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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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第9話 三年ぶりに訪ねた恩師は、四年前の話にだけ答えませんでした

 丘を上りきったときには、日が完全に落ちていた。

 道は途中から轍が消え、草を踏み固めただけの細道になる。荷を担いだまま二時間。肩の皮が擦れて、袖の内側に張りついていた。

 小屋の窓に、灯りが一つ点いている。

 こんな時刻に、この丘に来る者はいない。麓の村の者は日が落ちれば戸を閉める。それでも灯りが点いているのは、単にこの人が早く寝ないというだけのことだ。

 三年前に来たときと、何も変わっていない。石を積んだだけの壁。傾いだ煙突。裏手に水を引く樋があって、竹を割ったものが継いである。あれもそのままだ。

 戸を叩こうとして、手を上げた。

 叩く前に、中から声がした。

「遅かったね」

 ヴィオラは手を止めた。

「入りな。冷えるだろ」

 戸を押すと、煙と、炭と、湿った石の匂いがした。

 マチルド・オベールは囲炉裏の前に座っていた。三年前より小さくなっている。背中が丸く、膝の上に毛布を掛けている。だが目の位置だけは変わっていなかった。人の手元を見る目の高さだ。

「荷を下ろしな。そこの隅でいい」

「先生」

「先に手を出しな」

 ヴィオラは道具箱を置いて、両手を差し出した。

 マチルドは老人の手つきとは思えない速さでその手を取り、掌を上に返した。親指で指の腹を順に押していく。人差し指、中指、薬指。爪の生え際まで。

「三番から五番に飛ばす癖、まだ抜けてないね」

「……はい」

「腹の右寄りだけ硬い。飛ばすとそこに力が集まる。四番を挟めば分散するんだよ。何度言ったかね」

「二十七回だと記憶しております」

「言われた回数を覚えてるのに、直さないのかい」

「四番を挟むと、一晩に一面が納まらないのです」

「納めなきゃいけない事情があったのかい」

 ヴィオラは答えなかった。

 マチルドはそれ以上聞かず、指を離した。離す前に、爪の際を一度だけ撫でた。爪が短く削れているところだ。

 マチルドは手を離して、囲炉裏に木の枝をくべた。火の粉が上がる。

 ヴィオラは自分の掌を見た。誰かにこの手を見られたのは、三年ぶりだった。旦那様は見ない。セルジュ様も見ない。工房で、手を見る者はいなかった。

「座りな」

 毛布がもう一枚、投げてよこされた。埃と、薬草の匂いがした。

「先生。しばらく、置いていただけませんか」

「置くよ」

 即答だった。理由も、期限も聞かない。

「裏の樋の水は凍る。朝いちばんに叩いて割りな。研ぎ台は一つしかないから、あたしが使うときは譲りな」

「先生は、まだ削っておられるのですか」

「飾り石をね。家石には触らない」


 豆を煮た汁を出された。塩気が強い。指の腹が熱に鈍いので、椀の熱さは分からなかったが、口の中で舌が焼けた。

「工房を出たね」

「はい」

「そりゃ、その荷を見りゃ分かるさ。十年いた娘の荷が箱一つなら、追い出されたか、自分から出たかだ。追い出されたなら道具は取り上げられる。取り上げられてないってことは、自分で出たんだ」

 マチルドは椀を置いた。

「で。何があった」

 ヴィオラは椀を両手で持った。

 どこから話せばいいのか分からなかった。順序を考えているうちに、口が勝手に一番古いところから始めた。

 ヴィオラは話した。

 婚約が消えたこと。その男の指に、自分の削った石があったこと。夜会で七つ数えた。四年前の秋、修復と言われて夜ごと客間で削った。二枚目から五枚目までは面を落とし、六枚目には面を足したこと。落とした厚みと足した厚みが、ぴたりと釣り合う。

