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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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第6話 旦那様は、わたくしの十年を「工房の道理」とお呼びになりました

 夕方、削り上げた石を二階へ運んだ。

 オーギュストは卓に向かい、いつものように顔を上げなかった。布ごと石を置くと、手だけが伸びてきて、ガルニエ工房の名を記した小さな札を隣に並べる。

 十年、同じ所作を見てきた。

 石が仕上がる。札が並ぶ。それで、その石は工房の仕事になる。

「旦那様」

「なんだ」

「その札は、誤りです」

 卓の上の手が止まった。

 オーギュストが顔を上げる。灯りの下で見る旦那様の顔は、思っていたより老けていた。目の下の皮膚がたるみ、髭に白いものが混じっている。近くで見たのは、いつ以来だろう。

「何を言っている」

「削ったのは、わたくしです。札には旦那様の名がございます」

「工房の札だ」

「札に書かれているのは、旦那様のお名前です」

 沈黙が落ちた。階下で、弟子が桶を運ぶ音がする。

 オーギュストは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。

「ヴィオラ。認可というものは、工房に与えられる」

「存じております」

「工房が請け、工房が納め、工房が責を負う。誰の手が動いたかは、勘定の外だ。それが道理というものだ」

 道理。

 その言葉を、この人は嘘として使っていない。ヴィオラにはそれが分かった。旦那様は本当に、そう信じている。信じているから、十年、一度も揺らがなかった。

 悪意で名を奪う者なら、いつか綻びる。後ろめたさが所作に出る。だがこの人には出ない。奪っているという枠が、頭の中にないからだ。

「では、推挙をお願いいたします」

 卓の縁を叩いていた指が止まった。

「なんだと」

「わたくしを証石院に推挙してくださいませ。見本片を納めれば、わたくしの名で削れます。そうすれば札も、誤りではなくなります」

 オーギュストは笑わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、目を細めた。

「お前は何を勘違いしている」

「勘違い、でしょうか」

「わしの名で出て、わしの名で責を負う。お前は何も背負わんで済む。石が割れれば、わしが謝りに行く。客が値を渋れば、わしが頭を下げる。お前は削るだけでいい」

 卓の縁を、太い指がとんとんと叩いた。

「ありがたいと思え」

「十年、一度も推挙してくださいませんでした」

「順番がある」

「セルジュ様は、六年前に登録されております。工房に入られたのは、わたくしの二年あとです」

「あれは息子だ」

 旦那様はそう言って、言ってしまってから、わずかに顎を引いた。

「工房を継ぐ者は、名がなければ困る。お前は継がん」

「継がぬ者に、名は要りませんか」

「要らん」

 ヴィオラは布の端を折り返した。折り返してから、自分がそうしていることに気づいた。考えるときの癖だ。父も同じことをしていた。

 言い返せなかった。

 旦那様の言い分は、この国の制度の上で、一つも間違っていない。証石院に届け出るのは工房の名だ。罰を受けるのも工房だ。十年、この人は一度も届出を怠らなかった。他家の石については。

 だから、ここを突いても崩れない。十年、突けなかった。突こうとするたび、同じ道理が同じ形で返ってきた。

 ただ、今夜だけは一つ違うことがある。

 この人は、四年前の話をしたがらない。

 突くなら、そこだ。

「では、伺います」

 ヴィオラは顔を上げた。

「四年前の七つも、旦那様の責でよろしいのですね」

 指が、止まった。

 卓を叩いていた音が消えた。灯りが一本きりの部屋が、急に広くなる。

「あれは、工房が請けた仕事でございましょう。であれば旦那様の名で出て、旦那様が責を負う。わたくしは何も背負わんで済む。――そういうことでよろしいですか」

 灯りの芯が、じ、と鳴った。

「あれは違う」

「何が違うのでしょう」

「違うと言っている」

 声は低くなった。荒くはならない。この人が本当に追い詰められたとき、いつもこうなる。十年で三度、聞いた。今夜が四度目だった。

 オーギュストは立ち上がろうとして、卓の上の石に手を伸ばした。

 滑った。

 石が布の上を転がり、卓の縁で止まる。

 ヴィオラは反射で手を出しかけて、途中でやめた。

 旦那様の右手が、宙で止まっている。

 石は、掴めていない。指先が布をかすっただけだった。

 親指と人差し指は開いている。だが薬指と小指、それに中指が、第一関節から曲がったまま伸びていない。三本。開こうとして開かない。

 オーギュストはすぐに手を引っ込め、袖の中に隠した。

「持って行け」

「旦那様。お手を」

「持って行けと言っている」

 ヴィオラは石に手を伸ばした。伸ばしながら、卓の上をもう一度見る。

 筆は左手の側に置かれていた。帳面の文字も、右上がりではなく、わずかに右下がりに流れている。左で書く者の字だ。

 この人は、右利きだったはずだ。

 ヴィオラは石を布に包み、頭を下げて部屋を出た。

 扉を閉める間際、旦那様が左手で右手を握っているのが見えた。指を一本ずつ、外側へ引き伸ばそうとしている。祈っているような形だった。


 台所へ寄ると、アニエスが竈の前で鍋をかき混ぜていた。豆と、少しの燻し肉の匂いがする。

「あ、ヴィオラさん。今日、旦那様と何かありました? 二階から何も落ちてこないから、逆に怖くて」

「石が転がっただけです」

「それだけですか」アニエスは杓子を鍋の縁で叩いた。「じゃあ聞いてもいいですか。前から思ってたんですけど」

「なんでしょう」

「旦那様って、この頃ぜんぜん削ってませんよね」

 ヴィオラは戸口に立ったまま、動かなかった。

「あたし、三年ここにいますけど、旦那様が研ぎ台に座ってるの、一回も見たことないんですよ。お客さんが来たときだけ、こう、前掛けを着けて」アニエスは自分の腰のあたりを叩いてみせた。「でも座らないんです。立ってるだけ」

 鍋がぐつりと鳴った。

「炊事場からだと、作業場が見えるんですよ。ちょうど、正面が」

 ヴィオラは竈の火を見た。豆の鍋が、白い泡を立てている。

「あの奥の台には、布が掛かっておりますね」

「旦那様の台ですよね。あたし、月に二回拭いてます。旦那様が拭けって言うので」

「使っていない台を、ですか」

「そうなんですよ。変ですよね」アニエスは肩の力を抜いた。「使ってないなら埃も立たないのに」

「アニエス」

「はい」

「そのお話、他の方には」

「しませんよ。誰も聞かないですもん、あたしになんて」

 ヴィオラは礼を言って、階段を上がった。

 屋根裏の板床に、七枚の布はまだ並べたままにしてある。

 旦那様は、削れない。

 いつからかは分からない。だが三年より前だ。アニエスが来る前から、あの人は研ぎ台に座っていない。

 では、四年前の七つは、誰の手が動いたのか。

 答えは分かっている。

 だが、それを口にできるのは自分だけで、口にした瞬間、罰を受けるのも自分だけだ。無認可の者が家石に触れれば流刑だと、あの役人は言った。

 旦那様は、それを知っている。

 十年、推挙しなかったのは、独立されては困るからだと思っていた。腕を工房に留めておきたいのだと。

 もしそれだけではないとしたら。

 名のない者に削らせておけば、何かあったときに、名のない者だけが沈む。

 板の隙間から、階下の灯りが一本、細く漏れていた。まだ消えていない。旦那様は、まだ右手を伸ばしているのかもしれなかった。

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