第25話 恩師は元婚約者の手を取って、「削ったことないだろう」と申しました
雪解けの水が、砥ぎ町の水路を鳴らしている。
冬のあいだ細っていた流れが戻り、水車が回り始めていた。研ぎには清水が要る。この音が戻ると、砥ぎ町の一年が始まる。
「道具を取りに行くよ」
マチルドが唐突にそう言ったのは、七日ぶりに晴れた朝だった。
「どちらへ」
「砥ぎ町だ。仕上げ砥が割れてね。あそこの砥石屋でないと、目の合うのがない」
「わたくしが伺ってまいります」
「あんたじゃ選べないよ」老女は外套を羽織った。「あたしの手に合う目は、あたしの指でしか分からない」
十年住んだ通りを、ヴィオラは客として歩いた。
両側の工房から、ざり、ざり、と粗砥の音がする。しゅ、と中砥。仕上げに入った工房は音がしない。歩くだけで、どこがどこまで進んでいるかが分かる。
マチルドは砥石屋の店先にしゃがみ込み、板の上に並んだ砥石を一つずつ指で撫でていた。
「これは目が粗い。焼きが甘いね。……これも駄目だ」
「先生、そちらは中砥でございます」
「分かってるよ。中砥の目で仕上げ砥を測るんだ。同じ山から出た石なら、目の詰まり方が似る」
店主が奥から出てきて、老女の顔を見て、それから深く頭を下げた。
「オベールさん。お久しゅうございます」
「生きてるよ、まだね」
店主は奥から布に包んだ砥石を持ってきた。並べていなかった一つだ。
マチルドはそれを撫でて、鼻から息を吐いた。
「これだ。いくらだい」
店主は値を言わなかった。
「持っていってください」
「そういうのは受け取らないよ」
「では、いつもの半分で」
老女は銅貨を数えて置いた。半分より少し多い。
ヴィオラは店の外でそれを見ていた。
この人がこの通りを歩かなくなって、十年になる。それでも店主は名を覚えていた。名を覚えられるということが、どういうことなのか、初めて分かる気がした。
店を出るとき、店主が小さく言った。
「オベールさんの仕事は、この町でいちばん雑でした」
「聞こえてるよ」
「雑ですが、一度も割りませんでした」
マチルドは振り返らずに手を振った。
アニエスと落ち合ったのは、水路の板橋の上だった。
「ヴィオラさん! 痩せましたね!」
「あなたは太られましたね」
「そうなんですよ、冬は仕方ないですよね」
アニエスは籠の中の芋を見せてきた。安かったのだと言う。工房の台所は変わらず回っていて、旦那様は最近ほとんど二階から下りてこないらしい。
「あ、それと。旦那様、この頃ずっと右手を布で巻いてます」
「布で」
「冬は冷えるからって言ってますけど、あれ、冬の前からです」
彼女は籠を提げていた。買い出しの途中らしい。籠の柄を持つ手の甲が、あかぎれで赤い。台所仕事の手だ。
三人で歩くのは初めてだった。マチルドが前を行き、アニエスが横で喋り、ヴィオラが半歩遅れる。誰も急いでいない。
こういう時間の使い方を、十年してこなかった。
三人で歩いていると、ガルニエ工房の前に出た。
扉が開いて、セルジュが出てきた。
立ち止まったのは、彼のほうだった。
「ヴィオラ。……久しぶりだね」
「ご無沙汰しております」
「戻ってくればいいのに。父さんも困ってるんだ。年明けの注文が納まらなくて」
悪びれない。二か月前と、一言も変わらない。
「セルジュ様」
「うん」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「なに」
「わたくしたちの婚約石は、どちらにございますか」
セルジュが瞬きをした。
「婚約石」
「はい」
「……作ったと思うけど」
「記録がございません。証石院にも、工房にも」
「そうかな。父さんが持ってるんじゃないか」
同じ答えだった。二年前と、二か月前と、今日と。
婚約が決まったとき、彼は「よろしく」と言った。婚約が消えたとき、「そういうものだろう」と言った。そのあいだの二年で交わした言葉を全部集めても、たぶん一日ぶんにもならない。
この人は一度も確かめていない。確かめる必要があると、一度も思わなかった。
ヴィオラは頭を下げた。
「承知いたしました」
「なに、どうしたの」
「もう、伺うことはございません」
セルジュが困った顔をした。怒れないのだ。怒る理由が分からないから。
マチルドが、前に出た。
老女はセルジュの手を、断りもなく取った。
「え、あの」
掌を上に返させ、指の腹を親指で押していく。人差し指、中指、薬指。爪の生え際まで。
ヴィオラが二か月前にしたのと、同じ順番だった。
「あんた」
「はい」
「削ったこと、ないだろう」
水路の水が鳴った。
「削ってます。認可も持ってますし」
「認可は紙だよ」
「認可の話はしてないよ。手の話をしてる」
マチルドは手を離した。
「腹に力を入れて石を押した手じゃない。三日削れば分かるようになる。三日でいいんだ。それをしなかった」
「僕は」
「あんたのせいじゃないさ」
老女はそう言って、外套の襟を直した。
「教える者がいなかったんだ。父親が教えなかった。それだけの話だよ」
マチルドは水路のほうを見た。
「あんたの親父さんはね、教える相手を間違えたんじゃない。教えない相手を間違えたんだ」
セルジュには、その意味が分からなかったらしい。ヴィオラにも、半分しか分からなかった。
セルジュは何も言い返さなかった。
言い返す言葉を、たぶん持っていない。
ヴィオラは彼の顔を見た。困っている。困っているだけだった。悔しさも、恥もない。
この人には、失ったものが見えていないのだ。見えていないものは、失えない。
三人が歩き出しても、彼はしばらく工房の前に立っていた。
丘への道は、日が傾くと凍り始める。昼に溶けた泥が、そのままの形で固まる。踏むと、乾いた菓子を割るような音がした。
「ああいうのが、いちばんたちが悪いんだよ」
マチルドが歩きながら言った。
「悪気がない。悪気がないから、詫びない。詫びないから、こっちも怒れない」
「はい」
「腹が立たないかい」
「立ちません」
ヴィオラは息を吐いた。白くなって、消えた。
「二年、婚約しておりました。その二年が、この国の記録のどこにもございません。書付一枚で終わりました」
「悔しくないのかい」
「悔しくは、ないのです」
それが、いちばん寒いことだった。
あの人を憎めれば、二年に意味が出る。憎めないから、二年は本当に何もないままだ。
「先生は、ご結婚は」
「したよ。二十四で。三年で死んだ」老女はあっさり言った。「風邪をこじらせてね」
「存じませんでした」
「言ってないからね。あの三年は、あたしの中にちゃんとある。誰の記録になくても、あたしが覚えてるから、ある」
凍り始めた道を、老女はゆっくり歩いた。
「あんたの二年は、記録にもないし、あんたも覚えていたくない。だから、ないんだよ。それでいいのさ」
丘の中腹で、下から人が上ってくるのが見えた。
アニエスだった。籠を放り出して、走ってくる。
「ヴィオラさん!」
息が続いていない。籠は途中に置いてきたらしく、手ぶらだった。
「フォンテーヌ様の、お屋敷が」




