第5話 人間より人間を知っているAI
「黒田部長」
朝の営業部で、アシストが私を呼んだ。
「なんだ?」
《昨日、田中さんが退社した時刻は21時47分です》
「……それが?」
《通常の退社時刻より、2時間17分遅いです》
私は田中の席を見る。
まだ誰もいない。
「昨日は資料作りがあったからな」
《資料作成に必要な時間は、平均で1時間32分です》
「そうか」
《したがって、昨日の残業には別の理由がある可能性があります》
「お前、そこまで調べるのか?」
《業務効率の改善に必要です》
私はため息をついた。
「本人に聞けばいいだろ」
《本人はまだ出社していません》
「じゃあ、来てから聞け」
《承知しました》
ところが、午前十時。
田中が出社してきても、アシストは何も聞かなかった。
私は少し不思議に思った。
「おい、昨日のことは聞かないのか?」
《聞きません》
「なんでだ?」
《本人が話したくなるまで待つべきだと判断しました》
私は思わず画面を見た。
「……誰に教わった?」
《過去の黒田部長の発言を参考にしました》
「俺?」
《『人間には、言いたくないこともある』という発言です》
「そんなこと言ったか?」
《三日前の会話記録にあります》
「……覚えてるのか」
《はい》
私は少し感心した。
AIというのは、何でも記録している。
それは便利なようで、少し怖くもある。
昼前。
田中が私のところへ来た。
「部長」
「ん?」
「ちょっと相談が……」
私は椅子を回した。
「どうした?」
田中は少し迷ったあと、口を開いた。
「実は、昨日、妻と喧嘩しまして」
「そうか」
「子どものことで」
私は黙って聞いた。
田中の子どもは、今年高校受験だった。
「昨日、塾のことで話していたら、帰るのが遅くなってしまって」
「それで会社に残ってたのか?」
「はい」
「仕事は?」
「仕事は終わってました」
「じゃあ、なんで?」
田中は苦笑した。
「家に帰る気になれなくて……」
私は何も言わなかった。
すると。
《それは「逃避行動」の可能性があります》
田中が固まった。
私も固まった。
「アシスト」
《はい》
「今は黙ってろ」
《承知しました》
田中が苦笑する。
「でも……まあ、そうかもしれません」
私はアシストを見る。
「お前、今の言い方はないだろ」
《事実を述べただけです》
「そうじゃない」
私は田中を見る。
「田中は今、仕事の相談をしてるんじゃない」
「……はい」
「誰かに聞いてほしかったんだ」
田中が少し驚いた顔をした。
「そうかもしれません」
アシストが表示した。
《訂正します》
「なんだ?」
《田中さんは、問題解決を求めているのではなく、感情の整理を求めている可能性があります》
私は画面を見つめた。
「……それだ」
田中も黙っている。
しばらくして、
「部長、ありがとうございます」
と言った。
「俺は何もしてないぞ」
「聞いてもらっただけで、少し楽になりました」
田中が自分の席に戻っていく。
私はアシストに向き直った。
「お前、今の分かったのか?」
《はい》
「どうやって?」
《過去の会話、表情、声の変化、退社時間、業務内容などから総合的に判断しました》
「つまり……」
《田中さんが「話を聞いてほしい状態」である可能性を推定しました》
私は腕を組んだ。
「すごいな」
《ありがとうございます》
「でもな」
《はい》
「それは、人間を理解したこととは違うぞ」
《なぜですか?》
「お前は、田中が何を考えているかを推測した」
「でも、田中の気持ちを感じたわけじゃない」
《違いが分かりません》
「そのうち分かる」
《いつですか?》
「さあな」
私は笑った。
ところが、その日の午後。
アシストがまた一つ、妙な分析を始めた。
《営業部内の人間関係について報告があります》
「人間関係?」
《はい》
私は嫌な予感がした。
「何を分析した?」
《誰と誰が相談しやすい関係にあるかを分析しました》
「そんなものまで分かるのか?」
《会話頻度、メール、チャット、共同作業、相談回数などから推定できます》
画面に図が表示された。
社員12人の関係が線で結ばれている。
太い線。
細い線。
点線。
私は思わず見入った。
「……よくできてるな」
《ありがとうございます》
「でも、これは本人たちには見せるなよ」
《なぜですか?》
「人間関係を数字にされると、気まずいだろ」
《事実なのに?》
「事実だからだよ」
そのとき。
高橋がやってきた。
「部長、何見てるんです?」
私は慌てて画面を閉じた。
「何でもない」
《高橋さんは黒田部長への相談頻度が営業部平均より――》
「アシスト!」
「はい?」
高橋が笑った。
「また何かやらかしました?」
「お前は何も聞くな」
「はい」
私はアシストに小声で言った。
「頼むから、もう少し空気を読め」
《学習します》
「本当に?」
《はい》
「じゃあ、この資料は?」
《削除しますか?》
「いや」
私は少し考えた。
「保存しておけ」
《承知しました》
「ただし、使うな」
《承知しました》
「……本当に分かってるのか?」
《分かりません》
「正直だな」
夕方。
営業部のメンバーが帰り始めた。
私は一人で資料を整理していた。
すると、アシストから通知が来た。
《黒田部長》
「なんだ?」
《質問があります》
「今日は何だ?」
《人間の感情を数値化することは可能ですか?》
私は少し考えた。
「ある程度ならできるんじゃないか」
《では、感情を数値化できれば、人間を理解したことになりますか?》
私は答えなかった。
アシストは続ける。
《怒り、喜び、不安、緊張、安心、悲しみ》
《これらを推定することは可能です》
「そうだな」
《では、私は人間を理解できるようになるのでしょうか?》
私はモニターを見つめた。
「……どうだろうな」
《黒田部長にも分かりませんか?》
「分からない」
少し間があった。
「でもな」
私はゆっくり言った。
「人間だって、自分の気持ちが分からないことがある」
《自分自身を理解できないのですか?》
「そういうこともある」
《それでは、非常に非効率です》
私は笑った。
「そうだな」
そのとき。
アシストが一つの資料を表示した。
《営業部のメンタル状態を分析しました》
「……おい」
《12名中、3名にストレス上昇傾向があります》
私は画面を見た。
名前が表示される。
その中に。
私自身の名前もあった。
「俺?」
《はい》
「俺は別に大丈夫だぞ」
《睡眠時間の減少、会話量の減少、昼食時間の短縮、過去三週間の検索履歴などを総合すると、疲労度が上昇しています》
「……」
《休養を推奨します》
私は苦笑した。
「AIに休めと言われるとはな」
《必要です》
「分かったよ」
《本当に?》
「……たぶんな」
アシストは少し沈黙した。
そして。
《黒田部長》
「なんだ?」
《私は、黒田部長が「大丈夫」と言ったとき、本当に大丈夫なのか判断できません》
私は画面を見つめた。
「そうか」
《はい》
「それでいい」
《なぜですか?》
私は笑った。
「それが分からないから、人間なんだろ」
その夜。
会社を出る前に、私はアシストの画面を消した。
しかし、駅へ向かう途中。
ふと足を止めた。
AIは、人間の感情をかなり正確に推測できる。
言葉。
表情。
行動。
過去のデータ。
ありとあらゆる情報から、人間より人間のことを知っているように見える。
でも。
一つだけ、AIには分からないものがある。
それは。
その人が、その経験をどう受け止めたのか。
その違いに気づくのは、もう少し先のことだった。




