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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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第28話 申立書の一行に、生まれて初めて自分を書きました

 十三日、その紙を机に置いたままにした。

 証石院の申立書。定型の書式で、上から順に、申立の対象、申立の理由、証拠の所在、そして最後に申立人の氏名。

 上の三つは埋まっている。

 ヴァレー伯爵家およびドルセー侯爵家の家石。両家の面の数と現物の癖に不一致がある。証拠は現物、および宝物監府の台帳。

 最後の欄だけが、白い。

 朝、樋の氷を割る。もう薄い。木槌を一度当てれば割れる。三月の半ばになって、丘の雪もほとんど溶けた。

 昼、飾り石を削る。手は動く。震えは出ない。三日休ませたのがよかった。番手を一つも飛ばさずに七段上げると、面がよく澄む。急がなければ、こう仕上がる。

 夜、机の前に座る。

 筆を持つ。墨を含ませる。紙に向ける。

 書けない。

 名を書くこと自体は、難しくない。註文の受け取りにも、宿の帳面にも書いてきた。文字は書ける。

 書けないのは、申立人という欄に書くことだ。

 申立人とは、自分の言葉で何かを主張する者のことだ。十年、その立場に立ったことがない。


 十三日目の夕方、マチルドが小屋の戸を開けた。

 外から入ってきた光が、机の上の紙を照らした。

「無理して名乗ることはないよ」

 老女は戸口に立ったままそう言った。

「先生」

「照合の日に申立人として立てば、その場で調べられる。あんたは無認可だ。認可のない者が家石に触れたと自分で書くってことは、自分で自分を突き出すってことだよ」

「存じております」

「デスタンとやらに書かせりゃいい。あの男は認可を持ってる。宝物監として申立を出せる」

「出せません」

「なぜだい。宝物監なら申立権がある」

 ヴィオラは紙を見たまま言った。

「あの方が出せば、命令に背いた宝物監の私怨だと言われます。台帳の持ち出しを命じられて、拒んで、その腹いせに侯爵家を申し立てた。そう読める形になっております」

「あの男も、そう言ったのかい」

「いいえ。ですが、そうなります」

 マチルドは戸を閉め、囲炉裏の前に座った。

「じゃあ、あんたが出すしかないね」

「はい」

「出せば、罰せられる」

「はい」

「それでも、面の数の話は表に出る」

 老女は火を掻いた。

「あんたを罰する場で、あの家の面が数えられるってことだ」

「はい」

「あんたが罰を受けなきゃ、誰も数えないってことでもある」

「はい」

 枝の先が、灰の中で止まった。

「なるほどね。よく考えたよ」

 老女は湯を沸かし、椀を二つ出した。

「あたしは考えなかった。二十年前、名乗ればどうにかなると思っただけだ。どうにもならなかった」

「先生」

「なんだい」

 ヴィオラは筆を置いた。

「先生は、名乗って、後悔なさいましたか」

 しばらく、火の音だけがした。

「したよ」

 マチルドは即答した。

「あんな中途半端なことをせずに、もっと別のやり方があったかもしれない。証石院に本当のことを言って、二人で潰されればよかったのかもしれない。あたしが名乗ったせいで、アンリは断った人間じゃなく、断って助けられた人間になった。あの子は死ぬまで、それを言わなかったよ。礼も、恨みもね。あたしはどっちか言われたかったんだろう。だから後悔なんだ」

 老女は膝の毛布を引き上げた。

「後悔してる。いまでもね」

 ヴィオラは何も言えなかった。

「けどね」

 マチルドが顔を上げた。

「削らなかったことは、一度も後悔しなかった」


 夜、ヴィオラは机の前に座り直した。

 筆に墨を含ませる。

 申立人。

 書き出しの一文字が、出てこない。

 十年、この工房の仕事です、と言ってきた。工房が請けました。工房が削りました。それで通ってきた。誰も咎めない。むしろ、そう言うのが正しかった。

 筆の先が紙に触れ、小さな点になる。

 わたくしなどが。

 その言葉が、初めて頭に浮かんだ。

 十年、一度も浮かばなかった言葉だ。浮かばなかったのは、思わなかったからではない。思う手前で、いつも「工房が」に変換されていたからだ。

 わたくしなどが、国の継承を申し立てるのか。

 名を持たない職人が。台帳のどこにも登録のない手が。

 だが、と思った。

 登録がないから、書けないのではない。書かないから、登録されないのだ。

 父は断って、名ごと潰された。先生は嘘を名乗って、名を返した。二人とも、名の使い方を一度しか選べなかった。

 自分は、まだ選べる。

 紙の上の点が、じわりと広がった。

 ヴィオラは筆を上げて、袖で目のあたりを押さえた。押さえてから、目に何かがあるわけではないと気づいた。ただ、そうしたかっただけだった。

 もう一度、筆を下ろす。

 書いた。

 ヴィオラ・ルサージュ。

 書き終えて、筆を置いた。七文字だ。註文の受け取りに書くのと、一文字も違わない。

 同じ七文字なのに、紙の上での重さが違って見えた。

 それから、理由の欄の末尾に、一行だけ書き足した。

 ——削ったのは、わたくしです。


 ラウルが小屋に着いたのは、その夜遅くだった。

 丘を上ってきた足音が戸の前で止まり、二度叩かれた。

 ヴィオラは申立書を差し出した。

 彼は受け取って、灯りの下で読んだ。上から順に。最後の欄まで。

 それから、末尾の一行のところで、目を止めた。

 長い沈黙があった。

 彼は一行を二度読んだ。目が同じところを二度往復するのが、灯りの下で見えた。

 ラウルは何も言わなかった。褒めもせず、止めもせず、案じもしなかった。

 彼は書付を丁寧に畳み、外套の内側に入れた。

「一一二八年三月十七日。受理いたしました」

 それだけだった。

「デスタン様」

「はい」

「明日は、晴れましょうか」

 照合は自然光で行う。証石院の天井は硝子張りで、曇天なら延期になる。延期になれば、次は一年後だ。

 二人は小屋の外に出た。戸の軋む音で、マチルドが目を覚ました気配がしたが、出てはこなかった。

 空が、澄んでいた。

 三月の夜気は冷たいが、冬の刺すような冷たさではない。星が、丘の上から端まで見えた。

「明日は、晴れます」

 ラウルは空を見上げたまま言った。

「一一二八年三月二十一日。春分でございますね」

「はい」

「わたくしは、罪に問われます」

「問われます」

 彼は否定しない。慰めもしない。

 それが、いちばんありがたかった。

「デスタン様は、明日どうなさいますか」

「照合の場で、台帳を読み上げます」

「命じられた件は」

「命令者の欄を、明日、埋めます」

 ヴィオラは彼を見た。ラウルは空を見上げたままだった。

「職を失われますね」

「失います」

「それでよろしいのですか」

「よろしくはありません」彼は言った。「ですが、保留のままにはできません」

 風が、丘の草を鳴らした。

 ヴィオラは息を吸った。三月の空気が、喉の奥まで入ってきた。

 丘の下で、王都の灯りが散っている。証石院の建物がどれかは、ここからでは分からない。

 明日、あの硝子の天井の下で、生まれて初めて人前で名乗る。

 名乗った瞬間に、罪が確定する。

 それでも、名乗らなければ何も始まらない。

 布を敷かなければ、石は置けないのと同じだった。


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