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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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22/30

第22話 八日かけて台帳を書き写した方は、それを職務だとおっしゃいました

 雪が深い。

 丘の道は膝まで埋まる日があって、そういう日は誰も上ってこない。ヴィオラは飾り石を削り、樋の氷を割り、五枚目と六枚目を布に包んだまま、研ぎ台の隅に置いていた。

 削っていない。

 削らないと決めたわけでもない。決められないまま、日が過ぎている。

 朝、樋の氷を割るたびに考える。今日は座らない。夕方、飾り石を仕上げるたびに考える。明日は座るかもしれない。

 マチルドは八日、一度も催促しなかった。かわりに、毎晩ヴィオラの椀に一杯多く注いだ。痩せたと思っているのだろう。

 八日目の昼過ぎ、マチルドが窓の外を見て言った。

「来たよ」

 人影が一つ。凍った轍を、足首まで雪に取られながら上ってくる。

 紙の束を、外套の内側に抱えていた。


「一一二八年一月二十三日」

 ラウルは戸口で雪を払い、そう言ってから中に入った。日付から始まるのは、いつもと同じだ。

 違うところが、一つある。

 手袋をしていない。

 卓に置かれた紙束は、これまでの倍ほどある。指が墨で黒い。爪の際まで染みていた。

「台帳の写しです」

「これだけ、全部を」

「ヴァレー、ラングレ、ボワイエ、モロー、デュラン。それとルサージュ、ガルニエ二名分。八日かかりました」

 ヴィオラは紙を一枚取った。

 細かい字が、六段に組んである。受け渡しの日付、依頼元、面の数、担当者名。台帳の様式そのままだった。

 受け渡しの記録は、四年前まで遡っていた。一一二四年の九月と十一月がある。十月はない。台帳にも、ないものはない。

 次の紙を繰る。

 そこには、石の話が書いてあった。

 ——左肩から入り、時計回り。四番の番手を飛ばすことがある。稜線の手前で仕上げを残す。艶が一段低い。

 ヴィオラは手を止めた。

「これは」

「見本片は写せません。石は紙に移らない。ですから、癖を言葉にしました」

「……なぜ」

「そうしなければ、残らないからです」

 ラウルは椅子に座らなかった。立ったまま、紙束の角を揃えている。

「一月十五日、私は台帳の持ち出しを命じられました」

 紙を繰る音が止まった。

 ヴィオラは顔を上げた。

「どなたに」

「申し上げられません」

 言わない、ではなく、申し上げられない。

「従えば、台帳は正確でなくなります。従わなければ、私は職を失う。次の副監は、不一致を一致に書き換えるでしょう。そのほうが誰も困らない」

 彼は角を揃え終えて、手を下ろした。揃っていた角を、もう一度は揃えなかった。

「どちらでも、台帳は残りません。ですから、写しました」

 囲炉裏の炭が、小さく鳴った。

 ヴィオラは紙束を見た。八十枚は下らない。八日で八十枚。一日十枚。台帳庫に暖房はない。窓が高く、光は棚の中段までしか届かない。

 指が悴んだまま、細字を書き続けたのだ。手袋をしていては書けないから、外して。

 だから、爪の際まで墨が入っている。

「デスタン様」

「はい」

「これは、わたくしのためですか」

 部屋が静かになった。

 マチルドが薪を割る音も止まっていた。老女はさっきから戸口の外にいる。

 ラウルは長いあいだ黙っていた。

 答えを探しているのではない。答えは持っていて、それを口に出す形が見つからないという黙り方だった。

「私は」

「はい」

「あなたの名が台帳にない状態を、不正確だと思っています」

 彼は自分の手を見た。墨で汚れた指を。

「それだけです」

 ヴィオラは紙束の一枚を、指でなぞった。

 左肩から入り、時計回り。

 台帳のどこにも登録されていない癖が、この紙の上には言葉として残っている。

 登録の準備を、この人は勝手に進めていた。

「湯を、お淹れいたします」

 それしか言えなかった。

 礼を言うべきだと分かっている。分かっていて、喉の途中で止まる。十年、与えられ方を知らないまま来た。

「ルサージュ殿」

「はい」

「その紙は、写しです。原本ではありません」

「存じております」

「写しには、証拠の力がありません」ラウルは戸口で外套を着た。「ですから、原本が必要です。原本を残すために、私は職を失うわけにはいかない」

 外の雪明かりが、彼の輪郭を白く縁取っていた。

「三日と言われました。今日で八日です」


 ラウルが丘を下りていったあと、マチルドが戻ってきた。

 土間で長靴の雪を落としながら、老女は言った。

「あの男、あんたのために職を捨てるよ」

「台帳のためです」

 マチルドが笑った。声を立てて笑うのを、ヴィオラは初めて聞いた。

「何がおかしいのですか」

「あんたも大概だと思ってね」

 老女は毛布を肩に掛けて、囲炉裏の前に座った。

「石は読めるのに、人が読めない。あの男も同じだ。台帳は読めるのに、自分が読めない」

「わたくしは、読める必要がございません」

「そうかい」

「石が読めれば、仕事はできます」

 マチルドは炭を掻いた。

「アンリもそう言ってたよ。あんたの母親と一緒になるまでね」

 ヴィオラは黙った。

 母のことは、ほとんど覚えていない。父は一度も話さなかった。

「先生」

「なんだい」

「父は、母のことをどうお思いだったのでしょうか」

「知らないよ。あの子も言わなかったからね」老女は火を掻いた。「石が読めれば仕事はできる。仕事ができれば、それでいいと思ってたんだろう」

「違ったのでしょうか」

「さあね。あたしは削るのをやめた人間だ。やめた人間の言うことは、当てにおしでないよ」


 その夜、ヴィオラは紙束を最初から読んだ。

 台帳の写しは、正確だった。日付も、依頼元も、面の数も。

 だが、ヴァレー伯爵家の頁の末尾に、台帳にはないはずの一行があった。

 ——一一二八年一月十五日、宝物監府副監、台帳の庫外持ち出しを命じられる。命令者の記載は保留。

 ヴィオラは紙を持つ手を止めた。

 この人は、自分に命じられたことまで記録している。

 保留、と書いてある。名を書けば、それは告発になる。書かなければ、記録が不完全になる。

 だから、保留と書いた。

 書けるようになる日まで、空けてある。

 ヴィオラは末尾の余白を指でなぞった。紙の目が、指の腹に引っかかる。

 この人は、自分が潰されることを勘定に入れている。入れた上で、潰されたあとに残るものを先に用意した。

 守るとは言わなかった。守りたいとも言わない。

 言われていたら、たぶん信じられなかった。

 ヴィオラは紙束を膝に置いて、しばらく火を見ていた。

 それから、五枚目と六枚目の包みを手に取った。

 布を解く。

 五枚目と六枚目。四年前に自分が削った、二つの嘘。

 これを削り直せば、癖は消える。旦那様の推挙状が出る。ルサージュの名で削れるようになる。

 だが、消えたあとに残るものは何もない。写しには証拠の力がない。原本の不一致は、現物に癖があってこそ意味を持つ。

 自分の癖は、この事件の唯一の物証だ。

 消せば、あの人が八日かけて書いた八十枚は、ただの紙になる。

 ヴィオラは石を布に戻した。包み直して、研ぎ台の隅ではなく、道具箱の底に入れた。

 削らないと、決めた。

 決めたのは、たったいまだった。


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