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3.ヴァルトの過去

 世界最恐のダンジョン、その最下層。


 黒龍ヴァルグロアが支配するこの場所には、地上の人間たちが想像もしないような部屋が存在していた。


 壁一面に並ぶ本棚。そこには、古びた歴史書や魔導書、人間の国々について記された書物が収められている。部屋の中央には、巨大な魔物が使うにはあまりにも小さな机と椅子が置かれていた。


 そこは、ヴァルトのために作られた勉強部屋だった。


「ですから、人間と出会ったからといって、いきなり威圧してはいけません」


 机に頬杖をついたヴァルトの前で、吸血鬼王カーミラが人差し指を立てる。


 先ほどまで自由時間だったはずのヴァルトは、勉強部屋を抜け出してフェンリルと遊び、人間の冒険者たちを騒ぎに巻き込んだ。


 その結果、ヴァルグロアから雷のような叱責を受け、罰として人間社会について学ばされているのだった。


「でもよ、あいつらが兄貴を馬鹿にしたんだぞ」


「それでも、です」


 カーミラは笑顔を崩さなかった。


 だが、その赤い瞳の奥には、有無を言わせぬ迫力がある。


「人間の世界では、腹が立った相手を威圧して気絶させることを、話し合いとは呼びません」


「殺してねえんだから、いいだろ」


「よくありません」


「ちぇっ……」


 ヴァルトは不満そうに唇を尖らせた。


 その様子を見たカーミラは、小さくため息をつきながらも、どこか楽しそうに微笑む。


「ヴァルトは、人間について知らなさすぎるのです。これからは歴史や文化だけでなく、礼儀や人との接し方も学ばなくてはなりません」


「なあ、カーミラ」


「なんでしょう?」


「カーミラは、人間に会ったことがあるのか?」


 その問いに、カーミラはわずかに目を細めた。


「ええ。ありますよ」


「本当か?」


 先ほどまで退屈そうにしていたヴァルトが、身を乗り出す。


 カーミラは遠い記憶を懐かしむように、静かに語り始めた。


「人間は、私たち魔族と比べれば小さく、力も弱い者たちです。寿命も短く、ひとりでできることなど、たかが知れています」


「やっぱり弱いんじゃねえか」


「ですが――決して侮ってはいけません」


 カーミラの声から、いつもの軽やかさが消えた。


「人間の持つ知恵は、ときに純粋な力を凌駕します。ひとりでは敵わない相手にも、道具を作り、罠を仕掛け、仲間と協力することで立ち向かう。昨日までできなかったことを、今日はできるようになっている。それが人間という種族なのです」


「知恵、か……」


「ええ。彼らの知恵と可能性は、計り知れない力を秘めています」


 カーミラはそう言うと、机の上に広げていた地図をヴァルトの前へ差し出した。


 そこには、多くの国や街、村、山脈、海が描かれている。


「人間は、国という大きな集団を作って暮らしています。国には王がいて、王を支える貴族がいます。その下には騎士や兵士、商人、職人、農民など、さまざまな役割を持つ者たちがいるのです」


