第21話 侯爵は宝物監に、「台帳をお持ちなさい」とおっしゃいました
年が明けて、雪が深くなった。
王宮の坂は朝のうちに掻かれるが、宮廷の裏手までは手が回らない。ラウル・デスタンは石段の雪を踏み固めながら、いつもの刻限に宝物監府へ入った。
机の上に、二通目の書簡が置かれていた。
封蝋の紋は、一通目と同じ。
一通目は年末に届いた。中身は年始の挨拶と、一度お目にかかりたいという文面だけ。用件が書かれていないので、返事の書きようがなかった。
二通目には、日時が入っていた。こちらの都合を尋ねる形にはなっていない。
ラウルは書簡を机の端に置き、その日の照合の予定を確かめた。午前に二件。午後に一件。侯爵邸の指定は午後の刻限と重なっている。
照合を一件、延期した。延期した理由の欄には「所用」とだけ書いた。三年で初めて書く二文字だった。
ドルセー侯爵邸の応接には、卓が一つ、窓の側に寄せてあった。
その上に、白い布が敷いてある。
ラウルは戸口で足を止めた。石を置く予定はない。ここへ来る用件に、石は関係がないはずだった。
「お待ちしておりました、デスタン殿」
侯爵が立ち上がる。手袋はしていない。
「一一二五年の一月、あなたは副監に就かれた」
ラウルは動きを止めた。
「ご昇進が早い。当時、二十二でいらしたとか」
「二十二です」
「異例でしたな」
「前任が急死しましたので」
「後任の候補が、他にいなかったのですか」
「おりました。三名」ラウルは答えた。「いずれも辞退しています」
「なぜでしょうな」
「存じません」
当時、考えもしなかった。師の弟子は自分一人で、鍵は自分が持っていた。それだけのことだと思っていた。
侯爵は椅子を勧めた。ラウルは座った。座らなければ話が長くなる。
「本題に入りましょう。ヴァレー伯爵家の件、証石院から二度目の照会が出ておりますな」
「出ております」
「ガルニエ工房は写し違いと答えた。あなたはそれを認めなかった」
「記載と現物が合いませんので」
「ええ。それで三度目が出れば、現物の再検分になる」
侯爵は卓の上の布に、指を一本置いた。
「その前に、台帳をお持ちください。私が確かめます」
部屋が静かになった。
暖炉の薪が、乾いた音を立てた。
「台帳は持ち出せません」
「持ち出しの禁を、どこで定めておりますか」
「宝物監規定の第七条です」
「条文は」
「台帳および見本片は、庫外に持ち出してはならない。ただし、王命によるものはこの限りにあらず」
「王命でしたら、よろしいのですね」
「王命でしたら」
「では、そう手配いたしましょうか」
ラウルは相手の顔を見た。侯爵は本気で言っている。手配できる立場にいる人間の言い方だった。
「その規定を作ったのは、証石院ですね」侯爵は続けた。「証石院の理事に、私も名を連ねております」
侯爵は微笑まなかった。ただ、指を布の上から離した。
「デスタン殿。私はあなたを困らせたいのではありません。誤りが誤りのまま公になれば、傷つく家がいくつも出る。ヴァレー伯爵家もそうです。あの家はいま、代替わりの最中だ」
「誤りが公になれば、あの家の代替わりは止まります。伯爵は長くない。当主が空位のまま年を越せば、領地の差配が滞る。差配が滞れば、小作の暮らしが傾く」
侯爵は指を組んだ。
「石一つのために、村が一つ痩せる。それが正確さの代償ですか」
「傷つくのは、誤りが公になるからではありません」
ラウルは自分の声が低くなっていることに気づいた。
「誤りがあるから、傷つくのです」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
侯爵は姿勢を変えないまま言った。
「フォンテーヌ監は、どのようなお人でしたか」
ラウルは膝の上の手袋を見た。
「私の師です」
「熱心な方でした」
侯爵の声は変わらない。丁寧で、滑らかで、どこにも引っかかりがない。
「一一二四年の暮れに、こちらの記録について照会をいただいたことがあります。年の瀬に、御自らお越しになった。あの寒さの中を」
「存じませんでした」
「ええ。記録には残っておりませんでしょう」
薪が崩れた。
「一晩、記録をご覧になって帰られました。何もお持ちにならなかった。何もお持ちにならないという答えを、あの方は納得してお帰りになった」
「師は、納得しない人でした」
「では、納得したふりをなさったのでしょう」侯爵は言った。「熱心すぎた」
その一言だけ、少し速かった。
ラウルは意味を取り損ねた。取り損ねたと分かるのに、時間がかかった。師は心の臓で死んだと聞いている。それ以上のことを、彼は一度も疑ったことがない。
「デスタン殿」
「はい」
「台帳を、お持ちください」
侯爵は立ち上がった。話は終わったという合図だった。
「三日、お待ちします」
宝物監府に戻ったのは、日が落ちてからだった。
台帳庫の鍵を開け、灯りを一つだけ点けて、ラウルは棚の前に立った。
持ち出せば、台帳は正確でなくなる。侯爵が何を書き替えるつもりかは知らないが、書き替えられる位置に置いた時点で、この記録はもう証拠ではない。
持ち出さなければ、職を失う。
証石院の理事が動けば、副監一人の首は簡単だ。二十二で就いた異例の人事は、いくらでも問題にできる。
そして職を失えば、次の副監が来る。次の副監は、ヴァレー伯爵家の頁の「不一致」を見て、どうするか。
合っていることにするだろう。そのほうが、誰も困らない。写し違いという工房の回答をそのまま採り、頁を書き換え、一件落着とする。三年前の自分なら、そうしなかったと言い切れるだろうか。
師が死んだ年、この棚には四十七件の不一致があった。誰も数えていなかった。数え始めたのは自分だ。数え始めたから、四十七件になった。
数えなければ、不一致は存在しない。
ラウルは棚に手を伸ばした。
ヴァレー伯爵家の箱、ラングレ子爵家、ボワイエ男爵家。その奥に、アンリ・ルサージュ。
どれも持ち出せない。
どちらを選んでも、台帳は残らない。
三日と言われた。
三日で、この棚の中身は失われる。持ち出しても、拒んでも。
ラウルは棚から手を離した。手袋の指先が、埃で灰色になっている。
台帳を守るという言い方は、正確ではない。台帳は物ではない。この部屋の紙が全部焼けても、癖が現物に残っているかぎり、照合はできる。
残さなければならないのは、照合できるという事実のほうだ。
彼は灯りを卓に置き、椅子に座り、紙を一枚引き寄せた。
羽根を削る。
日付を書いた。
一一二八年一月十五日。
その下に、ヴァレー伯爵家の欄の写しを取り始めた。
一行ずつ。書体まで、同じように。
ヴァレー伯爵家、ラングレ子爵家、ボワイエ男爵家。モロー商会とデュラン家。それに、アンリ・ルサージュとガルニエ父子の見本片の記録。
見本片は写せない。石は紙に移らない。だから、癖のほうを言葉にした。
左肩から入り、時計回り。四番の番手を飛ばすことがある。稜線の手前で仕上げを残す。艶が一段低い。
書きながら、ラウルは自分が何をしているのかを考えなかった。考えれば手が止まる。
灯りの油が尽きたのは、明け方だった。




