第3話 四年前の頁だけが、破り取られていました
水汲みは日の出前に済ませる。
井戸の滑車が軋み、汲み上げた桶の縁に薄く霜が張っていた。冬が近い。砥ぎ町の工房は、この時期から春まで火を焚かない。暖めた部屋から冷えた石を出せば、内側の筋に沿って割れる。だから指がかじかむのを承知で削る。手が悴んで動かなくなったら、脇の下に挟んで温める。それだけが許された暖の取り方だった。
ヴィオラは道具箱を開け、砥石を番手の順に並べた。一番、二番、三番。左から右へ。この並べ方も父から教わった。逆に置く職人もいる。マチルド先生は右から並べる。どちらが正しいということはなく、ただ手が迷わなければいい。
箱の底に、欠けた仕上げ砥が一つ入っている。角が斜めに割れていて、もう使えない。父の遺したものは、それだけだった。
今日の仕事は男爵家の紋章石だ。布を敷き、石を置く。
まず、匂いを嗅いだ。
石は匂う。土に埋まっていたものは土の、川で拾われたものは水の匂いがかすかに残る。人の手を渡り歩いた石は、脂と、金属と、香の混じった匂いになる。この石は香が強い。婦人の胸元にあったのだろう。
粗砥に水を落とし、角度を決める。石の内側には目に見えない筋がある。指の腹で表面を撫でると、そこだけ抵抗がわずかに変わる。筋に逆らって当てれば割れる。沿わせれば、削れる。
一番から二番へ。二番から三番へ。番手を上げるたび、削る音が細くなっていく。ざり、と鳴っていたものが、しゅ、に変わり、四番を過ぎたあたりからほとんど音を立てなくなる。音がなくなってからが仕上げだった。指の腹と、目と、光だけが頼りになる。
北の窓に日が回ってきた。石を光に当て、傾ける。
面と面のあいだの稜線が、まっすぐ一本に立っている。ここが崩れると、どれだけ艶を上げても石は死ぬ。素人目には分からない。だが並べれば必ず分かる。良い石の隣に置いたとき、片方だけが沈んで見える。
仕上げ砥に持ち替える手前で、いつも一度、手を止める癖があった。ここから先は戻れないからだ。粗砥の段階なら、面の角度を付け直せる。仕上げに入れば、もう決めた形で通すしかない。
息を吐いて、当てた。
四年前も、同じ寒さだった。
手が覚えている。あの夜の水の冷たさ。蝋燭の脂の匂い。二階の客間の卓が研ぎ台よりわずかに高かったこと。だから前かがみになりすぎて、翌朝、背中が張ったこと。
修復だと言われた。
削りながら、ヴィオラはその言葉を何度も裏返した。修復なら、傷んだ面をなぞって整えればいい。だがあのとき自分がしたのは、面を落とすことと、新しい面を刻むことだった。
あれは、修復ではない。
では何かと問われれば、答えは一つしかない。面を落として数を減らし、別のところに新しい面を刻む。それは家石の来歴を書き替えることだ。
削り終えた紋章石を布に伏せ、ヴィオラは指を桶に浸した。水は氷のすぐ手前まで冷えている。感覚が戻るまで、しばらくかかった。
昼、旦那様が商会へ出た。
記録室の扉は閉まっているが、鍵はかかっていない。かける必要がなかったからだ。この十年、誰も好んでここに入りたがらなかった。埃が立つし、膠が匂うし、何より読んでも面白いものが一つもない。
一一二四年の綴りを引き出す。
背表紙の紐をほどき、卓に置いた。窓が小さいので、綴りごと窓際まで運ぶ。
夏の頁。八月の請書。九月の受け渡し記録。ヴァレー伯爵家の名がある。九月十二日、家石を一晩お預かり、と一行だけ。返却の記録がその二行下にある。
その次を繰った。
十月ではなかった。
いきなり十一月の請書が現れた。しかも十一月の五日から。月の頭の四日分もない。
念のため、前後の月を数え直した。八月は十九枚。九月は二十三枚。十一月は十七枚。十月だけが、ない。
ヴィオラは綴りを持ち上げ、窓の光にかざした。
背の綴じ糸に、紙の繊維が残っている。一枚ではない。数枚まとめて、根本から引きちぎられている。裁ち落としたのではない。刃物を使えば切り口はまっすぐになる。これは指で引いた。
指で切り口をなぞった。
紙は古くなると縁が丸くなり、切ったところから黄ばんでいく。四年前に破られたのなら、切り口も同じだけ日に灼けているはずだ。
この切り口は、白い。
繊維の毛羽が立ったまま、まだ寝ていない。
最近だ。
窓の外で、水路を渡る荷車が鳴った。ヴィオラは綴りを閉じ、紐を元の結び目に戻して棚に納めた。抜いたときに指で崩した埃の筋を、袖でならしておく。
部屋を出るとき、除虫草の枯れた匂いが鼻に残った。
廊下で、ヴィオラは一つだけ確かめ直した。
九月十二日。ヴァレー伯爵家、家石を一晩お預かり。
あの記録は残っていた。破られていない。つまり、破られたのは十月に起きたことだけだ。
九月に伯爵家の石を預かり、十月に何かをして、十一月から何事もなかったように商いが続いている。
旦那様が戻ったのは、日が落ちてからだった。
ヴィオラは削り上げた紋章石を布に包んで、二階へ上がった。オーギュストは卓に向かい、帳面を開いている。曲げた背中が大きい。灯りを一本しか点けていないので、頁を鼻先まで近づけて読んでいる。
「仕上げました」
「置いておけ」
布ごと卓に置く。オーギュストは顔を上げないまま、ガルニエ工房の名を記した小さな札を、その隣に置いた。十年、同じ所作を見てきた。石が仕上がる。札が並ぶ。それで、その石は工房の仕事になる。
「旦那様」
「なんだ」
「四年前の修復の石は、どちらのお宅のものでしたか」
筆が止まった。
ほんの一瞬だった。すぐにまた動きだす。
「終わった仕事だ」
「七つ、ございました」
「終わった仕事だと言っている」
声は荒くならなかった。むしろ低く、静かになる。この人が本当に苛立つときは、いつもこうなる。十年で三度、聞いたことがある。
「記録を拝見しようと思ったのですが」
筆がまた止まった。今度は長かった。
「余計なことをするな」
「旦那様」ヴィオラは扉の前で立ったまま言った。「九月に、ヴァレー伯爵家の家石をお預かりしております」
灯りの芯が、じ、と鳴った。
「あれは、お返ししたのでしょうか」
「返した」
「面の数は、お預かりしたときと同じでしたか」
オーギュストが筆を置いた。置いた音が、思ったより大きかった。
「出ていけ」
ヴィオラは頭を下げて、扉を閉めた。
階段の途中で足を止める。手すりの木が冷えていた。板の隙間から、下の作業場が見える。桶に張った薄い氷が、灯りを受けて白く光っていた。
出ていけ、と言われた。工房を出ろという意味ではない。この部屋から出ろというだけだ。十年、この人はそうやって話を終わらせてきた。
だが今夜は、答えている。
返した、と言った。同じでしたかとは、答えなかった。
終わった仕事なら、なぜ頁が破られている。
しかも、この頃に。
自分が石を数え始めたのは、一昨日の夜だ。
あの夜会に、旦那様も、いた。




