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4.ヴァルト旅立つ

 月日は流れ、ヴァルトは十四歳の春を迎えていた。


 幼い頃から何度も拳を交え、武術や狩りを教えてくれた魔狼王フェンリル。


 そのフェンリルを、ヴァルトはついに真正面から打ち破った。


「くそっ……ついに負けちまったか」


 地面に横たわったフェンリルが、悔しそうに牙をむく。


 ヴァルトは荒い息を吐きながら、その隣に腰を下ろした。


「だから言っただろ。もう俺のほうが強ぇって」


「一回勝っただけで調子に乗るな。これまで何百回、俺に転がされたと思ってやがる」


「覚えてねぇ」


「そこは覚えておけ!」


 フェンリルの怒鳴り声が、広間に響き渡る。


 だが、その声には怒りよりも、どこか誇らしさが滲んでいた。


 しかし、ヴァルトの修行はそこで終わらない。


 フェンリルの次に立ちはだかったのは、ダンジョン四天王の一人――魔猿王バルバロスだった。


 三メートルを超える巨体から繰り出される拳は、岩壁を砕き、大地を揺らす。


 対するヴァルトも、大剣と龍闘術を駆使して真正面から応戦した。


 二人が激突するたび、最下層の広間に轟音が響き渡る。


「どうした、ヴァルト! そんなものでは、この俺様は倒せんぞ!」


「うるせぇ! だったら、そのでかい尻を地面につけてやるよ!」


「がはははっ! 言うようになったではないか!」


 拳と大剣が激突し、凄まじい衝撃波が周囲へ広がる。


 戦いは長く続いた。


 ヴァルトの全身には傷が刻まれ、バルバロスの身体にも無数の斬撃痕が残っていた。


 それでも、ヴァルトは立ち続けた。


 最後はバルバロスの拳を紙一重でかわし、その懐へ飛び込む。


 そして、全身の力を込めた一撃を巨体へ叩き込んだ。


「おおおおおおっ!」


 バルバロスの身体が宙を舞い、地面へと叩きつけられる。


 しばらくの沈黙の後、バルバロスは仰向けになったまま豪快に笑った。


「がははははっ! 参った! 俺様の負けだ!」


「……やっと言ったな」


 ヴァルトは笑みを浮かべると、その場に膝をついた。


 戦いを見守っていたオルフェウスは、杖を鳴らしながら静かに頷く。


「力の使い方はまだ粗いですが、成長したことだけは認めましょう」


「素直に褒めろよ、骨野郎」


「誰が骨野郎ですか」


 その隣では、カーミラが胸元に手を添え、心配そうにヴァルトを見つめていた。


「もう、傷だらけではありませんか。男の子だからといって、無茶をしすぎですわ」


「これぐらい、すぐ治る」


「治るからといって、傷ついてよいという話ではありません」


「そうだぞ、ヴァルト」


 低く重々しい声が、広間に響く。


 ヴァルトが顔を上げると、そこには巨大な黒龍――ヴァルグロアがいた。


 黄金の瞳が、倒れたバルバロスとヴァルトを順番に見つめる。


「バルバロスを打ち破ったか」


「ああ」


「よくやった」


 その一言を聞いたヴァルトの顔に、わずかな笑みが浮かぶ。


 だが、ヴァルトはすぐに大剣を握り直した。


「親父。次は、俺と戦ってくれ」


 広間の空気が変わる。


 フェンリルが起き上がり、カーミラが目を見開く。


 オルフェウスも、いつになく真剣な眼差しをヴァルトへ向けた。


 ヴァルグロアはしばらく黙って息子を見つめていた。


「今のお前は、すでに限界に近い」


「まだ動ける」


「身体の傷の話ではない。魔力も気力も、ほとんど残ってはいまい」


「それでもだ」


 ヴァルトは大剣の切っ先を父へ向ける。


「フェンリルにも勝った。バルバロスにも勝った。今度は親父が、どれぐらい強いのか知りたい」


「……後悔するぞ」


「するかよ」


 ヴァルグロアは目を閉じ、静かに息を吐いた。


「よかろう」


 その瞬間、広間を満たす空気が震えた。


