第4話 王宮の役人が、十年ぶりにわたくしの仕事を名指しました
二日、その男は砥ぎ町を歩いていたらしい。
水路の向こうの彫金工房から、時計師の店から、順に。仕事を頼むでもなく、値を聞くでもなく、帳面を抱えて、店先に並んだ石を一つずつ見て回っている。アニエスが井戸端でそう聞いてきた。
「役人が来ると、旦那様が三日前から機嫌が悪くなるんですよ」彼女は桶を抱え直した。「今回は二日前からでした。一日ぶん早いです」
三日目の午前、男はガルニエ工房の戸を叩いた。
「王家宝物監府より参りました。ラウル・デスタンと申します」
客間に通された。ヴィオラは茶を運び、そのまま部屋の隅に控えた。職人は座らない。呼ばれるまで、壁と同じ顔をしている。
男は長身で、痩せていた。年は二十半ばだろうか。姿勢だけが妙に整っている。書き物をする者の指の形をしていた。中指の第一関節に、硬いたこがある。
そして、手袋をしたままだった。
「定例の照合です。一一二六年以降、当工房から出た家石を六件、拝見します」
「どうぞ、ご随意に」オーギュストが弟子に箱を運ばせた。「うちは何も隠しておりません」
ラウルは箱から一つ目の石を取り出した。手袋のまま、指の腹ではなく側面で挟むように持ち上げる。それを窓際まで運び、光にかざした。
長い。
一つの石に、ずいぶん長く時間をかける。角度を変え、また変え、一度だけ石を裏返して、また戻した。
部屋の隅で、ヴィオラは息を詰めていた。
あの持ち方は、正しい。皮脂を移さない持ち方だ。手袋をしていてなお、指の腹を面に当てない。この人は石の扱いを知っている。役所の帳面仕事だけをしてきた手ではない。
二つ目。三つ目。旦那様が茶を勧め、ラウルは口をつけずに置いた。
「デスタン様は、石をお削りになりますか」オーギュストが世間話の調子で言った。「持ち方が、職人のそれに見えましたので」
「削りません。触れるだけです」ラウルは顔を上げずに答えた。「触れる者が持ち方を知らないのは、不都合でしょう」
旦那様が笑った。愛想のいい笑い方だった。客の前でしか出さない顔だ。
四つ目の石を持ち上げたところで、彼の手が止まった。
「これは」
顔を上げる。オーギュストのほうではなかった。まっすぐ、部屋の隅を見ていた。
「あなたの仕事ですね」
階下の桶に水が落ちる音が、やけに遠く聞こえた。
「それは工房の仕事です」オーギュストの声が割り込む。「札にも、そう記してございます」
「工房の仕事であることと、誰の手であるかは、別の事実です」
ラウルは石を布に戻した。
「一一二六年三月の受け渡し。台帳の記載は、認可研磨師オーギュスト・ガルニエ。ですが面の運びが、登録されている見本片と一致しません。台帳のものは右下から入り、時計と逆に回ります。この石は左肩から入って、時計回りです」
「そのような細かいことは」
「細かいことしか、私の職務にはありません」
ラウルは箱の蓋を閉じた。
「登録された見本片と、現物の癖が一致しないということは、二つのうちどちらかです。台帳が誤っているか、削った者が別人か。私はどちらであっても構いません。一致していないこと自体が、問題なのです」
「写し違いということもございましょう」
「十九件、すべてが写し違いということはありません」
オーギュストが口を開いた。開いて、閉じた。
ヴィオラは動けなかった。
十年、この工房で削ったものはすべて、旦那様の名か、セルジュ様の名で世に出た。それを不当だと思ったことは、ある。何度もある。だが誰かがそれを声に出したのは、これが初めてだった。
名指されている。
自分の、仕事が。
「残りは、次の巡回で拝見します」
ラウルは帳面を閉じ、日付を書き入れた。書き終えてから立ち上がる。日付を先に書く人らしい。
工房の外まで、ラウルを送った。旦那様が顎で示したからだ。
水路の縁は霜で白い。落ち葉が凍って板のように張りついている。二人分の足音だけが鳴った。
「なぜ、あの場でおっしゃったのですか」
ヴィオラの問いに、男は歩調を変えずに答えた。
「一一二五年の一月、前任のフォンテーヌ監が急死し、私が職に就きました。以後三年で、台帳と現物の不一致を四十七件、記録しています。うち十九件が、あの工房です」
日付から始まった。この人はそういう話し方をするらしい。
「十九件」
「多い。同じ工房でこの数は、他にありません」
橋の手前で、荷を積んだ馬が湯気を立てて通り過ぎた。糞と藁の匂いが、冷えた空気の中でだけ濃く漂う。
「十九件のうち、十七件が同じ癖でした」ラウルは続けた。「左肩から入り、時計回り。四番の番手を飛ばすことがある。稜線の手前で仕上げを残す」
ヴィオラは足を止めそうになって、こらえた。
「その癖の持ち主は、台帳のどこにも登録がありません」
「では、告発なさるのですね」
「いいえ」
ラウルは足を止めた。手袋の指で、外套の襟を直す。直す必要のない襟だった。
「私は、台帳を正確にしたいだけです」
それだけ言うと、また歩き出した。ヴィオラは半歩遅れてついていく。
橋のたもとまで来て、彼は振り返った。外套の裾に、砥ぎ町の泥が跳ねている。二日歩けばそうなる。
「一つ伺います。四年前、この工房で何がありましたか」
霜が溶けて、水路に落ちる音がした。
「存じません」
「そうですか」
「本当に、存じないのです」ヴィオラは言い直した。「ですから、いま調べております」
ラウルはしばらくこちらを見ていた。値踏みするような目ではなかった。石を見ていたときと同じ目だった。角度を変え、また変え、判断を急がない目。
彼は何も言わず、頭を下げて去った。
夜、屋根裏で、ヴィオラは膝を抱えていた。
板壁の隙間から風が入る。毛布を肩まで引き上げても、足の先だけは温まらない。
あの人は、告発しなかった。
告発できる立場にいて、しなかった。
なぜかは分からない。人の考えていることは、石とは違う。面の角度を測るように読むことはできない。悪意と善意の見分けは、十年経ってもつかないままだった。旦那様の言葉も、セルジュ様の言葉も、いつも額面どおりに受け取って、あとから違ったのだと気づく。
ただ、あの人が石を見る時間の長さだけは、覚えておこうと思った。四つ目の石を、あの人は他の三つの倍は見ていた。急がなかった。分からないうちは判じない。それは、まともな目を持つ者のやり方だ。
それでも一つ、確かなことがある。
あの人は台帳を見られる。台帳には、誰がどの石を削ったかが記されている。
あの七つが台帳に載っているなら。
誰の名で、載っているのか。
布を七枚、また並べた。今度は、六枚目と七枚目のあいだが少し空いた。手が勝手にそう置いた。理由は自分でも分からない。
六枚目までは、削った夜のことを思い出せる。七枚目だけが、白い。
翌朝、工房の戸口に宝物監府の使いが立っていた。書付を一枚、差し出してくる。
明日、宝物監府へ来られたし。台帳を、ご覧に入れます。




