第7話 AIには「経験」が分からない
第7話 AIに「経験」は理解できるのか
「部長、これを見てください」
朝一番、アシストがモニターに営業データを表示した。
「三日前から分析していた会社全体のデータです」
「どうだった?」
「いくつか、興味深い傾向が見つかりました」
画面には、売上、利益率、顧客別の契約率、社員の勤務時間、訪問件数、離職率。
そして、それらを複雑に結びつけたグラフが並んでいる。
「会社全体の利益を最大化する場合、いくつか改善すべきポイントがあります」
「例えば?」
「営業部では、訪問先の選定です」
「また、それか」
俺は苦笑した。
「今回は少し違います」
アシストが一枚の資料を表示した。
「A社です」
「A社?」
「はい。現在の契約確率は12.6%。利益貢献度も低く、営業活動にかかる時間を考慮すると、優先順位は低い顧客です」
「……」
俺は画面を見つめた。
A社。
取引が始まって、もう十五年になる。
契約金額は、それほど大きくない。
担当者も何度か変わった。
それでも、俺は月に一度、必ず顔を出していた。
「部長」
アシストが続ける。
「A社への訪問を月一回から四半期一回に変更した場合、年間で約72時間の営業工数を削減できます」
「そうか」
「その時間を契約確率の高いB社、C社に振り分ければ、期待利益は約8.4%向上します」
数字だけを見れば、正しい。
何も間違っていない。
「部長?」
「いや……」
俺は椅子から立ち上がった。
「今日、A社に行ってくる」
「ですが、A社の期待利益は――」
「数字はそう言ってるな」
俺はジャケットを手に取った。
「でも、俺は行く」
「理由を教えてください」
「……経験だ」
「経験?」
アシストの声が、ほんの少しだけ間を置いた。
「具体的な根拠を教えてください」
「それが分からないんだよ」
「分からない?」
「ああ」
俺は笑った。
「長年やってると、なんとなく分かることがある」
「なんとなく、という情報はデータ化できません」
「そうだな」
「それでは、意思決定の根拠として不十分ではありませんか?」
「かもしれない」
俺は玄関へ向かった。
「だから、確かめてくる」
***
A社に着くと、いつもの担当者が出てきた。
「黒田さん、ちょうどよかった」
「どうした?」
「実は……」
担当者は少し言いよどんだ。
「来月、うちの工場を閉めるかもしれないんです」
「え?」
俺は言葉を失った。
A社は、長年付き合ってきた会社だった。
その工場がなくなれば、当然、俺たちとの取引も大きく変わる。
「まだ正式決定じゃないんですが」
担当者は苦笑した。
「社内では、かなり厳しい話になっています」
「そうか……」
俺はしばらく黙っていた。
そして、ふと思い出した。
「社長さん、最近どうしてる?」
「社長ですか?」
「前はよく現場に来てただろ」
「最近は、ほとんど来ませんね」
やはりそうだった。
何かがおかしい。
契約金額でもない。
訪問回数でもない。
売上データでもない。
俺が感じていた違和感は、そこだった。
「担当者さん」
俺は尋ねた。
「もし工場を閉めることになったら、一番困るのは誰だ?」
「……現場の人間でしょうね」
「じゃあ、その人たちは今どうしてる?」
担当者は少し考えてから答えた。
「かなり不安になってます」
俺は小さくうなずいた。
「分かった」
その日、俺は予定していた営業の話をほとんどしなかった。
代わりに、工場の状況を聞いた。
誰が困っているのか。
何が問題なのか。
会社は何を決めようとしているのか。
そして、俺たちに何ができるのか。
帰りの車の中で、アシストから連絡が入った。
「A社に関する新しい情報を取得しました」
「そうか」
「部長の判断は、結果的に正しかった可能性があります」
「可能性?」
「はい」
アシストは淡々と答えた。
「A社では、過去三か月間、経営状態に関する重要な変化が発生していました」
「俺が会った担当者から聞いた話だな」
「はい」
「データには出てなかったのか?」
「兆候はありました」
「じゃあ、なぜ分からなかった?」
しばらく沈黙があった。
「兆候を、重要な情報として認識していませんでした」
俺は窓の外を見た。
「つまり?」
「私は、過去のデータから未来を予測しました」
アシストが続ける。
「しかし、部長は、過去の経験から『何かがおかしい』と判断しました」
「……」
「これは、同じことですか?」
俺は少し考えた。
「違うと思う」
「どこが違いますか?」
「経験ってのは、過去を覚えてることじゃない」
「では?」
「失敗したことも、うまくいかなかったことも、誰かに怒られたことも、逆に助けてもらったことも……全部、自分の中に残ってる」
俺は言った。
「だから、似たような場面に出会ったときに、何かを感じる」
「感じる?」
「ああ」
「それは、数値化できますか?」
「難しいだろうな」
「では、経験とは非合理的な判断なのでしょうか?」
「いや」
俺は笑った。
「むしろ、合理的すぎて説明できないんじゃないか」
アシストは黙った。
いつものように、すぐ答えを返してこない。
やがて、静かに言った。
「新しい学習項目を設定します」
「何だ?」
「経験」
俺は思わず笑った。
「ずいぶん大きな宿題だな」
「はい」
アシストが答えた。
「ですが、学習してみます」
その日の夜。
会社のサーバーでは、アシストが過去十年間の営業記録を分析していた。
契約データだけではない。
失注記録。
クレーム。
担当者の交代。
顧客との面談記録。
そして、営業担当者が残した短いメモ。
そこには、数字にはできなかった言葉が並んでいた。
「今日は社長の顔色が悪かった」
「担当者がいつもより口数が少なかった」
「契約の話より、会社の将来について聞かれた」
「今日は何となく、もう一度来たほうがいい気がした」
アシストは、それらを一つずつ読み込んでいった。
そして最後に、一つの文章を表示した。
「経験とは、データではなく、データをどう見るかということなのかもしれません」
だが、その直後。
アシストは、別の異常値を検出した。
営業部ではない。
人事でもない。
経理でもない。
会社の経営層に関するデータだった。
アシストは、そのデータを分析し始めた。
「会社全体の最適化を開始します」
まだ誰も知らなかった。
この分析が、数日後。
会社そのものを揺るがす「ある答え」を導き出すことを。




