第20話 先生が認可を返上なさった理由を、十年ぶりに伺いました
八日、砥石を出したままにした。
水を汲まなかった。研ぎ台の上には五枚目と六枚目が置いてあり、その隣に一番から七番までが番手の順に並んでいる。並べたきり、動かしていない。
飾り石の注文は受けた。だがそれは小屋の隅の卓で削った。研ぎ台には座らなかった。
座れば、手が始めてしまう。この八日で、それだけは分かった。
手は考えない。角度を決めて、水を落として、当てる。始まってしまえば、粗砥の段が終わるまで止まらない。粗砥が終われば、もう面の形は変わっている。
削るかどうかを決めるのは、座る前だ。
マチルドは何も言わなかった。
八日目の朝、老女が桶を提げて入ってきた。樋の氷を割ってきたらしい。手が赤い。木槌の柄を持つと、七十一の指はしばらく開かなくなる。それでも毎朝、割りに行く。
桶を研ぎ台の脇に置いて、マチルドは言った。
「削るのかい」
ヴィオラは砥石を見ていた。
「分かりません」
「珍しいね。あんたが分からないなんて」
「石のことは、分かります」
「そうかい」
マチルドは研ぎ台の上を見た。石が二つ。番手の順に並んだ砥石。
「四日で終わるね」
「二つでしたら」
「七つでも半月だ。年内に済む」
老女は数えられる。当たり前だ。この人も削る人だった。
老女は囲炉裏の火を掻いた。枝の先で灰を寄せ、真ん中に息を吹き込む。細い煙が立って、それから炎が起きた。
「あたしは、削ったよ」
ヴィオラは顔を上げた。
湯が沸くまで、マチルドは黙っていた。
椀を二つ出して、片方をヴィオラに渡してから、老女は膝の毛布を引き上げた。
「一一一八年の三月だ」
十年前の、雪の残る時分だったという。
「父が、辞退した月です」
「知ってたのかい」
「先日、台帳で見ました。父の見本片も、拝見しました」
「あの子の癖は、あんたにそっくり移ってるだろう」
「はい」
「教えてないのにねえ」マチルドは湯を注いだ。「見てるだけで移るんだよ、あれは。あたしの止め方も、アンリには移らなかった。あの子は自分で見つけた。稜線の手前で残すやつだ」
「先生の止め方は」
「磨き切る。あたしは残さない。雑なんだよ、昔から」
マチルドは椀の湯気を見た。
「アンリのところに、話が来た。家石を一つ、面を落として整え直せと。整えるんじゃない、落とすんだと言われて、あの子は断った」
「あの子」
「あたしの弟子だからね。四十を過ぎても、あたしにはあの子だ」
囲炉裏の炭が崩れた。
「断れば潰されるのは、分かってた。砥ぎ町は狭い。顔役が一言、あそこには出すなと言えば終わる。誰も手を汚さずに、工房が畳まれる」
「では、なぜ」
「だから、あたしが名乗り出た」
湯呑みを持つ老女の手が、震えていた。
「あたしがやりました、と言った。アンリは断ったが、代わりにあたしが引き受けた、と。証石院に届けを出して、認可を返した」
「どなたに、届けを」
「証石院と、宝物監にね」老女は湯呑みを両手で包んだ。「あのころの宝物監は、フォンテーヌっていう若いのだった」
ヴィオラは息を止めた。
「その方は、何と」
「一言だけ言われたよ。——嘘をつくなら、最後まで嘘のままにしておけ、と」
ヴィオラは椀を膝に置いた。
「削られたのですか」
「削っちゃいない」
マチルドはこちらを見た。
「一面も削っちゃいないよ。やってもいない仕事を、やったと言った。それだけだ」
火が、ぱち、と鳴った。
「認可を返せば、あたしはもう家石に触れない。触れない者を罰しても意味がない。証石院はそれで手を引いた。誰も削ってないんだから、罰する中身もない」
「では、父の工房は」
「潰れた」
老女は椀を置いた。
「あたしが名乗ったせいで、あの子は削らずに済んだ。でも、それだけだった。工房は畳まれて、あの子は二年後に死んだ。あんたはガルニエに引き取られた」
風が、戸の隙間から入ってきた。
「あたしが罪をかぶっても、何も救えなかったのさ」
戸の隙間から入った風で、灰が少し舞った。老女はそれを手で払わなかった。
ヴィオラは息をした。息をしてから、それが息だと気づいた。
「だからあたしは、削るなとしか言えない」
マチルドは膝の上で手を組んだ。震えは止まっていた。
「削れば助かる、って話は、必ず来る。二十年前もそうだった。あたしは名乗って助けようとして、助けられなかった。それでも、削らなかったことだけは間違ってない」
「後悔は」
「したよ」老女は即答した。「名乗ったことは、いまでも後悔してる。あんな中途半端なことをせずに、もっと別のやり方があったかもしれない」
ヴィオラは椀を持ち上げた。ぬるくなっていた。
「けどね」
マチルドが続けた。
「削らなかったことは、一度も後悔しなかった」
ヴィオラは椀を置いた。
「先生は、削らずに名乗りました」
「そうだね」
「わたくしは、削って、名乗れずにおります」
マチルドは何も言わなかった。否定もしない。慰めもしない。
そのほうが、ありがたかった。
午後、ヴィオラは研ぎ台の前に座った。
石を布に移し、拡大鏡を出す。削るためではない。数えるためだ。
残るは五つ。うち二つは手元にある。三つは、まだどこにあるかも分からない。
六枚目。デュラン家の婚約石。持ち主の若夫人は三年前に亡くなっている。婚約石は本来、夫婦のどちらかが死ねば証石院に返納される。
「先生。婚約石の返納の記録は、証石院に残りますか」
「残るよ。返納簿がある」
「返納されていない場合は」
「催告が行く。三度行って返らなければ、家の格が一つ下がる」
三年前の話だ。ヴィオラは指を折った。デュラン家の面数を、証石院の名簿で見た覚えはない。「デ」の棚まで手が回らなかった。
返納されていれば、婚約石は証石院にある。されていなければ、催告の記録が残る。どちらにしても、辿れる。
辿れないのは、七枚目だけだ。
七枚目。
あれは、どこにもない。
記憶にもなく、名簿にも出ず、旦那様の箱にも入っていない。
「先生」
「なんだい」
「四年前の秋、旦那様が一晩だけ、ご自分で作業場に籠もられた夜があったそうです」
マチルドの手が止まった。
「わたくしはその夜、二階の客間におりました。何を削っていたのか、覚えておりません」
老女は薪を一本、火にくべた。
「オーギュストは、四年前にはもう削れてなかったはずだ」
「はい」
「削れない男が、一晩籠もった」
枝が灰を掻く音がした。
「それは、削ったんじゃない」
ヴィオラは顔を上げた。
「隠したんだよ」
炭が一つ、崩れた。
「削れない男が一人で夜通し籠もるとしたら、やることは決まってる。しまうか、壊すか、持ち出すかだ」
「持ち出す先が、ございます」
「どこだい」
「王宮でございます」
マチルドが手を止めた。
台帳庫の鍵は、二つある。一つはデスタン様が持っている。もう一つは、四年前に死んだ宝物監の遺品の中にあったまま、返却されていない。
その宝物監は、一一二四年の十二月に死んでいる。
七枚目を削った月と、同じだった。




