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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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20/30

第20話 先生が認可を返上なさった理由を、十年ぶりに伺いました

 八日、砥石を出したままにした。

 水を汲まなかった。研ぎ台の上には五枚目と六枚目が置いてあり、その隣に一番から七番までが番手の順に並んでいる。並べたきり、動かしていない。

 飾り石の注文は受けた。だがそれは小屋の隅の卓で削った。研ぎ台には座らなかった。

 座れば、手が始めてしまう。この八日で、それだけは分かった。

 手は考えない。角度を決めて、水を落として、当てる。始まってしまえば、粗砥の段が終わるまで止まらない。粗砥が終われば、もう面の形は変わっている。

 削るかどうかを決めるのは、座る前だ。

 マチルドは何も言わなかった。

 八日目の朝、老女が桶を提げて入ってきた。樋の氷を割ってきたらしい。手が赤い。木槌の柄を持つと、七十一の指はしばらく開かなくなる。それでも毎朝、割りに行く。

 桶を研ぎ台の脇に置いて、マチルドは言った。

「削るのかい」

 ヴィオラは砥石を見ていた。

「分かりません」

「珍しいね。あんたが分からないなんて」

「石のことは、分かります」

「そうかい」

 マチルドは研ぎ台の上を見た。石が二つ。番手の順に並んだ砥石。

「四日で終わるね」

「二つでしたら」

「七つでも半月だ。年内に済む」

 老女は数えられる。当たり前だ。この人も削る人だった。

 老女は囲炉裏の火を掻いた。枝の先で灰を寄せ、真ん中に息を吹き込む。細い煙が立って、それから炎が起きた。

「あたしは、削ったよ」

 ヴィオラは顔を上げた。


 湯が沸くまで、マチルドは黙っていた。

 椀を二つ出して、片方をヴィオラに渡してから、老女は膝の毛布を引き上げた。

「一一一八年の三月だ」

 十年前の、雪の残る時分だったという。

「父が、辞退した月です」

「知ってたのかい」

「先日、台帳で見ました。父の見本片も、拝見しました」

「あの子の癖は、あんたにそっくり移ってるだろう」

「はい」

「教えてないのにねえ」マチルドは湯を注いだ。「見てるだけで移るんだよ、あれは。あたしの止め方も、アンリには移らなかった。あの子は自分で見つけた。稜線の手前で残すやつだ」

「先生の止め方は」

「磨き切る。あたしは残さない。雑なんだよ、昔から」

 マチルドは椀の湯気を見た。

「アンリのところに、話が来た。家石を一つ、面を落として整え直せと。整えるんじゃない、落とすんだと言われて、あの子は断った」

「あの子」

「あたしの弟子だからね。四十を過ぎても、あたしにはあの子だ」

 囲炉裏の炭が崩れた。

「断れば潰されるのは、分かってた。砥ぎ町は狭い。顔役が一言、あそこには出すなと言えば終わる。誰も手を汚さずに、工房が畳まれる」

「では、なぜ」

「だから、あたしが名乗り出た」

 湯呑みを持つ老女の手が、震えていた。

「あたしがやりました、と言った。アンリは断ったが、代わりにあたしが引き受けた、と。証石院に届けを出して、認可を返した」

「どなたに、届けを」

「証石院と、宝物監にね」老女は湯呑みを両手で包んだ。「あのころの宝物監は、フォンテーヌっていう若いのだった」

 ヴィオラは息を止めた。

「その方は、何と」

「一言だけ言われたよ。——嘘をつくなら、最後まで嘘のままにしておけ、と」

 ヴィオラは椀を膝に置いた。

「削られたのですか」

「削っちゃいない」

 マチルドはこちらを見た。

「一面も削っちゃいないよ。やってもいない仕事を、やったと言った。それだけだ」

 火が、ぱち、と鳴った。

「認可を返せば、あたしはもう家石に触れない。触れない者を罰しても意味がない。証石院はそれで手を引いた。誰も削ってないんだから、罰する中身もない」

「では、父の工房は」

「潰れた」

 老女は椀を置いた。

「あたしが名乗ったせいで、あの子は削らずに済んだ。でも、それだけだった。工房は畳まれて、あの子は二年後に死んだ。あんたはガルニエに引き取られた」

 風が、戸の隙間から入ってきた。

「あたしが罪をかぶっても、何も救えなかったのさ」

 戸の隙間から入った風で、灰が少し舞った。老女はそれを手で払わなかった。

 ヴィオラは息をした。息をしてから、それが息だと気づいた。

「だからあたしは、削るなとしか言えない」

 マチルドは膝の上で手を組んだ。震えは止まっていた。

「削れば助かる、って話は、必ず来る。二十年前もそうだった。あたしは名乗って助けようとして、助けられなかった。それでも、削らなかったことだけは間違ってない」

「後悔は」

「したよ」老女は即答した。「名乗ったことは、いまでも後悔してる。あんな中途半端なことをせずに、もっと別のやり方があったかもしれない」

 ヴィオラは椀を持ち上げた。ぬるくなっていた。

「けどね」

 マチルドが続けた。

「削らなかったことは、一度も後悔しなかった」

 ヴィオラは椀を置いた。

「先生は、削らずに名乗りました」

「そうだね」

「わたくしは、削って、名乗れずにおります」

 マチルドは何も言わなかった。否定もしない。慰めもしない。

 そのほうが、ありがたかった。


 午後、ヴィオラは研ぎ台の前に座った。

 石を布に移し、拡大鏡を出す。削るためではない。数えるためだ。

 残るは五つ。うち二つは手元にある。三つは、まだどこにあるかも分からない。

 六枚目。デュラン家の婚約石。持ち主の若夫人は三年前に亡くなっている。婚約石は本来、夫婦のどちらかが死ねば証石院に返納される。

「先生。婚約石の返納の記録は、証石院に残りますか」

「残るよ。返納簿がある」

「返納されていない場合は」

「催告が行く。三度行って返らなければ、家の格が一つ下がる」

 三年前の話だ。ヴィオラは指を折った。デュラン家の面数を、証石院の名簿で見た覚えはない。「デ」の棚まで手が回らなかった。

 返納されていれば、婚約石は証石院にある。されていなければ、催告の記録が残る。どちらにしても、辿れる。

 辿れないのは、七枚目だけだ。

 七枚目。

 あれは、どこにもない。

 記憶にもなく、名簿にも出ず、旦那様の箱にも入っていない。

「先生」

「なんだい」

「四年前の秋、旦那様が一晩だけ、ご自分で作業場に籠もられた夜があったそうです」

 マチルドの手が止まった。

「わたくしはその夜、二階の客間におりました。何を削っていたのか、覚えておりません」

 老女は薪を一本、火にくべた。

「オーギュストは、四年前にはもう削れてなかったはずだ」

「はい」

「削れない男が、一晩籠もった」

 枝が灰を掻く音がした。

「それは、削ったんじゃない」

 ヴィオラは顔を上げた。

「隠したんだよ」

 炭が一つ、崩れた。

「削れない男が一人で夜通し籠もるとしたら、やることは決まってる。しまうか、壊すか、持ち出すかだ」

「持ち出す先が、ございます」

「どこだい」

「王宮でございます」

 マチルドが手を止めた。

 台帳庫の鍵は、二つある。一つはデスタン様が持っている。もう一つは、四年前に死んだ宝物監の遺品の中にあったまま、返却されていない。

 その宝物監は、一一二四年の十二月に死んでいる。

 七枚目を削った月と、同じだった。


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