第5話 台帳のどこにも、わたくしの名前はありませんでした
宝物監府の台帳庫は、思っていたより暗かった。
窓が高い位置に細長く並んでいて、そこから光が斜めに落ちてくる。棚は天井まであり、梯子が二本、壁に立てかけてあった。紙と、革と、乾いた膠の匂い。砥ぎ町の記録室と同じ匂いだが、量が違う。息を吸うと喉の奥が乾いた。
「無認可の者は、本来ここに入れません」
ラウルは扉の鍵を掛け直しながら言った。「宝物監の招請という形にしました。記録には残ります」
「ご迷惑になりませんか」
「なります」
それきり、彼は説明しなかった。梯子を一本ずらし、上段から木箱を二つ、順に下ろしてくる。
台帳は綴りではなかった。木箱に一人分ずつ収められている。蓋を開けると、内側の窪みに小さな石片が嵌まっていた。親指の爪ほどの大きさで、面が四つ。
「見本片です。認可を受けるとき、本人がこれを削って納めます」
ラウルは卓に布を敷き、その上に箱を並べた。布はこちらの道具箱から出したものだった。差し出したとき、彼は何も言わずに受け取って、当たり前のように敷いた。
オーギュスト・ガルニエ。登録一一〇二年。
セルジュ・ガルニエ。登録一一二二年。
ヴィオラは拡大鏡を借りて、二つを順に見た。
旦那様の癖は、右下から入る。面の運びが時計と逆。仕上げは磨き切る。艶が高く、稜線が硬い。若い頃の仕事だ。今の旦那様がこれを削れるとは思えなかった。
セルジュ様の見本片は――正直に言えば、下手だった。角度が揺れている。二面目と三面目で当てる強さが違う。だが癖はある。番手を几帳面に一つずつ上げていて、飛ばした跡がない。時間だけはかけられる人の仕事だった。
六年前の登録だ。二十二歳のセルジュ様がこれを削って納め、旦那様が推挙した。同じ年、ヴィオラは十四で、すでに客の紋章石を一人で任されていた。
「この二つと一致する現物を、私は三年で一件も見ていません」
ラウルが箱の蓋を閉じた。
「では、他に箱はございますか。ガルニエ工房の」
「ありません」
「見習いの分は」
「見習いは登録できません。工房主が推挙して、はじめて登録されます」
「推挙の期限は、ございますか」
「ありません。工房主が推挙しなければ、五十年でも見習いのままです」
ラウルは箱を戻さず、卓の上に置いたままにした。
「拒む理由を、書く必要もありません」
ヴィオラは拡大鏡を置いた。
棚を見上げる。何百という箱が、天井まで積まれている。この国で家石に触れることを許された者の、すべての手がここにある。
そのどこにも、自分の削った面の基準はない。
「十年、わたくしはこの工房で家石を削ってまいりました」
「存じています」
「では、その記録は」
「すべて、この二人の名で残っています」
ラウルは卓の端に手をついた。
「つまり、この十年分の記録は、すべて不正確です」
紙の匂いが、鼻の奥に張りついた。
棚の一つに、女の名が見えた。三段目の右端。この国で認可を得た女は少ない。ヴィオラは名を読もうとして、ラウルが梯子をずらしたので読めなかった。
高い窓の下に、細長い卓がある。ヴィオラはそこに立った。膝から下が冷えている。石の床だからだ。
「デスタン様」
「はい」
「無認可の者が家石に触れると、どうなりますか」
「流刑です」ラウルは即答した。「証石院の裁定によります。減刑の例は、この五十年で三件」
高い窓の外で、鐘が鳴った。正午の鐘だ。音が石の壁に反響して、二度聞こえた。
十年削ってきた仕事には、名前がない。旦那様の名で世に出た。功績は工房のものだ、と言われれば、そのとおりですと答えるしかなかった。
だが四年前の七つには、現物に自分の癖が残っている。
あれが露見したとき、台帳は何と言うだろう。
台帳は言う。この工房の認可研磨師は二名である、と。
そして現物は言う。削ったのは、その二人ではない、と。
残るのは一つの答えだ。無認可の者が、家石に触れた。
誰が命じたかは、書かれていない。誰が削ったかだけが、石に残っている。
訴え出れば、まず裁かれるのは自分だ。訴え出なければ、七つはこのまま社交界を回り続ける。
功績には名前がなく、罪にだけ名前がある。
ヴィオラは卓の縁を握った。指の腹の硬いところが、木の角に食い込んだ。痛みは感じない。そういう手になってしまった。
「では、なぜ告発なさらないのですか」
ラウルはしばらく答えなかった。棚の一つに手を伸ばし、箱の位置をわずかに直す。傾いていたわけでもないのに、直した。
「台帳が不正確だからです」
「それは、答えになっておりません」
「贋物が混じっているのも、実際に削った者の名がないのも、私にとっては同じ不正確です」
彼はこちらを見なかった。棚を見たまま言った。
「片方だけ直すのは、正確ではない」
ヴィオラは何も返せなかった。
庇われているのではない。この人は、庇うという言葉を知らないのかもしれない。ただ、揃っていないものが目の前にあることに耐えられないだけだ。
それが、かえって信じられた。
守ってくださるのですか、と聞かなくてよかった。聞けば、この人は困った顔をしただろう。守るという言葉は、この人の帳面には載っていない。
帰り道、王宮の坂を下りながら、ヴィオラは何度も足を止めた。
止めるたび、後ろのラウルも止まる。追い越しもしない。急かしもしない。門まで送ると決めているのだろう。
坂の途中で、パン売りの荷車とすれ違った。焼きたての匂いが、冷えた空気の中でだけやたらに濃い。すれ違いざま、売り子がこちらの外出着を見て会釈した。灰色の、工房が客の前に出すときに着せる服だ。これを着ていると、人はときどき職人ではなく使用人だと思う。
あの七つは、台帳のどこにも載っていなかった。
載っていないということは、誰も命じていないということだ。少なくとも、記録の上では。
旦那様は言うだろう。工房の仕事だ、と。それは十年、一度も揺らいだことのない言い分だった。
だが四年前だけは、その言い分を使わないのではないか。
使えば、七つは工房の仕事になる。工房の仕事になれば、旦那様が責を負う。
あれは、負えるものではない。
だから頁が破られた。
破られたのが四年前ではなく、この十日のうちだということが、いちばん引っかかっていた。四年間、旦那様は破らずに置いていた。置いておけたということは、危ないと思っていなかったということだ。
何かが変わった。この十日で。
変わったことなら、一つ知っている。宝物監府の役人が、砥ぎ町を二日歩いた。
門を出たところで、ヴィオラは振り返った。
「デスタン様。もう一つ伺います」
「はい」
「前任の方は、どのようにお亡くなりに」
「一一二四年十二月、自宅で。心の臓だと聞いています」
ラウルは日付を言うとき、少しも淀まなかった。いつもと同じ調子で、いつもと同じ速さで言った。
ヴィオラは頭を下げて、坂を下りた。
一一二四年の十二月。
自分が七つ目を削った月と、同じだった。




