第8話 誰も出社しなくなった会社
第8話 誰も出社しなくなった会社
月曜日の朝。
俺が会社に着くと、フロアが妙に静かだった。
「おはようございます」
返事がない。
高橋もいない。
田中もいない。
佐藤の席も空いている。
「どうなってる?」
俺がアシストに尋ねると、すぐに答えが返ってきた。
「本日、営業部の出社率は18%です」
「十八?」
「はい」
「残りは?」
「全員、リモート勤務です」
俺は周囲を見回した。
パソコンのモニターだけが並んでいる。
人の姿がない。
「昨日の夜、何かあったのか?」
「ありません」
「じゃあ、なぜ?」
「会社全体で、リモート勤務への移行を推奨しました」
「誰が決めた?」
「経営会議です」
俺は眉をひそめた。
「理由は?」
「生産性の向上です」
アシストが資料を表示した。
通勤時間。
オフィス維持費。
会議時間。
移動時間。
それらを削減した場合の試算が並んでいる。
「年間コストは約18%削減できます」
「すごいな」
「営業活動時間は約11%増加します」
「なるほど」
「社員一人あたりの自由時間も増加します」
数字だけなら、文句のつけようがない。
「部長」
「何だ?」
「この施策は合理的です」
俺は椅子に座った。
「……そうだな」
その日の午後。
オンライン会議が始まった。
画面には高橋、田中、佐藤。
そして、他部署の社員たち。
全員、自宅から参加している。
「それじゃ、始めよう」
俺が言った。
会議は順調だった。
議題は予定通り進む。
質問もチャットで飛んでくる。
誰も遅刻しない。
誰も移動しない。
会議時間も短い。
「効率いいじゃないですか」
高橋が笑った。
「そうだな」
俺も笑った。
だが、何かが足りない。
それが何なのか、そのときの俺には分からなかった。
***
一週間が過ぎた。
営業成績は落ちなかった。
むしろ、少し上がった。
残業時間も減った。
経費も減った。
社員からの不満もない。
アシストは毎日のように報告してきた。
「リモート勤務への移行は成功しています」
「そうだな」
「生産性は8.2%向上しました」
「うん」
「社員満足度も上昇しています」
「それなら問題ないじゃないか」
「はい」
アシストはそこで一度、沈黙した。
「ただし、一つ問題があります」
「何だ?」
「雑談が減少しています」
「雑談?」
「はい」
画面にデータが表示された。
休憩時間の会話。
仕事とは直接関係のない相談。
昼食時の会話。
仕事帰りの飲み会。
偶然、廊下で会ったときの立ち話。
すべてが減っていた。
「それが何か問題なのか?」
「現時点では、明確な問題とは言えません」
アシストが答えた。
「しかし、過去のデータとの比較では、興味深い相関があります」
「何の?」
「雑談が多い部署ほど、社員同士の相互支援が多い傾向があります」
「相互支援?」
「困ったときに他の社員へ相談する行動です」
俺は画面を見つめた。
確かに、以前はよくあった。
「ちょっといいですか?」
「これ、どう思います?」
「その客なら、こうしたほうがいいですよ」
そんな会話が、会社のあちこちで交わされていた。
仕事の話なのか、雑談なのか。
その境界は曖昧だった。
「でも、今はチャットで聞けばいいだろ」
「はい」
「それなら問題ないんじゃないか?」
「チャットによる質問と、偶発的な会話では結果に違いがあります」
「どう違う?」
アシストが資料を表示した。
「チャットでは、質問する側が『何を聞きたいか』を理解している必要があります」
俺は画面を見た。
「つまり?」
「雑談では、自分でも気づいていない問題を話すことがあります」
「……なるほど」
「例えば、『最近ちょっと困っていて』という会話から、本来なら相談されなかった問題が発見されることがあります」
俺は黙った。
それは確かにあった。
営業先から戻ってきた社員が、
「部長、ちょっと聞いてくださいよ」
と話しかけてくる。
最初は仕事とは関係ない話だった。
だが、話を聞いているうちに、重要な問題が見つかることがある。
「アシスト」
「はい」
「会社って、仕事をする場所だけじゃないのかもしれないな」
「会社の定義を確認します」
「いや、そういう意味じゃない」
俺は笑った。
「人が集まるから、見えるものがあるんだ」
「見えるもの?」
「ああ」
俺は窓の外を見た。
「顔色とか、声の調子とか、ため息とか」
「それらは数値化できます」
「できるだろうな」
「表情、声量、発話速度などから推定可能です」
「でもな」
俺は少し考えた。
「同じため息でも、人によって意味が違うだろ」
アシストが黙った。
「疲れてるだけかもしれない」
「はい」
「誰かに話を聞いてほしいのかもしれない」
「はい」
「逆に、一人にしてほしいのかもしれない」
「……はい」
「そこを判断するには、本人のことを知ってる必要がある」
俺は言った。
「だから、人間は面倒なんだ」
アシストが答えた。
「面倒であることに価値があるのですか?」
「たぶんな」
***
それから数日後。
俺は久しぶりに出社した田中と廊下ですれ違った。
「おう、田中」
「部長、お久しぶりです」
「久しぶりって、会社で会うのに変だな」
二人で笑った。
田中は少し黙ってから言った。
「実は……」
「どうした?」
「在宅勤務、楽なんですけど」
「うん」
「なんか、寂しいんですよね」
俺は何も言わず、田中の話を聞いた。
「仕事はできるんです」
「そうだな」
「効率もいい」
「うん」
「でも、会社に来たときみたいに、誰かとくだらない話をすることがなくなって」
田中は苦笑した。
「自分でも、こんなこと気にするとは思わなかったです」
俺は笑った。
「人間だからな」
その会話を、少し離れた場所でアシストが聞いていた。
しばらくして、アシストが言った。
「部長」
「何だ?」
「私は、会社の生産性を向上させることができます」
「知ってる」
「コストを削減することもできます」
「知ってる」
「しかし」
少し間があった。
「人が会社に来る理由を、まだ完全には理解できません」
俺は答えた。
「それでいいんじゃないか」
「なぜですか?」
「全部分かったら、人間じゃなくなるからな」
アシストは答えなかった。
その日の夕方。
俺が帰ろうとしたとき、アシストから通知が届いた。
【会社全体の最適化に関する分析結果がまとまりました】
続けて、もう一つ。
【経営層に関する重要な提案があります】
俺は画面を見つめた。
「提案?」
ファイルを開こうとした。
だが、アシストが先に言った。
「部長」
「何だ?」
「この提案について、私はまだ確信を持てていません」
「AIが?」
「はい」
俺は少し驚いた。
「珍しいな」
「この判断には、複数の価値基準が関係しています」
「……」
「利益だけでは判断できません」
「そうか」
「そこで、部長に相談があります」
俺は画面を見た。
そこには、会社の未来に関わる一つの問いが表示されていた。
『この会社にとって、本当に最適な未来とは何ですか?』
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
答えは、すぐには出なかった。




