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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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第10話 面は増えるものです。減っている家が、一つございました

 三日、朝から晩まで研ぎ台を借りた。

 マチルドは何も言わずに譲った。飾り石の注文が二つ入っていたが、それは夜のうちに自分で片づけているらしい。朝起きると、卓の上に仕上がったものが伏せてあった。

 ヴィオラがしていたのは、削ることではない。描くことだった。

 作業台に布を敷き、その上に紙を広げる。石を置くわけでもないのに、手が勝手に布を出した。マチルドがそれを見て、何も言わずに笑った。

 紙に、一枚目の石の形を起こす。

 セルジュの指にあった欠片。面は八つ。厚みは親指の爪の三分の二ほど。四年前に自分の手で刻んだのだから、寸法は指が覚えている。

 問題は、その欠片が「元は何の一部だったか」だ。

 欠片には、刻んだ面と、刻んでいない面がある。刻んでいない側――つまり割れた面が一つ、必ずある。ヴィオラはそこを思い出そうとした。

 弧を描いていた。

 まっすぐな割れ口ではない。ゆるやかに反っていた。反りの向きは、内側へ。

 筆を持つ手が止まる。四年前、あの欠片を渡されたとき、割れ口には削り粉が詰まっていた。指で払った覚えがある。払った粉が、爪のあいだに入って取れなかった。

 粉が詰まっていたということは、割れたばかりだったということだ。

 持ち込まれた時点で、既に割れていた石ではない。あの工房の中で、その日か前日に割れた。

「見せてごらん」

 朝の光が入る時刻に、マチルドが紙を覗き込んだ。老女は紙を持ち上げず、卓に置いたまま首を傾けて見る。

「肩だね」

「肩、でございますか」

「家石の肩さ。持ち手のほうじゃなく、上のふくらみ。あそこは反りが内向きになる。何百年も撫でられて、そういう形に落ち着くんだよ」

 マチルドは指で紙の弧をなぞった。

「この反りだと、元の石は掌に載せて余るくらいだ。ちょいと大きいね」

 ヴィオラは息を止めた。

 二枚目の家石も、掌に載せて余った。持ち手に百年ぶんの擦れがあった。

「先生。同じ石から、二つ出ることはございますか」

「肩を落として、その屑を欠片に仕立てるのかい」老女は鼻を鳴らした。「できるさ。あんたがやったんだろ」

 できる。

 二枚目の家石から面を落とし、そのとき出た大きな欠けを、一枚目として仕立てた。

 落とした厚みと、欠片。同じ石から出た、同じ夜の仕事だ。

「行ってまいります」

「どこへ」

「証石院へ」

 マチルドは止めなかった。かわりに、卓の下から古い外套を出してよこした。

「その灰色の服で行くんじゃないよ。工房の服だ。着ていけば、どこの工房の使いだと聞かれる」

 外套は茶色で、裾が擦り切れていた。袖を通すと、樟脳と、乾いた薬草の匂いがした。長いあいだ箱の底にあったものだ。

「先生の外套ですか」

「昔のね。返さなくていいよ」


 証石院の閲覧所は、階段を上がった三階にある。

 石を扱う役所なのに、この部屋には石が一つもない。あるのは名簿だけだ。革表紙の帳面が壁一面に並び、家ごとに一冊ずつ、面の数と代替わりの年が記されている。

 誰でも見られる。内側の記録――石紋と呼ばれる、石の中の傷や気泡の並び――は非公開だが、面の数だけは公開しなければならない。公開しなければ、どちらが先に頭を下げるかも決まらないからだ。

