第11話 伯爵令嬢は、面の数を数えたことがないとおっしゃいました
初雪は五日前に降って、その日のうちに溶けた。
朝晩の水が凍るようになり、マチルドは樋の受け口に藁を巻いた。ヴィオラは毎朝、木槌でその氷を叩き割ってから水を汲む。丘の上は王都より二度は寒い。
馬車の紋を見てから小屋まで、ヴィオラは歩調を変えなかった。走れば逃げるように見える。逃げる理由があるように見える。
小屋の戸口に、若い女が立っていた。
毛皮の外套に、泥がはねている。侍女も従僕も連れていない。それだけで、これが正式な訪問ではないと分かった。
女はヴィオラを見ると、名乗るより先に言った。
「あなた、うちの石を削ったでしょう」
風が、丘の草を鳴らした。
「……どちらのお宅でしょうか」
「ヴァレー伯爵家。わたし、クレール・ヴァレーといいます」
彼女は外套の裾を持ち上げて、泥を払う仕草をした。払いきれないと分かると、すぐにやめた。
「怒りに来たのではないの。頼みに来たのよ」
ヴィオラは道具箱を持ち直した。肩の紐が、擦れたところに食い込む。
「中は寒うございます。火はございますが、煙が籠ります」
「構わないわ。ここで話すよりましでしょう」
小屋に招き入れると、クレールは囲炉裏の脇に座った。マチルドが黙って椀を出す。老女は名乗りもしなかったし、クレールも聞かなかった。
「父が、床から離れられないの」クレールは椀を両手で包んだ。「二年前から悪くて、今年になってひどくなった。それで、代替わりの支度を始めたのだけれど」
「面の数が、合いませんでしたか」
クレールの手が止まった。
「知っているのね」
「証石院の名簿を、先日拝見しました」
「十のはずが、九なの」彼女は椀を置いた。「兄が証石院に問い合わせたわ。そうしたら、一一二五年の記載更新でそうなっている、以上、と。理由を書く欄がないんですって」
ある。ないのではなく、想定されていない。面は増えるものだからだ。減った場合にどう書くかを、この国の誰も決めていない。
「工房にはお尋ねになりましたか」
「ガルニエ工房でしょう。四年前、うちの家石を一晩預かった記録がある。兄が問い合わせて、返事は『当工房の記録に該当なし』だった」
十月の頁は破られている。
だから、該当しない。
「なぜ、わたくしのところへ」
「砥ぎ町で聞いたの。ガルニエ工房の実際の仕事は、十年ずっと同じ人がしていたって。その人が先日出ていったって」
クレールは首をわずかに傾けた。
「工房の職人さんたちは、みんな知っていたのね。誰も言わないだけで」
膝の上で、ヴィオラは指を組んだ。
工房の職人たちは知っていた。誰も言わなかった。言えば工房を追われる。だが、こうして訪ねてきた者には答えた。
噂は、書簡より早い。旦那様がいちばん嫌う速さで、ものが動いている。
石は、絹の袋に入っていた。
クレールがそれを差し出そうとしたとき、ヴィオラは手を上げて止めた。
「お待ちください」
作業台に布を敷く。それから道具箱を開け、拡大鏡を出し、卓の位置を窓際まで引いた。
北向きの窓から、朝の光が入っている。この時刻がいい。あと一刻もすれば、光は卓の右半分から外れる。
「どうぞ」
袋を傾けると、掌に余る大きさの石が転がり出た。
持ち手のところが、鈍く光っている。百年ぶんの擦れ。親指の腹で撫でられ続けた石は、そこだけ艶が違う。艶を出したのではない。人の脂と体温で、そうなる。
この擦れは、砥石では作れない。真似ようとした跡は、必ず均一になる。人の手は均一に動かない。
だから、この石は本物だ。ヴァレー家が三百年持ってきた家石で間違いない。
問題は、その本物に何をしたかだ。
ヴィオラは息を吐いて、拡大鏡を当てた。
肩。
欠けている。落としたのではなく、割った跡だ。割った上で、割れ口を均して面のように見せてある。
その均し方に、左肩から入って時計回りに回した跡があった。
三番から五番へ飛んでいる。稜線の手前で、艶が一段低い。
喉の奥が、乾いた。
「面の数は、九つ。もとは十でございました」
「やっぱり」
「肩を割って、割れ口を面に見せかけております。稜線の間隔がここだけ広いので、並べて数えれば分かります。ただ、一つずつ数える方には分かりません」
クレールが身を乗り出した。
「割った人が、分かる?」
「削った者の癖は、面に残ります。腕の伸ばし方も、力の抜き方も、人によって違いますので」
「消せないの」
「消すには、もう一度削るしかございません。削れば、また別の癖が残ります」
クレールが息を吐いた。白い息が、拡大鏡の縁を曇らせた。
ヴィオラは拡大鏡を置いた。
答えは、口の中まで来ていた。
わたくしです。
その四文字が、喉のどこかで引っかかって出てこない。十年、一度も言ったことのない形の言葉だった。
「……工房が、削りました」
「工房」
「ガルニエ工房でございます。四年前の、十月かと」
クレールはしばらく黙っていた。それから、椀の中を覗き込むようにして言った。
「そう」
彼女は責めなかった。誰が削ったのかと、重ねて聞くこともしない。
その静かさのほうが、かえって刺さった。
外へ出ると、日が高くなっていた。
馬車まで送る道すがら、クレールは丘の下を見ていた。王都の屋根が、霜で白く光っている。
「わたし、面の数を数えたことがないの」
唐突にそう言った。
「夜会に出ると、みんな最初に手元を見るでしょう。あれが昔から苦手で。数えられる方が、こわいでしょう」
「怖い、でしょうか」
「だって、数えられて、それで先に頭を下げるかどうかが決まるのよ」彼女は肩の雪を払った。「人を見ていないもの。石しか見ていない」
ヴィオラは黙っていた。
自分は、石しか見ていない側の人間だった。
人の手元を見て、値踏みをして、旦那様に耳打ちする。それが夜会での仕事だった。数えるのは無礼ではないと教わり、疑ったこともない。
「あなたはどう。石を見る人でしょう」
「はい」
「でも、さっきわたしの手を先に見なかったわね」
言われて、初めて気づいた。
クレールが袋を差し出したとき、自分が見たのは石でも指でもなく、布の位置だった。
「あなた、名前は」
これまで、客に名を聞かれたことはなかった。工房の者、で足りるからだ。
「ヴィオラ・ルサージュと申します」
「ヴィオラさん。もう一つ、お願いしていいかしら」
馬車の扉に手をかけて、クレールは振り返った。
「宝物監の方に、台帳を見ていただけないかしら。うちの石を誰が削ったことになっているのか、記録の側から知りたいの」
風が止んだ。
台帳を見られる人間を、ヴィオラは一人だけ知っている。
そしてその人は、台帳と現物が合わないことに、この国の誰よりも耐えられない。
見せれば、記録が動く。記録が動けば、削った者を探す者が出る。
探された先にいるのは、自分だ。
「……承知いたしました」
言ってから、ヴィオラは自分の声が思ったより低かったことに気づいた。




