第26話 四年前の十二月に、あの方の師は亡くなっておりました
「フォンテーヌ様の、お屋敷が」
アニエスは膝に手をついて、息を整えてから続けた。
「取り壊されるそうです。相続する人がいないから、王都が引き取って、更地にして売るって。来月です」
ヴィオラは丘の道の途中で足を止めていた。
「中のものは」
「まとめて処分だそうですよ。誰も取りに来ないから」
四年、空き家のままだった屋敷だ。
台帳庫の鍵が返却されていない。マチルドは、削れない男が籠もったなら「しまうか、壊すか、持ち出すか」だと言った。
持ち出したものは、どこかにある。
「アニエス」
「はい」
「ありがとうございます」
娘は目を丸くした。それから、腰に手を当てて胸を張った。
「やっと言いましたね」
封を解く許可を得るのに、八日かかった。
宝物監の職務として、前任者の遺品に王家の物品が含まれていないかを確認する。ラウルはそういう名目で書類を通した。書類には日付が入り、理由の欄が二行埋まっていた。
二月の終わり、二人はその屋敷の前に立った。
石造りの小さな家だ。窓が板で塞がれ、庭の木が伸び放題になっている。門柱の名札は外されていた。外した跡だけが、四角く色を変えて残っている。
ラウルが鍵を差し込んだ。回らない。二度目で回った。
扉を押すと、埃と、乾いた紙の匂いが流れ出した。
人の暮らしの匂いが、もう残っていない。
玄関の壁に、外套掛けが残っていた。何も掛かっていない。床に敷物の跡だけが四角く残っている。
誰も住まなくなった家は、家具より先に匂いから消えるのだと、ヴィオラは初めて知った。
書斎は二階の奥だった。
窓の板の隙間から、細い光が何本か入っている。埃がその中で漂っていた。
机の上に、布が敷いてある。
白い麻。四年ぶんの埃を被っているが、四隅がきちんと揃えてあった。埃が均等に積もっているので、置いてから誰も触っていないと分かる。
その上に、小さな石が一つ置かれている。
ヴィオラは動かなかった。
「ルサージュ殿」
「布が、敷いてございます」
声が掠れた。
「この方は、石を扱う方でした」
ラウルは何も言わずに、窓の板を一枚外した。光が入る。二月の、午後の光だった。
ヴィオラは自分の布を出して、その隣に敷いた。埃を払い、石を移す。
拡大鏡を出すまでもなかった。
面が三つ。小さな証石の欠片だ。
左肩から入って、時計回り。三番から五番へ飛んでいる。稜線の手前で、仕上げが残してある。
わたくしの手だ。
そして――指が、覚えていた。
石を持ち上げた瞬間、掌の記憶が戻ってきた。この重さ。この角の落ち方。真夜中に起こされて、寝間着の上に外套を羽織って、階下へ下りた。旦那様が卓に石を置いていた。眠いまま、蝋燭一本で削った。
一本では足りなかった。だから番手を飛ばした。
半分眠ったまま削って、部屋に戻って倒れるように寝た。
翌朝、覚えていなかった。
「七つ目でございます」
「間違いありませんか」
「一一二四年の、十二月でございます」
ヴィオラは石を布に置いた。
「日付までは分かりません。ただ、寒うございました。桶の水が、朝には凍っておりました」
「なぜ、この石だけを覚えていなかったのですか」
「起きていなかったからでございます」
ヴィオラは自分の指を見た。
「手だけが働いておりました。頭は寝ておりました。ですから記憶にならず、癖だけが石に残りました」
ラウルはしばらく黙っていた。それから、机の抽斗に手を掛けた。
ラウルは机の引き出しを開けていた。
二つ目の引き出しの奥から、綴じた手記が出てきた。革の表紙が反っている。
彼は頁を繰った。日付順に並んでいる。師の字だ。年、月、日のあいだに点を打たない書き方だった。
最後の頁で、手が止まった。
「一一二四年、十二月十九日」
彼は読み上げた。
「ガルニエ工房の記録に不一致。一一二四年十月分、綴りより欠落。ドルセー侯爵家の家石について、現物照合の要あり。証石院への申立を検討」
埃が、光の中でゆっくり回っていた。
「師が死んだのは、十二月二十二日です」
三日。
ヴィオラは石を見ていた。自分が削った七つ目を。
この石は、証石の欠片だ。モロー商会の三つのうち、一つが不明の手だった。あれは旦那様が一人で籠もった夜に削ったもの。この七つ目は、その同じ月に、自分が半分眠ったまま削ったもの。
二つは対になっている。同じ取引を、二方向から書き替えたのだ。
そしてフォンテーヌ監は、それを照合しようとして、この石を手元に置いた。
「心の臓だと聞いております」
「聞いた、というだけです」ラウルの声が低くなった。「診た医師の名を、私は知りません。届出は屋敷の者が出しています。その者も、いまはおりません」
彼は手記を閉じた。閉じてから、もう一度開いて、日付だけを確かめた。
「一一二四年十二月十九日に、師はこれを書いた」
「はい」
「同じ月に、あなたはこの石を削らされている」
「はい」
「そして三日後に、師は死んだ」
ラウルは窓のほうを見た。板を外した隙間から、王都の屋根が見える。
「私は三年間、これを事故だと思っていました」
彼は手記を胸の内側に入れた。
「ヴィオラ」
名を呼ばれた。
姓ではなく。
「あなたを、一人では行かせません」
ヴィオラは何も答えられなかった。
答える形を持っていない。
この人は、行かせないと言った。守るとも、助けるとも言っていない。
一人では行かせない。その一言だけを置いて、あとは何も約束しなかった。
ヴィオラは布を畳んだ。畳んだ布を、道具箱に入れず、掌に握ったままにした。
屋敷を出たところで、宝物監府の使いが待っていた。
ラウルは書付を受け取り、その場で開いた。
読んで、動かなくなった。
「どうなさいましたか」
「証石院に、申立が出ました」
彼は書付をこちらに向けた。
春分の照合の日。申立の対象——ヴァレー伯爵家の家石。
申立の理由——当該家石に、認可を有しない者が触れた形跡がある。
申立人の欄に、名前があった。
ジュリアン・ドルセー。
ヴィオラは書付を読み返した。二度、読み返した。
「先手を打たれました」
「はい」
「照合の日に、無認可の者が家石に触れたという話が、公の場に出ます」ラウルは書付を畳んだ。「そして、その者が誰かは、すぐに分かります」
「ヴァレー伯爵家の申立を、なぜ侯爵が」
「あの家の代替わりが止まれば、領地の差配が証石院に移ります」ラウルは言った。「差配が移れば、借財の整理も証石院の管轄になる。四年前の猶予の話が、記録に残る形で表に出る」
「それでは、あの方にも不利では」
「先に自分で申し立てれば、話の枠を決められます」
枠。
無認可の職人が家石に触れた——その話にしてしまえば、面の数の話は出ない。
二月の風が、更地にされる予定の庭を吹き抜けた。
伸びきった木の枝が、乾いた音を立てた。来月にはこの庭もなくなる。この家に何があったかを覚えている者は、もう誰もいなくなる。




