第1話 婚約を破棄されましたが、その指の石はわたくしが削ったものです
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「この程度の石で十分だろう。君に本物は勿体ない」
セルジュ・ガルニエがそう言ったとき、ヴィオラ・ルサージュが見ていたのは、彼の顔ではなかった。
右手の薬指。そこに嵌まった、小指の先ほどの石。北向きの窓から落ちる午後の光がその面を滑って、稜線のところで一度だけ途切れた。
――四年前に、わたくしが削った石だ。
膝の上には布が広げてある。研ぎかけの石をその上に伏せ、ヴィオラは前掛けで手を拭いた。桶の水でふやけた指の腹が、白く硬く見える。爪は深く切ってある。伸ばしていては仕事にならない。
「婚約のこと、でしょうか」
「そう。父さんが言うには、工房のためだそうだ」
セルジュは戸口に立ったまま、扉の枠に肩をあずけた。作業場には入ってこない。この人はいつも、敷居のところで話を済ませる。
「僕は反対したんだよ。でも、そういうものだろう」
砥石を伝った水が、桶に落ちる音がしていた。一定の間隔で、二つ、三つ。
「承知しました」
「早いな」セルジュの声が少し明るくなる。「怒らないのか」
「怒る理由が、まだ分かりませんので」
ヴィオラは立ち上がった。作業台の上を前掛けの裾で払い、新しい布を一枚、敷き直す。
「その指輪を、見せていただけますか」
「え」
「石を、拝見したいのです」
セルジュは指輪を抜いて渡した。悪びれもしない。断る理由を思いつかない、という顔だった。掌に落ちた石は、まだ彼の体温を持っていた。
布の上に置く。台に直に置けば、皮脂が移って面が曇る。マチルド先生に扇の柄で指を打たれながら覚えた、いちばん最初の作法だった。
道具箱から拡大鏡を出す。窓に向かって半歩ずれ、光の入る角度まで石を回した。
面は八つ。この大きさにしては、多い。
三番から、五番へ飛んでいる。
粗砥から仕上げまで、番手は七つ。一つずつ順に上げていくのが正しい。四番を飛ばせば、面の底に髪より細い条痕が残る。研ぎ台に向かえる時間が足りない夜の癖だ。
稜線の手前では、仕上げがわずかに残してあった。磨き切っていない。艶が一段だけ低い。
これは直せる癖ではなかった。手が覚えている。腕を伸ばす角度も、力を抜く瞬間も、父から受け継いだまま、十年、一度も抜けたことがない。
「どうかしたか」
「いえ」
ヴィオラは石を布に戻した。
「よい石です」
嘘ではなかった。よく削れている。自分の手だから、そう言える。
「だろう。父さんがくれたんだ」セルジュは指輪を嵌め直した。「余りものだって言ってたけど、僕はけっこう気に入ってる」
余りもの。
その言葉を、ヴィオラは口の中でもう一度なぞった。
石に、余りものはない。原石を割れば端は出る。だが端は端であって、面を刻んだ石にはならない。
面が八つある。
誰かが、これを石として仕立てた。
階段の下から声が飛んできたのは、日が傾いてからだった。
「ヴィオラ。今夜、モロー商会の夜会へ出ろ。石を見る目が要る」
オーギュスト・ガルニエは作業場に入ってこない。この四年、ほとんど入ってこなくなった。用があるときは階段の下から呼ぶ。
「婚約のことは、伺いました」
「聞いたか」扉の枠に手をかけたまま、こちらを見ない。「終わった話だ。わしは仕事の話をしている」
「かしこまりました」
それだけだった。十年削り続けた娘の婚約が消えたことについて、この人は一言も触れない。触れる必要があるとも思っていない。
階段を下りると、旦那様はもう背を向けていた。作業場の四つの研ぎ台のうち、いちばん奥のものには、この四年、布が掛かったままになっている。旦那様の台だ。埃は積もっていない。誰かが拭いている。使ってはいないのに、拭いてはいる。
道具を片づけ、桶の水を庭に空けた。夕暮れの土に染み込んでいく水が、細く湯気を立てた。それだけ外が冷えている。
井戸端で手を洗う。石鹸は使わない。匂いが移ると、翌朝、石を嗅いだときに分からなくなる。人によっては笑う話だが、削る前に石の匂いを嗅ぐ癖は、父にもあった。
着替えは一着しかない。工房が客の前に出すときに着せる、灰色の外出着だった。袖を通しながら、ヴィオラは四年前の秋のことを考えていた。
傷んだ家石の修復だ、と言われた。夜のうちに済ませろ、と言われた。冬の入り口で、朝には桶の水に薄い氷が張るようになっていた。七つ。あの言葉を、あの日は疑わなかった。
修復なら、なぜ夜だったのだろう。
モロー商会の広間は、蜜蝋の匂いで満ちていた。
この国の夜会で、人はまず互いの手元を見る。家石は指か、首か、外套の留め具に嵌まっている。面を数えるのは無礼ではない。挨拶に近い。十二面の当主が九面の当主に会えば、九面のほうが先に頭を下げる。数えなければ、どちらが先に下げるかも分からない。
ヴィオラは壁際にいた。職人は招かれる側ではなく、連れてこられる側だった。オーギュストの半歩後ろで、客の手元を見ている。値踏みを頼まれれば耳打ちする。それが今夜の仕事だった。
蝋燭の炎は、石を見るには向かない。揺れる火の下では面の角度までは読めても、条痕は追えない。断定するなら朝の光と、研ぎ台と、拡大鏡が要る。三つ揃わないうちは、何も言ってはならない。父にもマチルド先生にも、そう教わった。
それでも、目に入ってしまうものがある。
ラングレ子爵夫人の首飾り。留め具に隠れる側の面に、細い条痕が三本。走っている向きが揃っている。
ボワイエ男爵の袖留め。稜線の手前で、艶が一段落ちている。
壁に背をつけたまま、ヴィオラは掌を握った。指の腹の硬いところが、汗で滑った。
見間違いということはある。似た癖を持つ職人は、砥ぎ町だけでも何人かいる。四番を飛ばす者は珍しくない。急ぐ夜は誰にでもある。
だが、飛ばし方と、止め方と、稜線の残し方。三つが揃うのは、そう多くない。
「ヴァレー伯爵はお見えかね」
「あちらは今年は」別の声が答える。「あの家も、めっきり数が」
言いかけて、その声が止まった。
人の輪が割れ、細身の男が入ってきていた。上等だが華美ではない外套。誰もが体をひらいて道を作り、順に頭を下げる。
そして、誰も、その男の手元を見なかった。
「ドルセー侯爵閣下だ」
オーギュストが唇をほとんど動かさずに言った。
侯爵は挨拶を受け、名を交わし、商会の主人と二言三言かわして笑った。そのあいだ、一度も手袋を外さない。数えさせない。この国でそれがどれほど奇妙なことか、この広間の誰も口には出さなかった。
ヴィオラは目を伏せた。伏せた先で、また一つ見つけてしまう。
モロー商会の主人が卓に置いた、小さな証石。角の落とし方に覚えがある。
いつのまにか、指を折って数えていた。
子爵夫人の首飾り。男爵の袖留め。商会主の証石。デュラン家の若夫人が右手に嵌めているもの。窓際の卓に飾られた一つ。そして今日の午後、この目で拡大鏡ごしに見た、セルジュの石。
六つ。
振り返ると、扉のそばの燭台の下で、もう一つ、稜線の艶が落ちていた。
蜜蝋の匂いが、急に濃くなった。
わたくしが削った石が、この夜会に、七つある。