 父と息子の戦いが始まる。


 ヴァルトは最初から全力だった。


 地面を蹴り、大剣を振るい、炎と雷の魔法を同時に放つ。


 フェンリルやバルバロスとの戦いで培ったすべてを、父へぶつけた。


 だが、ヴァルグロアは微動だにしない。


 大剣を爪で受け止め、魔法を翼の一振りでかき消す。


「まだだ!」


 ヴァルトは咆哮し、龍威を解き放つ。


 しかし、ヴァルグロアが放つ龍王の覇気は、そのすべてを真正面から押し返した。


「力だけで敵を屈服させようとするな」


「なら、どうしろってんだ!」


「考えろ。感じろ。そして、守るべきものを思い浮かべろ」


「戦ってる最中に説教すんな!」


 ヴァルトが懐へ飛び込み、拳を振り抜く。


 だが、その一撃が届くより早く、ヴァルグロアの尾が動いた。


 次の瞬間、ヴァルトの身体は大きく吹き飛ばされ、岩壁へと叩きつけられる。


「ぐっ……!」


 それでも立ち上がろうとするヴァルトへ、ヴァルグロアは静かに近づいた。


「終わりだ」


「まだ……終わってねぇ」


 膝を震わせながら、ヴァルトは大剣を杖代わりにして立ち上がる。


 ヴァルグロアは、そんな息子の姿をじっと見つめていた。


 その黄金の瞳には、厳しさと同時に、隠しきれない誇らしさが浮かんでいる。


「ならば、立ってみせろ」


「言われなくても……!」


 ヴァルトは再び踏み出そうとする。


 だが、限界を迎えた身体は言うことを聞かず、その場に倒れ込んだ。


 地面にぶつかる寸前、その身体をヴァルグロアの巨大な爪が受け止める。


「……だから言ったのだ。限界に近いと」


 意識を失ったヴァルトを、ヴァルグロアは壊れ物を扱うように、そっと持ち上げた。


 先ほどまでの凄まじい威圧感は、もうどこにもない。


「ヴァルグロア様」


 カーミラが近づくと、ヴァルグロアは落ち着かない様子でヴァルトの傷を見つめた。


「傷は深いか」


「この程度でしたら、ヴァルトの再生能力ですぐに治りますわ」


「本当だろうな」


「ええ」


「骨は折れていないか」


「肋骨に二本ほど、ひびが入っている程度です」


「二本もか」


 ヴァルグロアの声が低くなる。


 カーミラは呆れたように眉を下げた。


「傷を負わせたのは、ヴァルグロア様でしょう?」


「手加減はした」


「その手加減が、ほかの者にとっては必殺の一撃なのです」


 傍らで聞いていたフェンリルが、鼻を鳴らす。


「心配なら、最初から戦わなきゃよかったのに」


「挑まれた以上、父として応えねばならん」


「なら、そんな顔をするなよ」


「どんな顔だ」


「今にも泣きそうな顔だ」


「泣いてなどおらん」


「龍の姿じゃ分かりにくいだけで、絶対泣きそうだぞ」


「黙れ、フェンリル」


 ヴァルグロアの尾が動き、フェンリルを壁際まで弾き飛ばす。


「なぜ俺まで殴られる!」


「騒ぐな。ヴァルトが起きる」


「お前が飛ばした音のほうがでかいだろうが!」


 ヴァルグロアは言い争うフェンリルを無視し、ヴァルトを自らの寝床へと運んでいく。


 オルフェウスが後ろから声をかけた。


「治療室へお運びになったほうがよろしいのでは?」


「我の傍のほうが安全だ」


「このダンジョンで、ヴァルト様を襲える者などおりません」


「万が一ということもある」


「ありません」


「あるかもしれん」


 結局、ヴァルトはヴァルグロアの寝床へ寝かされることになった。


 ヴァルグロアは人の姿へ変わると、眠るヴァルトの傍らに腰を下ろす。


 カーミラが傷の手当てを終えた後も、その場から離れようとはしなかった。


「ヴァルグロア様。ヴァルトはもう十四歳ですわ」


「知っている」


「一晩中、傍についていなくても大丈夫です」


「私はここで休むだけだ」


「そういうことにしておきましょう」


 カーミラは微笑みながら、静かに部屋を出ていった。


 夜が深まった頃。


