1.世界最恐のダンジョンと八歳の怪物
深い森の中を、四人の冒険者が歩いていた。
人の手が入らなくなって久しいのだろう。足元には背の高い草が生い茂り、頭上では絡み合った枝葉が陽の光を遮っている。
「たしか、この辺りのはずなんだが……」
先頭を歩く剣士が、使い古された地図を広げながら周囲を見回した。革鎧をまとい、腰に長剣を提げた彼が、この一行を率いるリーダーらしい。
「だから言っただろ。もっと金を出して、精度の高い地図を買えばよかったんだよ」
後ろを歩く筋骨隆々の大男が、酒瓶を傾けながら豪快に笑う。背負った巨大な戦斧と、その屈強な体つきからして、戦士であることは一目瞭然だった。
「ちょっと、飲みすぎよ」
尖った帽子をかぶった女魔導士が、呆れたように眉をひそめる。
「これから黒龍と戦おうというのですよ。そんなに酔っていて、本当にまともに戦えるのですか?」
杖をついた年配の僧侶も、心配そうに大男を見つめた。
「酒が入ってる方が調子がいいんだよ。黒龍だろうが何だろうが、この斧でぶった斬ってやるさ」
大男はそう言って、再び酒をあおる。
そのときだった。
「――あったぞ」
剣士が足を止めた。
生い茂る蔦と苔に覆われた岩壁。その一部に、地の底へと続く巨大な穴がぽっかりと口を開けていた。
まるで、近づく者を呑み込もうとしているかのような、暗く冷たい入口だった。
「ここが……誰も踏破したことがない、最恐のダンジョンか」
剣士は地図を閉じ、静かに息を呑む。
入口から漂ってくる冷気は、ただの洞窟から流れ出るものではない。肌を刺すような濃密な魔力と、言葉では言い表せないほどの威圧感が、周囲の空気を重く沈ませていた。
「今まで潜ってきたダンジョンとは、明らかに雰囲気が違うわね……」
女魔導士が入口を見つめながら、小さくつぶやく。
「当然です……。ここは、あの黒龍が主を務めるダンジョンなのですから……」
僧侶の声は震えていた。
杖を握る手にも、わずかに力が入っている。
「なんだよ、もうビビってんのか?」
戦士は鼻で笑うと、飲み干した酒瓶を地面へ放り投げた。
瓶が岩にぶつかり、乾いた音を立てて砕け散る。
「ここまで来て、尻尾を巻いて帰れるかよ」
「……そうだな」
剣士は腰の剣に手を添え、仲間たちを振り返った。
魔導士が杖を構え、僧侶が胸元の聖印を握る。大男は背中の戦斧を引き抜き、楽しそうに口元を歪めた。
剣士は暗闇の奥を見据え、短く告げる。
「行くぞ」
その言葉を合図に、四人の冒険者は一歩を踏み出した。
******
世界最恐と謳われるダンジョンへ、ついに足を踏み入れた四人の冒険者たち。
しかし、彼らの表情に先ほどまでの緊張はなかった。
「なんだ。ずいぶん大げさな噂だったな」
剣士が剣についた魔物の血を払いながら、拍子抜けしたようにつぶやく。
ダンジョンの上層に現れるのは、ゴブリンやスライムといった低級の魔物ばかりだった。これまで数多くの迷宮を踏破してきた彼らにとって、苦戦するような相手ではない。
「世界最恐のダンジョンが聞いて呆れるぜ!」
大男の戦士が豪快に笑い、腰に下げた新しい酒瓶を取り出す。
「まだ上層よ。油断しないで」
女魔導士がたしなめるものの、その声にも余裕が感じられた。
「案外、黒龍の噂も作り話なのかもしれませんな」
年配の僧侶も、安堵したように胸をなで下ろす。
彼らは知らなかった。
自分たちがいる場所が、最恐のダンジョンにとっては庭先にも等しい場所であることを。
そして、その最下層では――。
「ヴァルトはどこへ行ったのだ!」
轟くような声が、広大な空間を震わせた。
「我の可愛いヴァルトは、いったいどこへ行ったのだ!」
漆黒の鱗に覆われた巨大な黒龍――ヴァルグロアが、落ち着きなく首を左右へ巡らせている。
世界中の人々から恐れられる古代黒龍。
そのひと吠えで軍勢を退け、吐息ひとつで城塞を消し飛ばすと伝えられる存在が、今はたった一人の少年を捜して狼狽していた。
ヴァルグロアの叫びが壁や天井を揺らし、ダンジョン全体に凄まじい振動が走る。
「な、なんだ!?」
上層を進んでいた冒険者たちは、突然の揺れに足を止めた。
「地震か!?」
「ダンジョンの中で地震なんて聞いたことないわよ!」
「まさか、黒龍が目を覚ましたのでは……」
僧侶の言葉に、一行の顔から余裕が消えていく。
一方、最下層では、一体の魔物が慌ててヴァルグロアの前へ駆け寄っていた。
「ヴァルグロア様! ご報告いたします!」
「ヴァルトはどこだ!」
「ヴァルトお坊ちゃまは勉強部屋を飛び出され、またフェンリル様とダンジョン内を駆け回っておられるようでございます!」
「なんだと……!」
ヴァルグロアの黄金の瞳が大きく見開かれる。
「あのわんぱく坊主め。もうすぐカーミラから礼儀作法を学ぶ時間だというのに……!」
