第27話 「では、いま一面お削りください」と申し上げました
三月に入り、水路の氷が割れた。丘の雪も、日の当たる斜面から順に消えていく。
砥ぎ町の通りは水の音でいっぱいになっている。冬のあいだ止まっていた水車が回り、どの工房も研ぎ台に人が座っていた。
ガルニエ工房の戸を、三人で叩いた。
ヴィオラと、ラウルと――マチルド・オベール。
老女がこの通りに入るのは、十年ぶりだった。
「先生。ご無理をなさらないでください」
「無理じゃないよ。見届けに来ただけだ」
マチルドは杖を持ってきていた。丘の道では使わない杖だ。石畳は膝に来る、と言った。
「宝物監府より参りました。証石院の申立に関する照会です」
ラウルは戸口でそう名乗り、書付を示した。
オーギュストは作業場の奥にいた。前掛けを着けて立っている。座ってはいない。
弟子たちが手を止めて振り返った。セルジュも階段の途中で足を止めている。
「証人の件でございましょう」
「はい」
オーギュストは前掛けの紐を締め直した。
「ドルセー侯爵閣下の申立に、証人として名を連ねております。ヴァレー伯爵家の家石は、当工房が一一二四年に一晩お預かりし、無傷でお返しした。それを証言いたします」
言い慣れた言い方だった。何度も口の中で繰り返した者の言い方だ。
「その証言は、台帳の記載を前提としています」
ラウルは書付を卓に置いた。
「台帳では、当該家石を扱ったのはオーギュスト・ガルニエ、あなたです」
「そうなっております」
「では、確認いたします」
彼は書付の脇に、もう一枚の紙を並べた。
「宝物監規定第十二条。証人が認可研磨師である場合、当該証言の信頼性を確かめるため、宝物監は現場での実技確認を求めることができます」
作業場が、静かになった。
水車の音だけが、外から入ってきていた。
「いま一面、お削りください」
ヴィオラは息を止めた。
その条項を、ラウルはこの八日で見つけたのだろう。一一〇九年の判例を、台帳ではなく規定集から掘り出して。
石を見る人が、紙の中から石を扱う条文を見つけてきた。
オーギュストは動かなかった。
「規定は存じております」ようやく彼が言った。「ですが、それは新規登録の際の条項でしょう」
「証人適格の確認にも適用されます。一一〇九年の判例があります」
ラウルは日付から言った。
「拒まれますか」
「拒めば」
「証言が採用されません」
ヴィオラは戸口の脇に立って、旦那様の顔を見ていた。
十年、この人の顔を近くで見たことがなかった。あの晩、灯りの下で見たのが初めてだった。
「……よかろう」
オーギュストは研ぎ台へ歩いた。
奥の台だ。四年、布が掛かったままになっていた台。アニエスが月に二回、命じられて拭いてきた台。
布を取る。
弟子の一人が、桶に水を汲んで持ってきた。若い男だ。手が震えていた。旦那様が研ぎ台に座るところを、この弟子も見たことがないのだろう。
オーギュストは座った。
椅子の高さが合わない。四年、誰かが動かしたのだろう。彼は座り直し、もう一度座り直した。
砥石を並べる。右下から。この人はそういう並べ方をする。
石を布の上に置いた。飾り石だ。誰の家石でもない。
水を落とす。
手を、伸ばした。
その手が、石を掴めなかった。
親指と人差し指は開く。だが薬指と小指と中指が、第一関節から曲がらない。石を挟むには、四本以上が要る。三本では滑る。
オーギュストは左手を添えた。
添えれば持てる。だが、砥石に当てる角度が作れない。角度は手首と指の三点で決まる。三点のうち二つが死んでいれば、面は付かない。
彼はもう一度、右手だけで持とうとする。
石が、布の上を転がった。
誰も動かなかった。
水車の音が、遠くで回っていた。誰も咳払いすらしなかった。
「オーギュスト」
マチルドの声だった。
老女は作業場に入ってきて、研ぎ台の脇に立った。
「あんた、もう四年、削ってないね」
オーギュストは顔を上げなかった。
「五年だ」
小さな声だった。
「五年になる」
「言わなかったんだね」
「言えば、工房が終わる」
声が、思ったより若かった。人は嘘をやめると声が変わるのかもしれない、とヴィオラは思った。
誰かが息を呑む音がした。セルジュだ。階段の途中で、父の背中を見ている。
「四年前、あんたは一晩だけ削ったろう」マチルドが言った。「モロー商会の証石だ。三面。夜が明けたはずだよ」
「なぜ、知っている」
「稜線が丸かったからさ。あんたの若い頃の面は、剃刀みたいに角が立ってた」
老女は研ぎ台に手を置いた。
「あれだけは、人にやらせられなかったんだね」
オーギュストは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
弟子たちが顔を見合わせている。若い者は事情が分からず、古い者は分かった顔をしていた。分かっていて、十年黙っていた顔だ。
ヴィオラは、旦那様の右手を見ていた。
勝ったとは思わなかった。
この人は、削れなくなった日に、誰にも言えなかったのだ。工房主が削れなくなったと知れれば、認可が疑われ、客が離れ、弟子が離れる。二十年かけて作ったものが、指三本で終わってしまう。
だから隠した。隠すために、名を持たない娘が要った。十で引き取った娘が、十六で王都のどの若手より正確に削るようになったとき、この人は喜んだだろうか。それとも、怖かっただろうか。
推挙しなかったのは、腕が惜しかったからだけではない。
推挙すれば、この娘は独立する。独立すれば、自分の手を見る者が工房から一人減る。減れば、削っているのが誰かを、いつか誰かが数え始める。
名のない者に削らせておけば、自分の手を見る者は一人で済む。
「旦那様」
声が出た。
「四年前、七つのうち六つは、この手で削りました」
作業場の全員が、こちらを見た。
「七つ目も、わたくしの手でございます。半分眠ったまま、削らされました」
言ってから、ヴィオラは自分が何を言ったかを確かめた。
工房が、とは言わなかった。十年で初めてだった。
それでも、わたくしが、とは言えていない。この手で、と逃げた。手は自分のものだが、自分そのものではない。
半分だけ、進んだ。
「モロー商会の三つ目は、旦那様のお手でございますね」
オーギュストは椅子に座ったまま、右手を左手で包んだ。
あの夜、扉の隙間から見たのと、同じ形だった。
「証言は、取り下げる」
それだけ言って、彼は立ち上がらなかった。
工房を出ると、水路の水が眩しかった。
「証人が消えました」ラウルが言った。「侯爵は、自分で証言台に立つことになります」
ヴィオラは通りの先を見ていた。
照合の日まで、十七日。
「デスタン様」
「はい」
「申立の対象は、ヴァレー伯爵家の家石でございます」
「そうです」
「侯爵家の家石は、照合の場に出ますでしょうか」
ラウルは足を止めた。
「申立の場では、関連する石すべてが検分の対象になります。ヴァレー家の面が落ちた先を問えば、侯爵家の石も出さざるを得ません」
「出さないと拒めますか」
「拒めません。自分で申し立てた照合ですから」
水路の水が、板橋の下で鳴っていた。