 ヴァルトはゆっくりと目を開けた。


「……親父?」


「起きたか」


 すぐ傍から声が返ってくる。


 ヴァルトは身体を起こそうとしたが、ヴァルグロアが肩に手を置いて止めた。


「まだ寝ていろ」


「これぐらい、平気だ」


「平気な者は、戦いの最中に倒れたりはせん」


「親父が強すぎんだよ」


「それは否定せん」


「そこは少しぐらい謙遜しろ」


 ヴァルトが不満そうに呟く。


 ヴァルグロアは水の入った器を差し出した。


「飲め」


「自分で持てる」


「手が震えている」


「震えてねぇ」


「震えている」


 しばらく睨み合った末、ヴァルトは諦め、父の手から水を飲んだ。


「……子供扱いすんなよ」


「私にとって、お前はいつまで経っても子供だ」


「俺はもう十四だぞ」


「昨日まで、私の尾にしがみついて寝ていたではないか」


「それ、十年以上前の話だろ!」


「つい最近のことのように覚えている」


 ヴァルトは恥ずかしそうに顔を背けた。


 しばらく静かな時間が流れる。


 やがてヴァルトは天井を見上げたまま、口を開いた。


「親父」


「なんだ」


「人間と、本気で戦ったことはあるのか?」


 ヴァルグロアの表情が、わずかに変わる。


「なぜ、そのようなことを聞く」


「今日、親父と戦って思ったんだ」


 ヴァルトは悔しそうに拳を握る。


「俺じゃ、まるで歯が立たなかった。でも、人間の中にも親父と戦える奴がいるのか気になった」


 ヴァルグロアは答えず、遠い記憶を見つめるように目を細めた。


「一人だけいる」


「本当か?」


 ヴァルトが勢いよく起き上がろうとし、脇腹を押さえる。


「いってぇ……」


「だから寝ていろと言っただろう」


 ヴァルグロアは慌ててヴァルトを寝かせ、毛布を掛け直した。


「傷が開いたらどうする」


「大げさだな」


「大げさではない。お前の身体に傷が残れば、一大事だ」


「戦うたびに傷だらけになってるだろ」


「そのたびに私は心配している」


「親父、自分で俺を吹っ飛ばしたよな?」


「それとこれとは話が別だ」


「別なのかよ」


 ヴァルトは呆れたように笑う。


「それで、その人間は誰なんだ?」


「ローガン・アッシュベルという男だ」


 ヴァルグロアは、数十年前に出会った一人の勇者について語り始めた。


 平民として生まれながら、剣一本で多くの仲間を守り、やがて人々から勇者と呼ばれるようになった男。


 圧倒的な力を持つ魔族を前にしても決して退かず、最後まで剣を握り続けた人間。


 そして、長い生涯の中でヴァルグロアを唯一打ち破った男。


「親父が、負けたのか?」


「ああ」


「本当に?」


「二度も聞くな」


「だって、信じられねぇ」


 ヴァルトは驚きに目を見開く。


「そいつ、そんなに強かったのか?」


「力だけなら、今のお前にも及ばぬ」


「じゃあ、どうやって親父に勝ったんだ」


「守るものがあったからだ」


 ヴァルグロアは静かに答えた。


「ローガンは、自分が傷つくことを恐れなかった。自分の後ろにいる仲間や人々を守るためならば、命さえ惜しまなかった」


「命を捨てるのが、強さなのか?」


「違う」


 ヴァルグロアは首を横に振る。


「強さとは、生きて守り抜くことだ。ローガンは死ぬために戦ったのではない。皆と共に生きて帰るために戦った」


 ヴァルトは黙り込み、その言葉を胸の中で反芻する。


「会ってみてぇな、そのローガンって奴に」


「そうか」


「親父を倒した方法を聞いて、俺も試す」


「私を倒すことしか考えておらんのか」


「当たり前だろ。次は絶対に勝つ」


 ヴァルグロアは小さく笑った。


 その笑みは、世界最恐と恐れられる黒龍のものではなく、一人の息子の成長を喜ぶ父親のものだった。


「ヴァルト」


「なんだ?」


「お前には、いつか人間の世界を知ってほしい」


