから仕留めたのよ。あなたと違って、私は草をかじるほど落ちぶれていないもの」
「見てたのかよ」
「ええ。いきなり道端の草を食べ始めたときは、本気で心配したわ」
「毒があるか確かめただけだ」
「口に入れて確かめる必要はないでしょう」
セレナは呆れたようにため息をつき、獣肉を串に刺した。
それを焚き火にかざすと、溶け出した脂が火の中へ落ち、じゅうっと音を立てる。
しばらくすると、香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。
「……おい」
ヴァルトの視線が、焼かれている肉へ釘づけになる。
口元からは、本人も気づかないうちによだれが垂れていた。
肉が焼き上がると、セレナはヴァルトに見せつけるように一口かじった。
「ん。なかなか美味しいわね」
「…………」
「欲しいの?」
「別に」
そう答えながらも、ヴァルトの視線は肉からまったく離れない。
セレナは小さくため息をつくと、もう一本の串をヴァルトへ差し出した。
「本当に、私がいないと何もできないのね」
「……頼んでねぇぞ」
「そうね。いらないなら、私が食べるけれど?」
セレナが串を引っ込めようとした瞬間、ヴァルトは素早く肉を奪い取った。
「誰もいらねぇとは言ってねぇ」
ヴァルトは肉へ勢いよくかぶりついた。
一口で大きく引きちぎり、口いっぱいに頬張る。肉汁を口元から垂らしながら、ろくに噛みもせず飲み込んでいく。
「うめぇ!」
さらに串を横からくわえ、歯だけで肉を引き抜こうとする。
その姿を見たセレナの頬が、ぴくりと引きつった。
「ちょっと、ヴァルト」
「あん?」
「口に物を入れたまま話さないの」
「聞こえたならいいだろ」
「よくないわ。まず、一度にそんなに頬張らない。きちんと少しずつ食べなさい」
「腹に入れば同じだろ」
「同じではありません!」
セレナの鋭い声が、森に響き渡る。
だが、ヴァルトはまるで気にせず、次の肉へかぶりついた。
「それから、背筋を伸ばす! 肘を膝につかない! 串を振り回さない! 口元についた脂も拭きなさい!」
「うるせぇな。飯くらい好きに食わせろよ」
「人間の街でも、その食べ方をするつもりなの?」
「駄目なのか?」
「当たり前でしょう! そんな食べ方をしたら、周りから野蛮人だと思われるわよ!」
「俺はダンジョン育ちだからな」
「誇らしげに言うことではありません!」
セレナは鞄から布を取り出し、ヴァルトの口元へ強引に押しつけた。
「むぐっ!」
「まったく。お母様から何年も礼儀作法を教わっていたのに、どうして何一つ身についていないのかしら」
「カーミラの授業は長ぇんだよ。途中で眠くなる」
「お母様に聞かれたら、血の池に沈められるわよ」
「カーミラはそんなことしねぇだろ」
「では、今度会ったときに伝えておくわね。ヴァルトが授業中はずっと寝ていた、と」
肉を食べていたヴァルトの手が止まる。
「……待て」
「何かしら?」
「それは卑怯だろ」
「私は事実を伝えるだけよ」
セレナは勝ち誇ったように微笑んだ。
ヴァルトは不満そうに顔をしかめたものの、しぶしぶ姿勢を正す。
そして、先ほどよりも少しだけ小さく肉をかじり、口を閉じて噛み始めた。
「これでいいんだろ」
「まだ串の持ち方がなっていないわ」
「串に持ち方なんかあんのかよ!」
「当然でしょう。まず、指先を――」
「やっぱり帰れ、お前!」
ヴァルトの怒鳴り声とセレナの説教が、夜の森に響き渡る。
静かだったはずの初めての野宿は、ダンジョンにいた頃と変わらない騒がしさに包まれていた。
こうしてセレナは、ヴァルトの意思を半ば無視する形で、彼の旅へ加わることとなった。
最恐ダンジョンで育った世間知らずな少年と、姉を自称する高飛車な吸血鬼の少女。
二人の騒がしい旅が、静かな森の中で幕を開けたのだった。