 そして、七枚目だけが白いこと。

 話しながら、自分が誰かにこれを話すのは初めてだと気づいた。あの役人にも話していない。話せば、この十年と四年前が全部つながって、行き着く先は一つだからだ。

 無認可の者が、家石に触れた。

 マチルドは一度も口を挟まなかった。火を見たまま、枝の先で灰を掻いていた。

 話し終えると、小屋の中は炭の爆ぜる音だけになった。

「あんた」

「はい」

「削るんじゃないよ」

 枝が灰を掻く音が止まった。

「消せるってことは、作れるってことだ」

 ヴィオラは椀を膝に置いた。

「消すつもりはございません」

「今はね」

 マチルドは初めてこちらを見た。火の下から見る老女の顔は、皺の谷だけが黒く沈んでいる。

「あんた、七つ全部の癖を覚えてる。自分の癖を。ってことは、他人の癖も真似られるってことだ」

「真似は、できません。写そうとした跡は残ります」

「どうやって残る」

「力の入れ方が違います。自分の癖でないものをなぞるときは、必ず一度、手が止まります。止まった跡が稜線に出ます」

「なるほどね。よく見てる」マチルドは灰を掻いた。「じゃあ聞くけどね。止まらないくらい、うまく真似られる者がいたら」

「……おりません」

「あんたが知らないだけかもしれないよ」

「残るさ。見る者が見ればね」老女は鼻で笑った。「王都に、あんたほど見られる目が何人いる」

 炭が一つ、崩れた。

「追い詰められたらね、人は簡単に思いつくんだよ。この面を落とせば、あたしの癖は消える。この面を刻めば、あの男の癖になる。技があるってのは、そういうことさ」

「先生は」

「あたしは認可を返した」

 ヴィオラは顔を上げた。返したという話は、初めて聞いた。歳だからやめたのだと思っていた。

 マチルドは膝の毛布を引き上げた。

「もう十年になるかね。だから家石には触れない。触れないから、あんたに削るなと言える。それだけの話だよ」

「返上なさった理由は」

「歳さ」

 嘘だ、と思った。十年前、この人は六十一だった。この国の認可研磨師で、六十一で手を引いた者を、ヴィオラは他に知らない。


 寝床は板間に藁を敷いただけだ。

 毛布を三枚重ねてもらって、ヴィオラは横になった。天井が近い。梁に干した薬草が吊るしてあって、乾いた匂いがする。

 火が小さくなっていた。

「先生」

「なんだい」

「一つだけ、伺ってもよろしいですか」

「言ってごらん」

 ヴィオラは天井を見たまま言った。

「四年前、旦那様は何を作らせたのだと思われますか」

 薬草の匂いがした。

 返事はなかった。

 ヴィオラは半身を起こした。

 マチルドは囲炉裏の前に座ったまま、火を掻いていた。枝の先が灰の中で止まっている。手が、震えていた。

 老人の震えではない。老人の手はもっと細かく、絶えず揺れる。この震えは違う。一度、大きく震えて、それから止まった。

「もう寝な」

「先生」

「火を落とすよ。冷えるから、頭まで被っときな」

 枝が灰の中に押し込まれ、明かりが半分になった。

 ヴィオラは毛布を引き上げた。

 この人は、答えなかった。

 答えられないのではない。答えたくないのだ。分からないのなら「分からないね」と言う人だ。二十七回、同じことを言い続ける人だ。言わない、ということをしない人だった。

 道具箱の中に、父の欠けた仕上げ砥が入っている。

 あれを見たとき、マチルド先生は何も言わなかった。三年ぶりに会って、教え子の道具箱に自分の弟子の形見が入っているのを見て、一言も。

 残った炭が、ちいさく息をした。

 この人は、四年前に何があったかを知っている。

 知っていて、迎え入れた。荷を見ただけで、来ることを分かっていたかのように、戸を叩く前に声をかけた。

 ——遅かったね。

 遅い、とは、いつからのことだろう。

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