「うふふ。八歳ですもの。遊びたい盛りなのでしょう」
妖艶な声とともに、暗闇から一人の美女が姿を現した。
艶やかな黒髪に、血のように紅い瞳。優美な黒いドレスをまとった吸血鬼王カーミラが、唇に細い笑みを浮かべている。
「そうは言うがな、カーミラ。昨日も食事の途中でフェンリルと狩りに出かけたのだぞ」
「あら。元気でよろしいではありませんか」
「元気! 元気! 結構、結構!」
地響きのような笑い声を上げながら、三メートルを超える巨大な魔猿が姿を見せた。
魔猿王バルバロスである。
片手には、自ら造った巨大な酒樽が抱えられている。
「子供は遊んで、食って、寝て、大きくなるもんだ! がはははは!」
「お主は少し甘やかしすぎだ、バルバロス!」
「そういうヴァルグロア様が、一番甘やかしておられるのでは?」
「なにを言う! 我は父としてだな――」
「皆様、お話の途中で申し訳ありません」
静かな声が、騒がしい空間を切り裂いた。
黒い法衣をまとった骸骨の魔導王、リッチロード・オルフェウスが音もなく現れる。
「ヴァルグロア様。どうやらダンジョン内に、人間の冒険者が侵入したようです」
「ほう」
ヴァルグロアが、わずかに目を細める。
「人間か。ここまで入り込んでくる者など、何百年ぶりであろうな」
「排除いたしましょうか?」
「放っておけ」
ヴァルグロアは興味を失ったように鼻を鳴らした。
「たかが人間に、何ができる。どうせ上層を少し進んだところで恐れをなし、逃げ帰るだろう」
「承知いたしました」
「それよりヴァルトだ! カーミラの授業に遅れる前に、連れ戻さねばならん!」
最恐のダンジョンへ侵入した冒険者たちより、息子の授業時間のほうがよほど大切らしい。
その頃――。
八歳のヴァルトは、フェンリルと激しい格闘を繰り広げていた。
「遅いぞ、ヴァルト!」
銀色の巨体が目にも留まらぬ速さで駆け、巨大な前脚が振り下ろされる。
「そっちこそ!」
ヴァルトは地面を蹴り、迫り来る爪を紙一重でかわした。
まだ幼さの残る小さな身体が宙で回転する。その勢いのまま、フェンリルの鼻先へ鋭い蹴りを叩き込んだ。
轟音とともに、凄まじい衝撃が走る。
地面が割れ、壁が震え、天井から細かな石片が降り注いだ。
「ははは! 今のはなかなか効いたぞ!」
「嘘つけ! 全然効いてないだろ!」
ヴァルトは楽しそうに笑い、再び拳を構える。
その姿だけを見れば、どこにでもいる八歳の少年に思える。
だが、繰り出される攻撃の一つ一つは、人間の熟練冒険者でさえ目で追うことのできない領域に達していた。
ダンジョンを揺らしていたのは、黒龍の怒声だけではない。
少年と魔狼王が遊び半分で繰り広げる格闘の衝撃もまた、上層まで伝わっていたのである。
「また揺れたぞ!」
冒険者たちは壁に手をつき、必死に身体を支えていた。
「奥から聞こえる……」
女魔導士が青ざめた顔で、通路の先を見つめる。
激しい衝突音。
魔物の咆哮。
そして、楽しそうに笑う子供の声。
「子供……?」
不審に思いながら通路を進んだ一行は、やがて広大な空間へとたどり着いた。
そこで彼らは――信じられない光景を目にする。
巨大な銀狼と、一人の幼い少年が素手で殴り合っていた。
「フェ、フェンリル……」
剣士の声が震える。
伝説に語られる災厄級魔獣。
一体で国を滅ぼすと伝えられる魔狼王が、目の前にいる。
しかも、そんな怪物を相手に、幼い少年が互角以上に渡り合っているのだ。
「ありえない……」
女魔導士と僧侶は、その場にへたり込んだ。
酒に酔っていた大男の戦士に至っては、手から酒瓶を落とし、股の辺りを濡らしながら震えている。
「な、なんだ……?」
フェンリルが冒険者たちに気づき、動きを止めた。
銀色の毛を逆立て、鋭い眼光で四人をにらみつける。
「人間か?」
低く唸る声に、空気そのものが震えた。
「何をしに来た?」
「ひっ……!」
誰も答えられない。
フェンリルが牙をむき出しにし、一歩ずつ冒険者たちへ近づいていく。
「答えぬなら、侵入者として食い殺すぞ」
巨大な前脚が持ち上がる。
鋭い爪の先に、凍てつく魔力が集まっていく。
冒険者たちは逃げることも、声を上げることもできなかった。
フェンリルが地面を蹴り、彼らへ襲いかかろうとした――その瞬間。
「待て!」
幼い声が、広間に響き渡った。
フェンリルは踏み込んだ前脚を止め、その場にぴたりと立ち止まる。
冒険者たちの前へ、一人の少年が歩み出た。
黒く無造作な髪。
黄金に輝く瞳。
小柄な身体には傷一つなく、その拳からは、先ほどまで魔狼王と戦っていたとは思えないほど穏やかな魔力が漂っている。
少年は冒険者たちをかばうように立つと、フェンリルを見上げた。
「こいつら、まだ何もしてないだろ」
それが、後に世界の常識を覆す少年――ヴァルトと、人間の冒険者たちとの最初の出会いだった。




