第24話 「一面だけ削り落としてください」と、侯爵はお願いなさいました
雪解けが始まっていた。
丘の道は昼のあいだ泥になり、夜に凍る。歩くには、いちばん厄介な時期だ。
ドルセー侯爵の使いが来たのは、朝いちばんだった。馬車は麓に停めてある、との口上だけを置いて、使いは待たずに下りていく。
断る形が、また用意されていない。
「行くのかい」
マチルドは戸口で薪を抱えたまま言った。
「はい」
「持っていくものは」
「布と、拡大鏡と、砥石を七つ」
老女が薪を落とした。
乾いた音が、土間に散った。
「あんた」
「向こうが揃えているものを使えば、こちらの言い分が立ちません」ヴィオラは道具箱の留め金を掛けた。「削らないと申し上げるのに、削れない支度で行くのは、卑怯でございます」
侯爵邸の応接には、前と同じ卓が窓の側に寄せてあった。
布は、敷いていなかった。
「今日は、あなたがお敷きになると思いまして」
ドルセーはそう言って、椅子を勧めた。
ヴィオラは自分の布を出し、卓に敷いた。それから道具箱を床に置いた。
「石を、見ていただきたいのです」
侯爵は自ら箱を運んできた。使用人を使わない。
蓋を開ける。
中の石は、掌に余る大きさだった。持ち手のところに、深い擦れがある。三百年ぶんの、親指の跡。
ドルセー侯爵家の家石だった。
ヴィオラは動かなかった。
家石は、当主と証石院の立会いなしに人前へ出すものではない。まして職人の手に渡すものでもない。それをこの人は、使用人も入れない部屋で、自分の手で運んできた。
立会人がいないということは、この場で何が起きても記録が残らないということだ。
「どうぞ」
「……お預かりいたします」
布の上に移す。窓は南向きで、二月の日が低く差し込んでいる。石を回すと、面と面のあいだの稜線が、順に光を返した。
数える。
十二。
「一面だけ、削り落としていただきたいのです」
侯爵の声は、依頼のときの声だった。
ヴィオラは拡大鏡を出した。
十二の面を、一つずつ見ていく。艶。稜線の丸み。番手の段。
一面目から十一面目までは、古い。艶が落ち着いていて、擦れが均等に回っている。百年、二百年と手に握られてきた面だ。
十二面目。
左肩から入って、時計回り。
三番から、五番へ飛んでいる。
稜線の手前で、仕上げがわずかに残してある。艶が一段低い。
拡大鏡の中で、その面だけが四年しか経っていなかった。
周りの十一面は、艶がよく合わせてある。合わせてあるのは、こちらも自分が均したからだ。四つの家から落とした厚みで、全体を薄く撫で直した。だから十二面が同じ年に見える。
同じ年に見えるように作ったのは、この手だ。
ヴィオラは石を布に置いた。
「削るのは、この面でございますね」
「そうです」
「なぜでございましょう」
「その面は、本来ないものだからです」
侯爵は卓の向こうで手を組んだ。
「削り落とせば、我が家の石は十一面に戻る。正しい数に戻るのです。あなたは、間違いを直すだけだ」
薪が音を立てた。
「削らなければ、いずれ露見します。そのとき問われるのは、削った者です。台帳に登録のない手が、家石に触れた。それは動かせない事実でしょう」
「動かせません」
「削れば、消えます」
沈黙が落ちた。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「四年前、この面を刻ませたのは、どなたでございましょう」
「ガルニエ工房です」
「工房には、手がございません」
侯爵は、わずかに目を細めた。前に一度、同じ言葉を誰かに言ったことがあるという顔だった。
「よく似たことを、私も申しました」
ヴィオラは自分の道具箱を見た。砥石が七つ、番手の順に入っている。水は厨房から借りればいい。研ぎ台は、この卓で足りる。光は南から入っている。
四半刻だ。
いや、この面は薄い。四半刻もかからない。
削れば、十二面目は消える。自分の癖が消える。四年前の夜が、この世から一つ減る。
旦那様の推挙状が出る。ルサージュの名で削れるようになる。
父が持てなかった名前が、来る。
「削りません」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「なぜです」
侯爵は怒らなかった。むしろ、丁寧になった。
「あなたは、罰せられます。無認可で家石に触れた罪は、流刑です。私が言わずとも、誰かが言う」
「存じております」
「削れば、誰も傷つかない。誰も。あなたも」
「消せるということは、作れるということです」
ヴィオラは布の端を折り返した。折り返してから、そうしていることに気づいた。父の癖だ。
「一度でも消せば、次に何を作れと言われても、断れなくなります」
「一度だけです」
「一度だけ、と申されて削ったのが、四年前でございました」
侯爵の指が、卓の上で止まった。
「あのときは、修復だと伺いました。傷んだ家石を整えるのだと。夜のうちに済ませろと言われて、蝋燭を三本立てて削りました」
「知らなかったのですね」
「知りませんでした。ですから、断れませんでした」
ヴィオラは拡大鏡を布の上に置いた。
「今日は、知っております」
窓の外で、雪解けの水が樋を流れる音がした。
侯爵はしばらく黙っていた。それから、初めて微笑まなかった。
「では、あなたが削ったという記録だけが残りますね」
「はい」
「それで、よろしいのですか」
「よろしくはございません」
ヴィオラは石を箱に戻した。両手で、ゆっくりと。
「ですが、削れば、父も先生も間違っていたことになります」
箱の蓋を閉じる。
「父は断って、工房を潰されました。先生は嘘の名乗りをして、認可を返しました。二人とも、何も救えませんでした。それでも削らなかった。わたくしが今日削れば、あの二人は、ただ損をしただけの人になります」
侯爵は何も言わなかった。
ヴィオラは布を畳み、道具箱に入れた。砥石は一つも出さなかった。
帰りの馬車は、用意されていなかった。
門を出るとき、御者小屋に灯りは点いていた。誰も出てこなかった。
王都までは一時間。丘まではさらに二時間。日はまだ高い。
泥と雪の道を、ヴィオラは歩いた。道具箱の留め金が、肩に食い込む。持ち替えると、今度は反対の肩に食い込む。
削らなかった。
だから、罪は残る。
証拠は現物の面に、はっきりと刻んである。台帳には自分の名がない。名がないから、庇ってくれる記録もない。
旦那様は「工房の仕事だ」と言うだろう。言えば、責は工房主に行く。だが四年前だけは、旦那様もそう言わない。言えないほどのものを請けたからだ。
残るのは、削った手だけになる。
あの方は、これから証石院に何かを持ち込むだろう。無認可の職人が家石に触れたという話を、いちばん都合のいい形にして。
わたくしは、罰せられる。
橋の上で、ヴィオラは一度だけ足を止めた。
水が出ていた。冬のあいだ凍っていた川が、底のほうから動き始めている。氷が割れる音が、遠くで一度した。
息を吐く。白くなって、すぐに消えた。
手を見た。
削らなかった手だ。
まだ、わたくしのものだった。




