第8話 十年住んだ工房から持ち出せたのは、道具箱と、父の砥石だけでした
返すものを返すのに、二日かかった。
工房の道具は一つも持ち出さない。砥石も、当て木も、拡大鏡すら工房の帳簿に載っているものは置いていく。十年のあいだに自分で買い足したものだけを選り分けるのに、丸一日。前掛けを洗って干すのに、もう一日。
三日目の朝、屋根裏の床に荷を並べた。
道具箱が一つ。中身は自前の砥石が四つと、父の欠けた仕上げ砥。拡大鏡は三年前に自分の給金で買ったものだから、これは持っていける。あとは着替えが二着と、布が十数枚。
それだけだった。
十年で、これだけしか自分のものにならなかった。
布を畳んで箱の底に敷き、砥石を並べる。番手の順。左から右へ。箱の蓋を閉めると、留め金がかちりと鳴った。
窓の下の板に、小さな傷が並んでいる。十歳でここに来た年から、背が伸びるたびに爪で刻んだ。十五で止まっている。それ以上は伸びなかった。
削り取ろうかと思って、やめた。
削れば消える。だが消したことは残る。
石でも同じだ。面を落とせば、落とした跡は残らない。代わりに、残っている面の並びが不自然になる。稜線の間隔が、そこだけ広い。見る者が見れば分かる。
削って消せるのは、形だけだ。
作業場へ下りると、オーギュストとセルジュが待っていた。
弟子たちは奥へやられている。研ぎ台に人がいないのを見るのは、久しぶりだった。
「出てまいります」
ヴィオラは道具箱を床に置いて、頭を下げた。
「十年、お世話になりました」
オーギュストは腕を組んだまま、動かなかった。
「どこへ行く」
「まだ決めておりません」
「決めていないのに出るのか」
「はい」
旦那様は鼻から息を吐いた。
「どこへ行っても、お前は削れん」
その声には、脅しの色がなかった。むしろ、教えている調子だった。
「認可がないからだ。砥ぎ町のどの工房も、無認可の者に家石は触らせん。触らせれば工房が飛ぶ。飾り石を磨いて日銭を稼ぐのが精一杯だろう。それも、うちを出た娘だと知れれば頼む者はおらん」
一つも間違っていなかった。
昨夜、同じことを自分でも数えた。数えて、それでも出ると決めた。
飾り石を磨いて食えるかどうかは、やってみなければ分からない。だが、ここにいれば分かることが一つある。
この工房にいるかぎり、四年前の七つは工房の仕事のままだ。
工房の仕事のまま露見すれば、削ったのは無認可の娘だと、旦那様は言う。言うだろう。道理として言う。
「削れます」
ヴィオラは道具箱を持ち上げた。留め金が肩に食い込む。
「認可がないだけです」
オーギュストの目が、細くなった。何か言いかけた。言いかけて、腕を組み直しただけだった。
「戻ってくればいいのに」
セルジュが口を挟んだ。
「父さんも困ってるんだよ。年内の注文が三つ残ってる。君がいないと納まらない」
「セルジュ様が削ればよろしいかと」
「え」
「認可をお持ちです。台帳にも登録されております。何も差し支えはございません」
「いや、でも、僕は」
「三つでしたら、年内に納まります。一日に一面が限りですから、二十日もあれば足ります」
セルジュはオーギュストのほうを見た。旦那様は何も言わなかった。
それが答えだった。
セルジュは笑おうとして、うまくいかなかったらしい。口の端だけが動いて、そのまま止まった。
「困ったら戻っておいでよ」
その言葉に悪意はない。この人はいつもそうだ。
ヴィオラは頭を下げて、勝手口の敷居をまたいだ。
卓の上に、婚約解消の書付を一枚置いてきた。婚約石がないので、書付一枚で済む。証石院への届けも要らない。二年間、この国の記録のどこにも、あの婚約は存在していなかった。
砥ぎ町の通りは、昼前でも日が入らない。工房が両側から水路に迫り出しているからだ。
石を研ぐ音が、あちこちから聞こえてくる。ざり、ざり、と粗砥の音。しゅ、と中砥。仕上げに入った工房は音がしないから、どこがどこまで進んでいるかは、歩くだけで分かった。
水と、石の粉と、油の匂い。十年、この匂いの中で暮らした。
軒先の石屑を掃いていた老職人が、荷を担いだヴィオラを見て、箒を止めた。何か言いたそうにして、結局は目を伏せた。
噂は、もう回っている。
水路の板橋を渡ったところで、後ろから足音がした。
「ヴィオラさん!」
アニエスが走ってきた。前掛けのまま、包みを二つ抱えている。
「これ、持ってってください。パンと、干した果物と、あと」彼女は上の包みを押し付けた。「これはあたしの。ちょっとしかないですけど」
銅貨の音がした。
「受け取れません」
「受け取ってくださいよ」アニエスは包みごとヴィオラの腕に押し込んだ。「三年ぶんですから。あたし、ここに来たとき鍋も洗えなくて、ヴィオラさんに教わったんですよ。覚えてます?」
「灰の使い方を、でしたか」
「そうです。灰です」
「そうです。灰。旦那様も奥様もいない台所で、あたし一人で泣いてたら、ヴィオラさんが降りてきて、灰を持ってきて、何も言わないで洗い方だけ教えて、また上がってったんです」
水路の水が、板橋の下で鳴っていた。
「あたし、この工房で、ヴィオラさんの名前しか呼んだことないですよ」
ヴィオラは包みを抱え直した。
「旦那様は『おい』ですし、セルジュ様は『君』ですし。弟子の人たちも『あの人』って言うんです。名前を知らないわけじゃないのに」
「アニエス」
「はい」
言葉が出てこなかった。
礼を言えばいいのだと分かっている。分かっているのに、喉の途中で止まる。十年、誰かに何かを与えられたことがなかった。与えられ方を知らない。
「……いただきます」
「それでいいです」アニエスは前掛けで手を拭いた。「あと、何かあったら知らせます。台所には全部聞こえてくるので」
「危ないことは、なさらないでください」
「聞くだけですよ。聞くのは仕事のうちです」
彼女は手を振って、通りを戻っていった。前掛けの紐が背中で揺れている。角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。振り返らないでいてくれたのだと、ヴィオラは思った。
日が傾き始めた。
道具箱の留め金が肩に食い込む。持ち替えると、今度は反対の肩に食い込む。
行く当てがない。
包みの中のパンは、まだ温かかった。アニエスは朝いちばんに焼いた分を、取り分けておいたのだろう。
砥ぎ町を出て、王都の門のほうへ歩いた。宿は取れる。三年ぶんの給金は、少ないが残っている。だがそれは数日の話だ。
削れる場所が要る。研ぎ台と、水と、朝の光が入る窓が。三つ揃わなければ、断定はできない。断定できなければ、七つを辿れない。
宿の卓では駄目だ。傾いている台で削れば、角度が狂う。
門の手前で、ヴィオラは足を止めた。
北へ延びる道がある。丘へ上がる道だ。徒歩で二時間。三年、行っていない。
行っても追い返されるかもしれなかった。
それでも、削れる場所を持っている人を、ヴィオラは一人しか知らなかった。




