第7話 六つまでは覚えているのに、七つ目だけが白いのです
屋根裏の床に、白い布を七枚並べた。
石は一つもない。
蝋燭を二本立てて、ヴィオラはその前に膝をついた。板が冷たい。毛布を尻の下に敷いてもすぐ冷える。この部屋には煙突がない。ガルニエ工房でいちばん寒い場所だった。
記憶を引き出すのに、机はいらない。要るのは布と、置くべき場所だけだ。
削った石は、手が覚えている。
目で覚えるのではない。腕を伸ばす角度、砥石に当てる強さ、力を抜く瞬間。それが一つずつ違う。同じ石を二度削ることはないから、記憶も一つずつ別の形で残る。
一枚目。
ヴィオラは布の中央を指で押さえた。
小さい。親指の爪より少し大きい程度。あれは家石ではなかった。原石でもない。もともと面を持っていた石の、割れた欠片だった。
旦那様は「これも整えろ」と言った。
欠片に面を刻むのは難しい。厚みがないから、角度を深く取れない。八面まで刻んで、それ以上は無理だと判断した。仕上げ砥は五番で止めた。もっと上げれば艶は出たが、その前に石が薄くなりすぎる。
――余りもの。
セルジュ様はそう言った。父さんがくれた、と。
欠片が出るということは、どこかの石が欠けたということだ。
家石は割れない。割れないように選ぶ。内側に筋の走った石は、そもそも家石にしない。百年、二百年と受け継ぐものだからだ。
それでも欠けるとしたら、落としたか、割ったかだ。
二枚目。
これは大きかった。掌に載せて余る。家石だ。持ち手のところに古い擦れがあって、代々の当主が親指で撫でてきた跡だった。ああいう擦れは、百年かかる。
旦那様は、面を一つ落とせと言った。
落とすのは、刻むより時間がかかる。面を消すには、隣の面まで巻き込んで削り直さねばならない。それを不自然に見せないためには、全体を薄く均す必要がある。三晩かけた。
三晩目の明け方、桶の水に薄氷が張っていた。手を浸けたら、指の先が針で刺されたように痛んだ。痛みを感じたということは、まだ手が生きていたということだ。
三枚目。
細長い石だった。持ちにくくて、当て木を作った。工房の木箱の底板を割って、その場でこしらえた。翌朝、底板が割れていると弟子が騒いだが、ヴィオラは黙っていた。
四枚目。五枚目。
この二つは続けて同じ晩に削った。どちらも家石で、どちらも面を落とした。二つ目の途中で右手の親指の付け根が攣って、しばらく卓に額をつけていた。
六枚目。
これは違った。刻んだ。新しい面を一つ、足した。
落とすより、足すほうが早い。既にある稜線に沿わせて、新しい角度を決めればいい。半晩で済んだ。
だが、足すには材料が要る。
石を足すのではない。石は足せない。足せるのは面だけで、面を足すということは、その分だけ石の別の場所を削って厚みを稼ぐということだ。
ヴィオラは指を止めた。
落とした面の分だけ、削り屑が出る。屑は捨てる。だが、落とした面の「厚み」は、どこにも行かない。
いや――行く。
六枚目に足した一面。あの一面を作るために削った厚みは、二枚目から五枚目までで落とした厚みと、釣り合っている。
同じ夜に、同じ卓で、同じ手が。
落として、落として、落として、落として、そして一つ足した。
布の上を、蝋燭の光が揺れた。芯が長くなっている。爪の先で押さえて、短くした。
四つの家から一面ずつ削り、一つの家に一面足す。
この国で面が意味するものは、一つしかない。代の数だ。
四つの家が一代ぶん新しくなり、一つの家が一代ぶん古くなった。
七枚目。
ヴィオラは布の前で手を止めた。
何も出てこない。
大きさが分からない。面の数も。落としたのか刻んだのか、それすら出てこない。
六つまでは、水の冷たさまで思い出せる。二枚目のときは三晩。六枚目は半晩。蝋燭が三本では足りず、四本目を持ってきたら旦那様に叱られた。灯りが漏れるから、と。
七枚目だけが、白い。
膝の上で指を組んだ。組んだ関節が鳴る。
削っていないのだろうか。
いや、削った。七つだと自分で数えた。あの夜会で、七つの石を見つけた。六つは思い出せて、七つ目は見つけたのに思い出せない。順序が逆だ。
思い出せないのに、見分けはついた。
手が覚えているから、見れば分かる。だが、削った夜のことは残っていない。
そういうことが、あるとすれば。
考えられるのは二つ。削っていないのに癖が残っている――これはない。癖は写せない。写そうとした跡は、写そうとした跡として残る。
もう一つは、削ったが、覚えていないこと。
眠っていたのだ。
ヴィオラは布から手を離した。
半分眠ったまま、呼ばれて、削った夜があったのではないか。四年前の冬、夜ごと客間で削っていた頃、体の芯まで冷えて、削り終えるたび気を失うように寝た。あの頃なら、ある。
覚えていないということは、そこで何かが起きたということだ。
覚えていられない状態で削らされたということだ。
蝋燭が一本、燃え尽きた。
残りの一本を手燭に移して、ヴィオラは一枚目の布をもう一度見た。
欠片。八面。五番止め。
どこかの石が欠けている。
二枚目から五枚目までは、面を落とした。落とすときに欠片は出ない。削り屑になるだけだ。
欠片が出るのは、割ったときだ。
どこかの家の家石が、四年前に割れた。あるいは、割られた。
その欠片が磨かれて、いまセルジュ様の指に嵌まっている。
ヴィオラは立ち上がった。膝が固まって、一度よろけた。
二枚目の家石。持ち手に百年ぶんの擦れ。あれがどこの家のものかは、当時も知らされなかった。だが、あの大きさで、あの擦れで、王都にある家石なら、数はそう多くない。
証石院に行けば、家石の面の数は公開されている。誰でも閲覧できる。内側の記録は非公開だが、面の数だけは公開しなければ、序列が保てないからだ。
四年前の記録と、今の記録を比べればいい。
面は増えることしかない。減っている家があるなら、そこが二枚目だ。
ヴィオラは手燭を吹き消した。窓の外が、もう灰色になっている。
階段を下りたのは、明け方だった。
水を汲もうとして、井戸端でオーギュストとすれ違った。
旦那様は外套を着ていた。こんな時刻に出かける用があるとは思えない。あるいは、帰ってきたのかもしれない。外套の肩が湿っていた。夜露だ。しばらく外にいた者の湿り方をしている。
目が合った。
旦那様は何も言わない。ヴィオラも言わなかった。
昨夜、屋根裏の灯りが夜通し点いていたことを、この人は知っている。
旦那様が先に目を逸らして、勝手口の戸を閉めた。
桶を井戸に落とす。水面を割る音が、まだ暗い庭に響いた。滑車の縄が、霜で硬くなっている。
引き上げた水で顔を洗った。冷たさが頬に刺さって、頭の芯が起きた。
この工房には、もういられない。
互いに、そう分かっていた。分かっていて、どちらも先に言わない。言ったほうが負けるからではない。言えば、四年前の話をしなければならなくなるからだ。