「王って、親父みたいなもんか?」


「似ている部分もありますが、だいぶ違いますね」


「じゃあ、オルフェウスか?」


「それはもっと違います」


 カーミラは苦笑すると、人間の街並みや貨幣、食事、宿屋、冒険者について順番に説明していった。


 ヴァルトは時折あくびをしながらも、その日初めて目にした人間たちへの興味から、いつもより真剣に話を聞いていた。


 その頃――。


 勉強部屋から少し離れた黒龍の間には、ヴァルグロアと、カーミラを除くダンジョン四天王が集まっていた。


 巨大な銀狼の姿をした魔狼王フェンリル。


 漆黒の法衣をまとったリッチロード・オルフェウス。


 三メートルを超える巨体を持つ魔猿王バルバロス。


 彼らの視線の先には、玉座に座る黒龍ヴァルグロアの姿があった。


「しかし、あの小僧がこのダンジョンへ来てから、もう八年か」


 大きな酒樽を片手に、バルバロスが豪快に笑う。


「早いもんだな。最初は手のひらほどの大きさしかなかったってのによ」


「俺の背に乗って遊ぶようになるとは、誰が想像しただろうな」


 フェンリルが鼻を鳴らす。


「そして今では、授業を抜け出す常習犯です」


 オルフェウスが苛立たしげに杖を鳴らした。


「昨日教えた計算問題も、まだ完全には理解していません。にもかかわらず、フェンリルと遊ぶ時間だけは忘れない」


「俺のせいではない。ヴァルトが勝手についてくるのだ」


「毎回、同じ言い訳をしていますね」


「事実だ」


「まあまあ。元気なのはいいことじゃねえか」


 バルバロスは笑いながら酒をあおる。


 ヴァルグロアは騒がしい三人を見つめたあと、ゆっくりと目を閉じた。


 八年前の出来事が、鮮明に蘇る。


 ――アルヴェリア王国。


 広大な領土と強大な軍事力を持つその国に、ひとりの王子が生まれた。


 国王の六番目の息子。


 第六皇子として生を受けた赤子には、本来ならば国中から祝福が贈られるはずだった。


 しかし、その誕生を祝う声は長く続かなかった。


 王族には、子が生まれた際、その能力を調べる習わしがある。


 国王自らが持つ固有能力――鑑定眼。


 それは対象の能力や適性、秘められた力を数値として見抜く、王家に代々受け継がれてきた力だった。


 国王は生まれたばかりの我が子を抱き上げ、その力を使った。


 だが、そこに示された結果を目にした瞬間、王の表情が凍りついた。


 筋力、ゼロ。


 耐久、ゼロ。


 魔力、ゼロ。


 敏捷、ゼロ。


 知力、ゼロ。


 すべての能力値が、ゼロ。


 王の鑑定眼には、そう映っていた。


「王家に、無能な者は必要ない」


 国王は赤子を王家の恥と断じ、その存在を国の歴史から消すことを決めた。


 表向きには、生まれて間もなく病で亡くなったことにされた。


 そして赤子は、世界最恐と呼ばれるダンジョンに棲む黒龍への供物として、密かに城から運び出された。


 何人もの兵士や商人、裏社会の者たちの手を渡り、やがて赤子はダンジョンの入口へとたどり着いた。


 そこから魔物たちの手によって最下層まで運ばれ、黒龍ヴァルグロアの前へと差し出された。


 最初、ヴァルグロアは人間たちが置いていった籠に、さしたる興味を抱かなかった。


 人間が供物を差し出すことなど、過去にも何度かあったからだ。


 腹が減っていれば食らい、そうでなければ配下の魔物たちに与える。


 その程度にしか考えていなかった。


 ヴァルグロアは籠の中を覗き込み、低い声で呟いた。


『人間の赤子か。ずいぶんと小さいな』


 赤子は泣いていなかった。


 黄金の瞳で自分を見下ろす巨大な黒龍を、怯えることなく見つめ返していた。


 やがて小さな手を伸ばし、ヴァルグロアの鼻先に触れようとする。


『……ふむ』


 ヴァルグロアは口を開いた。


 食らってしまおうか。


 一瞬、そう考えた。


 だが、赤子はそんな黒龍を前に、無邪気な笑みを浮かべた。


『……可愛いではないか』


 思わず漏れた言葉に、周囲の魔物たちが耳を疑った。


 世界を滅ぼす災厄。


 人間たちから魔王と恐れられる黒龍。


 そのヴァルグロアが、ひとりの赤子を前に動きを止めていた。


『人間どもは、能力のない赤子だと言っていたな』


 ヴァルグロアは、赤子の内側を覗き込むように目を細めた。


『まあよい。可愛さの能力だけでも高ければ、生かしてやろう』


 半ば気まぐれに、ヴァルグロアは赤子を鑑定した。


 その直後だった。


 黒龍の黄金の瞳が大きく見開かれた。


 筋力――無限。


 耐久――無限。


 魔力――無限。


 敏捷――無限。


 知力――無限。


 あらゆる能力値の欄には、ゼロではなく、見たこともない記号が並んでいた。


 それは、数値では表せない力。


 果てのない可能性。


 すべての能力が、無限であることを意味していた。


『オールゼロではない』


 ヴァルグロアの声が、黒龍の間に響き渡る。


『オール無限だと……?』


 人間の王が見たゼロは、ゼロではなかった。


 あまりにも大きすぎる力を王の鑑定眼では正しく読み取れず、無限を示す記号の一部だけを見て、ゼロと誤認したのだ。


『愚かな王よ』


 ヴァルグロアは、自分の鼻先に触れようとする赤子を見つめた。


『己の子が持つ力すら見抜けず、王家の恥として捨てるとはな』


 赤子は、ヴァルグロアの言葉など理解していない。


 ただ楽しそうに手を伸ばし、漆黒の鱗に触れて笑っていた。


 その瞬間、ヴァルグロアの中で何かが変わった。


『よかろう』


 ヴァルグロアは巨大な爪を慎重に動かし、壊れ物を扱うように赤子を持ち上げた。


『人間がお前を捨てたというのなら、今日から我が育てる』


 赤子が、きゃっきゃと声を上げた。


『名がなければ不便だな』


 ヴァルグロアはしばし考え、やがて告げた。


『お前の名は、ヴァルトだ』


 その日から、人間に捨てられた第六皇子は、黒龍の息子となった。


 ヴァルグロアが父となり、ダンジョンに棲む魔王たちが家族となった。


 フェンリルからは、戦い方と狩りを。


 オルフェウスからは、魔法と学問を。


 カーミラからは、礼儀作法と人間社会について。


 バルバロスからは、武器の扱いと豪快な笑い方を教わった。


 そうして、八年の歳月が流れた。


「まさか、あの小さな赤子が、これほど騒がしい子供になるとはな」


 回想を終えたヴァルグロアが、呆れたように息を吐く。


「ですが、後悔はしていないのでしょう?」


 フェンリルの問いに、ヴァルグロアは答えなかった。


 ただ、勉強部屋のある方向へと顔を向ける。


 遠くから、ヴァルトの大きな声が聞こえてきた。


「なあ、カーミラ! 人間の街には、でっかい肉を売ってる店もあるのか?」


「ありますが、お金を払わなければ食べられませんよ」


「金? 倒したやつから奪えばいいのか?」


「どうしてそうなるのですか!」


 続いて、カーミラの叱る声が響く。


 フェンリルとバルバロスは顔を見合わせ、オルフェウスは骨だけの額に手を当てた。


 ヴァルグロアは静かに目を細める。


 その黄金の瞳には、世界最恐の黒龍には似つかわしくない、穏やかな光が浮かんでいた。


「人間の王が見捨てたあの子は、今や我らの宝だ」


 誰に聞かせるでもなく、ヴァルグロアは呟いた。


「何者が異を唱えようとも、ヴァルトは我が子だ。我が息子を否定する者は、この我が許さぬ」


 人間の国で無能と呼ばれた王子。


 しかし、彼の本当の力を知る者は、まだこのダンジョンの住人たちしかいない。


 そして地上の人々は、知る由もなかった。


 自分たちが捨てた少年が、世界の理すら覆しかねない無限の力を秘めていることを。


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