 ヴァルトは父の顔を見つめる。


「俺は、このダンジョンで十分だ。親父も、兄貴も、みんないる」


「それでもだ」


 ヴァルグロアは、ヴァルトの頭へ静かに手を置いた。


「お前は人間として生まれた。だから人間の世界で生きろと言うつもりはない。魔族として生きろとも言わん」


「じゃあ、どうしろってんだ」


「自分の目で見て、自分で決めろ」


 その言葉に、ヴァルトは目を瞬かせる。


「人間の中にも、愚かな者はいる。だが、ローガンのような者もいる。弱くとも誰かを守ろうとし、恐れながらも前へ進む者たちがいる」


 ヴァルグロアは、息子の黒い髪をゆっくりと撫でる。


「お前が何者として生きるのか。それを決めるのは、私でも、お前を捨てた人間でもない。お前自身だ」


「……親父は、俺が外へ行ってもいいのか?」


「止めたい」


 ヴァルグロアは即答した。


「危険な目には遭わせたくない。傷つけられる姿など見たくもない。できることなら、いつまでもここで暮らしてほしい」


「それじゃ、さっきの話と違うだろ」


「父親とは、矛盾するものだ」


 ヴァルトは思わず吹き出した。


「なんだよ、それ」


「私にも分からん。お前を育ててから、分からぬことばかり増えた」


「世界最強のくせに?」


「世界最強でも、父親としてはまだ十四年しか生きておらん」


 ヴァルトは笑った後、少しだけ真剣な顔になる。


「なら、いつか行ってみるよ」


「そうか」


「ローガンに会って、親父を倒した方法を聞く。それから、人間の世界ってのがどんな場所か、この目で確かめる」


 ヴァルグロアは、すぐには答えなかった。


 やがて、ヴァルトの頭をもう一度撫でる。


「その時が来たならば、私は喜んでお前を送り出そう」


「心配だからって、後ろからついてくんなよ」


「……考えておこう」


「絶対についてくる気だろ」


 親子の笑い声が、静かな夜のダンジョンに響いた。


 それから、さらに一年の歳月が流れる。


 十五歳の春。


 ヴァルトは、父と交わした約束を果たすことを決意する。


 目的は、伝説の勇者ローガン・アッシュベルに会うこと。


 そして、人間の世界を自らの目で確かめること。


 出発の日。


 ダンジョンの入口には、ヴァルグロアと四天王たちが集まっていた。


「食料は持ったか」


「ああ」


「薬は」


「カーミラが山ほど入れた」


「予備の剣は」


「バルバロスが三本も持たせやがった」


「寒くはないか」


「春だぞ」


「夜は冷える」


「黒龍の鱗で作ったコートを着てるんだから平気だ」


「知らぬ者についていくな」


「俺を何歳だと思ってんだ!」


 ヴァルトが声を荒らげると、フェンリルとバルバロスが大笑いする。


 カーミラは目元を押さえ、オルフェウスは何度も旅の注意事項を確認していた。


 ヴァルグロアは、最後まで何か言いたそうに息子を見つめていた。


「親父」


「なんだ」


「行ってくる」


 その言葉に、ヴァルグロアはしばらく沈黙する。


 そして、ヴァルトの肩へ大きな手を置いた。


「行ってこい」


「ああ」


「これだけは心に刻め。たとえ世界の果てまで行こうとも、ここがお前の帰る場所だ。お前の家は、いつまでもここにある」


 ヴァルトは一瞬だけ目を伏せた後、いつもの不敵な笑みを浮かべた。


「分かってるよ、親父」


 こうして十五歳になったヴァルトは、育ててくれた父と家族たちに見送られ、生まれて初めてダンジョンの外へと踏み出した。


 この先で、ローガンがすでにこの世を去っていることも。


 その孫娘であるリリア・アッシュベルと出会うことも。


 そして、自らを捨てた人間の国と再び関わることになることも――。


 今のヴァルトは、まだ知らない。


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