↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/30

第24話 「一面だけ削り落としてください」と、侯爵はお願いなさいました

 雪解けが始まっていた。

 丘の道は昼のあいだ泥になり、夜に凍る。歩くには、いちばん厄介な時期だ。

 ドルセー侯爵の使いが来たのは、朝いちばんだった。馬車は麓に停めてある、との口上だけを置いて、使いは待たずに下りていく。

 断る形が、また用意されていない。

「行くのかい」

 マチルドは戸口で薪を抱えたまま言った。

「はい」

「持っていくものは」

「布と、拡大鏡と、砥石を七つ」

 老女が薪を落とした。

 乾いた音が、土間に散った。

「あんた」

「向こうが揃えているものを使えば、こちらの言い分が立ちません」ヴィオラは道具箱の留め金を掛けた。「削らないと申し上げるのに、削れない支度で行くのは、卑怯でございます」


 侯爵邸の応接には、前と同じ卓が窓の側に寄せてあった。

 布は、敷いていなかった。

「今日は、あなたがお敷きになると思いまして」

 ドルセーはそう言って、椅子を勧めた。

 ヴィオラは自分の布を出し、卓に敷いた。それから道具箱を床に置いた。

「石を、見ていただきたいのです」

 侯爵は自ら箱を運んできた。使用人を使わない。

 蓋を開ける。

 中の石は、掌に余る大きさだった。持ち手のところに、深い擦れがある。三百年ぶんの、親指の跡。

 ドルセー侯爵家の家石だった。

 ヴィオラは動かなかった。

 家石は、当主と証石院の立会いなしに人前へ出すものではない。まして職人の手に渡すものでもない。それをこの人は、使用人も入れない部屋で、自分の手で運んできた。

 立会人がいないということは、この場で何が起きても記録が残らないということだ。

「どうぞ」

「……お預かりいたします」

 布の上に移す。窓は南向きで、二月の日が低く差し込んでいる。石を回すと、面と面のあいだの稜線が、順に光を返した。

 数える。

 十二。

「一面だけ、削り落としていただきたいのです」

 侯爵の声は、依頼のときの声だった。


 ヴィオラは拡大鏡を出した。

 十二の面を、一つずつ見ていく。艶。稜線の丸み。番手の段。

 一面目から十一面目までは、古い。艶が落ち着いていて、擦れが均等に回っている。百年、二百年と手に握られてきた面だ。

 十二面目。

 左肩から入って、時計回り。

 三番から、五番へ飛んでいる。

 稜線の手前で、仕上げがわずかに残してある。艶が一段低い。

 拡大鏡の中で、その面だけが四年しか経っていなかった。

 周りの十一面は、艶がよく合わせてある。合わせてあるのは、こちらも自分が均したからだ。四つの家から落とした厚みで、全体を薄く撫で直した。だから十二面が同じ年に見える。

 同じ年に見えるように作ったのは、この手だ。

 ヴィオラは石を布に置いた。

「削るのは、この面でございますね」

「そうです」

「なぜでございましょう」

「その面は、本来ないものだからです」

 侯爵は卓の向こうで手を組んだ。

「削り落とせば、我が家の石は十一面に戻る。正しい数に戻るのです。あなたは、間違いを直すだけだ」

 薪が音を立てた。

「削らなければ、いずれ露見します。そのとき問われるのは、削った者です。台帳に登録のない手が、家石に触れた。それは動かせない事実でしょう」

「動かせません」

「削れば、消えます」

 沈黙が落ちた。

「一つ、伺ってもよろしいですか」

「どうぞ」

「四年前、この面を刻ませたのは、どなたでございましょう」

「ガルニエ工房です」

「工房には、手がございません」

 侯爵は、わずかに目を細めた。前に一度、同じ言葉を誰かに言ったことがあるという顔だった。

「よく似たことを、私も申しました」

 ヴィオラは自分の道具箱を見た。砥石が七つ、番手の順に入っている。水は厨房から借りればいい。研ぎ台は、この卓で足りる。光は南から入っている。

 四半刻だ。

 いや、この面は薄い。四半刻もかからない。

 削れば、十二面目は消える。自分の癖が消える。四年前の夜が、この世から一つ減る。

 旦那様の推挙状が出る。ルサージュの名で削れるようになる。

 父が持てなかった名前が、来る。

「削りません」

 自分の声が、思ったより静かに出た。


「なぜです」

 侯爵は怒らなかった。むしろ、丁寧になった。

「あなたは、罰せられます。無認可で家石に触れた罪は、流刑です。私が言わずとも、誰かが言う」

「存じております」

「削れば、誰も傷つかない。誰も。あなたも」

「消せるということは、作れるということです」

 ヴィオラは布の端を折り返した。折り返してから、そうしていることに気づいた。父の癖だ。

「一度でも消せば、次に何を作れと言われても、断れなくなります」

「一度だけです」

「一度だけ、と申されて削ったのが、四年前でございました」

 侯爵の指が、卓の上で止まった。

「あのときは、修復だと伺いました。傷んだ家石を整えるのだと。夜のうちに済ませろと言われて、蝋燭を三本立てて削りました」

「知らなかったのですね」

「知りませんでした。ですから、断れませんでした」

 ヴィオラは拡大鏡を布の上に置いた。

「今日は、知っております」

 窓の外で、雪解けの水が樋を流れる音がした。

 侯爵はしばらく黙っていた。それから、初めて微笑まなかった。

「では、あなたが削ったという記録だけが残りますね」

「はい」

「それで、よろしいのですか」

「よろしくはございません」

 ヴィオラは石を箱に戻した。両手で、ゆっくりと。

「ですが、削れば、父も先生も間違っていたことになります」

 箱の蓋を閉じる。

「父は断って、工房を潰されました。先生は嘘の名乗りをして、認可を返しました。二人とも、何も救えませんでした。それでも削らなかった。わたくしが今日削れば、あの二人は、ただ損をしただけの人になります」

 侯爵は何も言わなかった。

 ヴィオラは布を畳み、道具箱に入れた。砥石は一つも出さなかった。


 帰りの馬車は、用意されていなかった。

 門を出るとき、御者小屋に灯りは点いていた。誰も出てこなかった。

 王都までは一時間。丘まではさらに二時間。日はまだ高い。

 泥と雪の道を、ヴィオラは歩いた。道具箱の留め金が、肩に食い込む。持ち替えると、今度は反対の肩に食い込む。

 削らなかった。

 だから、罪は残る。

 証拠は現物の面に、はっきりと刻んである。台帳には自分の名がない。名がないから、庇ってくれる記録もない。

 旦那様は「工房の仕事だ」と言うだろう。言えば、責は工房主に行く。だが四年前だけは、旦那様もそう言わない。言えないほどのものを請けたからだ。

 残るのは、削った手だけになる。

 あの方は、これから証石院に何かを持ち込むだろう。無認可の職人が家石に触れたという話を、いちばん都合のいい形にして。

 わたくしは、罰せられる。

 橋の上で、ヴィオラは一度だけ足を止めた。

 水が出ていた。冬のあいだ凍っていた川が、底のほうから動き始めている。氷が割れる音が、遠くで一度した。

 息を吐く。白くなって、すぐに消えた。

 手を見た。

 削らなかった手だ。

 まだ、わたくしのものだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。