 ヴィオラは閲覧簿に「研磨師見習い」とだけ書いた。名は書かなくてよかった。書けと言われたら困っていた。

 係の老人が、白い手袋を渡してくる。

「頁の縁を持って。指の腹で紙に触れないように」

「心得ております」

 王都の家は、貴族だけで二百を超える。全部は見られない。

 絞る条件は三つあった。掌に余る大きさの家石。持ち手に百年ぶんの擦れ。そして、四年前に工房と関わりがあったこと。

 三つ目が、いちばん強い条件だった。工房の記録は十月の頁だけが破られている。破られていない月に何が残っているかは、この目で確かめてある。

 九月十二日。ヴァレー伯爵家、家石を一晩お預かり。

 あの記録だけが、破られずに残っていた。

 ヴィオラは「ヴ」の棚から帳面を引いた。

 ヴァレー伯爵家。初代の記載が三百年前。代替わりの年が縦に並ぶ。

 指を下へ滑らせる。

 一一二〇年、当主交代。面数――十。

 その下。

 一一二五年、記載更新。面数――九。

 ヴィオラは頁を押さえた。手袋の下で、指の腹が紙をこすった。

 一一二〇年から一一二五年のあいだに、当主は交代していない。交代の記載がないからだ。

 なのに、面が一つ減っている。

 ヴィオラは前後の頁も繰った。ラングレ子爵家。一一二一年、面数八。一一二五年、面数七。

 ボワイエ男爵家。一一一九年、六。一一二五年、五。

 どれも一一二五年に記載が更新され、どれも一つ減っている。

 三つ。

 係の老人が奥から顔を出したので、ヴィオラは帳面を閉じた。手袋を返し、階段を下りる。踏むたびに、石の段が靴底を通して冷たかった。


 王都の門を出て、丘の道を上る。

 風が出ていた。枯れた草が道の両側で鳴り、外套の裾を叩く。マチルドの外套は袖が長すぎて、手を出すたびに引き上げねばならなかった。

 面は、増えることしかない。

 当主が代わるたびに一つ足す。それがこの国の数え方だ。子どもでも知っている。減るという事態は、制度が想定していない。

 だから証石院の帳面には、減った理由を書く欄がない。

 九になった、とだけ書いてある。

 ヴァレー伯爵家は、十代続いた家から、九代の家になった。誰にも気づかれずに、一代ぶん若くなった。

 そして――落とされた面は、どこへ行ったのか。

 屑になった。それは分かる。

 だが、屑になっただけではない。

 肩から出た欠片は、八つの面を刻まれて、いま砥ぎ町の若い男の指に嵌まっている。

 残りの厚みは。

 ヴィオラは道の途中で足を止めた。

 六枚目に、面を足した。

 足すには材料が要る。石は足せない。足せるのは、削って稼いだ厚みだけだ。

 二枚目から五枚目まで、四つの家から面を落とした。

 その厚みが、六枚目の一面になった。

 四つの家が一代ぶん若くなり、一つの家が一代ぶん古くなった。

 それは石の話ではない。

 家格の話だ。

 風が正面から吹きつけた。目を細める。丘の上に、マチルドの小屋の煙突が見えている。細い煙が横に流れていた。

 六枚目の家がどこかは、分からない。

 だが、二枚目は分かった。ヴァレー伯爵家。

 残り、五つ。

 いや、四つだ。ラングレとボワイエも、名簿の上では数が合っている。

 三つまで見えた。あとは、面が増えている家を一つ、見つければいい。

 増えている家は、名簿には出ない。当主が代われば増えて当然だからだ。増えたことが不自然かどうかは、代替わりの年と突き合わせるしかない。二百を超える家の、三百年ぶんを。

 一人では、無理だ。

 小屋への最後の登りにさしかかったところで、ヴィオラは足を止めた。

 丘の下の道に、馬車が一台停まっている。

 こんな細道に入る馬車ではない。車軸まで泥がはねている。無理に上ってきたのだ。

 扉に、紋が入っていた。泥を浴びてなお、金の縁取りが日を返している。

 三本の穂と、その上に置かれた石。

 ヴァレー伯爵家の紋だった。

 二枚目の家が、こちらへ上ってきていた。

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