第2話 二年間、婚約者だったはずのわたくしには、石がありませんでした
その夜は眠らなかった。
夜会から戻って、ヴィオラは屋根裏の板床に布を七枚並べた。石は一つもない。並べただけで朝になった。
指先が冷えている。桶の水に触れたわけでもないのに、爪の先まで冷たい。
数えただけでは何にもならない。あの七つが誰の家の石で、いつ工房を通ったのか。それを知るには記録が要る。
工房の記録棚は一階の奥、来客の目に触れない場所にある。婚約解消には婚約石の作成記録が要るはずだった。それを探す名目なら、誰に見咎められても言い訳が立つ。
朝いちばんの光が、棚の背表紙を斜めに撫でていた。埃と、古い膠の匂いがする。膠は虫が食う。だから記録室には毎年、除虫の草を吊るす。今年の分はもう茶色く枯れていた。
一一二六年の綴りを引き出す。頁を繰る指が、途中で止まった。
三月。四月。五月。
婚約が調ったのは一一二六年の春だった。旦那様が「話は決まった」と階段の下から言い、それで決まった。相手が誰かも、そのとき初めて聞いた。
もう一度、最初から繰った。指を舐めて、一枚ずつ確かめる。受注、受け渡し、代金、証石院への届出。工房を通った石は、どんなに小さなものでも一行は残る。残らない仕事はない。
ない。
「ヴィオラさん、朝ごはん置いときますね。あ、なに探してるんですか」
アニエスが盆を抱えて立っていた。台所の匂いをそのまま連れてきている。今朝は麦粥と、たぶん塩漬けの豚だ。
「婚約石の記録です」
「え」アニエスが盆を胸の前で持ち直した。「え、作ってなかったんですか?」
ヴィオラは綴りを閉じた。
この娘が驚くということは、そういうことなのだ。工房の炊事係が当たり前に知っている程度には、当たり前の話なのだ。婚約石のない婚約は、この国では婚約ではない。両家の家石から小片を切り出して合わせる。その記録が証石院に上がって、はじめて婚約になる。
なければ、書付一枚で終わる口約束にすぎない。
「二年、なかったようです」
「……ヴィオラさん」
アニエスが何か言いかけて、やめた。言葉を探している顔だった。
「あの、でも、間違いってこともありますよね。旦那様が届け忘れてるとか」
「届け忘れは、ございません」
届出を怠れば工房が罰を受ける。旦那様は十年、一度も怠らなかった。他家の石については。
「冷めますから、いただきます」
盆を受け取ると、皿の縁がまだ熱かった。指の腹は熱に鈍い。そういう手になってしまった。
セルジュは作業場にいた。研ぎ台の前に座って、石を布で拭いている。削ってはいない。拭いているだけだ。
「婚約石は、どちらにございますか」
「え。ああ、あれか」彼は顔を上げた。「作ったと思うけど」
「記録がございません」
「そうかな。父さんが持ってるんじゃないか」
彼はまた布を動かし始めた。この人にとって、それで話は終わっている。持っているかどうかを確かめようとは思わない。確かめる必要のあることだと、そもそも思っていない。
「セルジュ様は、うちの石をご覧になったことがありますか」
「うちの石って」
「ガルニエ家の家石です」
「あるよ。たぶん」彼は少し考えた。「たぶん、あると思う」
あの箱は二階の金庫にある。年に一度、証石院の巡回のときだけ出される。ヴィオラは十年で四度、その蓋が開くのを見た。
この人は、見たことがない。
ヴィオラは彼の手を見た。
布の持ち方。人差し指と親指で摘まんでいる。掌で包まない。摘まんで拭けば布が石の上を滑るだけで、面の際の粉は落ちない。
「セルジュ様。少し、手を拝借できますか」
「なんだよ、いきなり」
差し出された右手を取る。掌を上に返させ、指の腹に触れた。
柔らかい。
砥石を握る者の指は、腹が硬くなる。爪は短く削られ、皮膚の下に細かい傷が入って、水に浸けると白く浮く。父の手がそうだった。マチルド先生の手も、七十を越えてなお同じだった。
この手には、何もない。傷も、たこも、削れた爪もない。
「あなたは、削っていらっしゃいませんね」
セルジュが手を引いた。
「削ってるよ」
「では、いま一面、削ってみせてください」
沈黙が落ちた。桶の水が、一度だけ跳ねる音を立てる。
「そういうの、よくないと思うな」やがて彼が言った。「父さんが言うには、君は工房に必要なんだそうだ。だから安心していいよ」
安心。
その言葉が、どこから出てきたのか分からなかった。
ヴィオラは布を畳んで、道具箱に戻した。
「怒ってはおりません」
「怒ってるだろ」
「いいえ」
腹は立っていなかった。腹を立てるには、相手が自分を害したと知っている必要がある。この人は知らない。害したという枠が、そもそも頭の中にない。
届かないところへ石を投げる者はいないだろう。
作業場を出ようとして、ヴィオラは足を止めた。奥の研ぎ台に掛かった布が、朝より少しずれている。誰かが触った。
布を戻しておこうかと手を伸ばし、途中でやめた。触ったと分かるのは、触った者だけでいい。
その夜、屋根裏に戻って、七枚の布をもう一度並べた。
一一二四年の秋。桶に薄氷が張るようになった頃だった。
旦那様が言った。傷んだ家石の修復だ、と。夜のうちに済ませろ、と。
昼のあいだは通常の仕事がある。夜、二階の客間の卓を借り、蝋燭を三本立てて削った。三本では足りない。だから条痕が残り、番手を飛ばした。急いでいた。急がされていた。
修復なら、なぜ昼にできない。
修復なら、なぜ客間で。作業場には研ぎ台が四つもあるのに。
それに――修復であるなら、面を落とす必要はない。
あの七つのうち、五つは面を落とした。一つは新しい面を刻んだ。一つは、割れた端を石として仕立てた。
傷んだ面を整えるのが修復だ。落とすのは、修復とは言わない。
面は、増えることしかない。当主が代わるたびに一つ足す。だから面の数がそのまま代の数になる。これはこの国の子どもでも知っている。
減った面が何を意味するかは、子どもは知らない。
ヴィオラも、四年前は考えなかった。旦那様が修復と言えば、それは修復になる。手だけを動かした。十六の秋だ。二階の客間は暖炉に火が入っていて、削るには暑すぎる。汗が石に落ちるのが怖くて、何度も手を止めては前掛けで拭った。覚えているのは、その程度のことばかりだ。
膝の上で指を組む。関節が小さく鳴った。
ヴィオラは布を一枚だけ残して、残りを畳んだ。
残した一枚の上に、道具箱から欠けた仕上げ砥を出して置く。父の遺したもの。角が斜めに割れていて、もう使えない。
父は十年前に工房を畳んだ。経営が立ち行かなくなったのだと聞かされ、二年後に死んだ。そのあいだ、一度も石の話をしなかった。
今になって、それが奇妙に思える。削らなくなった職人が、石の話を一度もしないだろうか。
あの七つが何だったのかを、旦那様は知っている。
そして工房の記録は、まだ全部を見たわけではない。
一一二四年の綴りを、明日、開こう。旦那様が商会へ出る日がいい。
布の上の砥石を指の腹でなぞると、割れた角がざらりと引っかかった。




