第19話 旦那様は、七つの石を削り直して癖を消せとおっしゃいました
夜明け前の作業場で、オーギュスト・ガルニエは自分の右手を握っていた。
左手で、指を一本ずつ外へ引く。薬指。小指。中指。第一関節から先が板のようになっていて、伸びない。痛みはない。痛みがあればまだ望みがある。何も感じないから、駄目なのだ。
四年、削っていない。
最後に削ったのは一一二四年の秋だ。あの一晩だけ、どうしても自分でやらねばならない仕事があった。三面刻むのに、夜が明けた。若い頃なら半刻の仕事だ。
刻めてはいた。角が立たなかっただけだ。
誰にも言っていない。言えば工房は終わる。認可は工房に与えられるが、削れる者がいなければ、工房は成り立たん。息子は削れない。名前を持たせるために推挙しただけで、腕を見たことは一度もなかった。
だから、あの娘が要った。
アンリ・ルサージュの娘。十で引き取ったときは、まだ砥石も一人で研げなかった。十二で紋章石を任せ、十四で客の仕事に出した。十六の秋には、王都のどの若手より正確な面を刻んだ。
教えたわけではない。あの娘は父親の手をそのまま持ってきた。
オーギュストは右手を袖に戻した。
工房のためだ。二十年、そう自分に言い聞かせてきた。嘘ではない。認可は工房に与えられ、工房が請け、工房が責を負う。誰の手が動いたかは勘定の外だ。それが道理だ。
道理の外にあるのは、四年前の七つだけだった。
三日前、ドルセー邸に呼ばれた。
侯爵は箱を返してよこし、それから茶を勧めた。断る理由が見つからなかった。
「ガルニエ殿。宝物監府から照会が来ておりますな」
「二度目でございます。写し違いと申し上げましたが」
「三度目が来れば、現物の再検分になります」
侯爵は茶に口をつけなかった。
「あなたの工房の記録には、一一二四年十月がない」
オーギュストは答えなかった。
「ないものは、いつまでもないままにはできません。証石院は、誰が削ったのかを問います」
「工房が削りました」
「工房には手がない」
オーギュストは湯呑みの縁を見ていた。
「ガルニエ殿。私はあなたを責めておりません。責めるほど、私も清くはない」
侯爵はそこで初めて微笑んだ。
「実際に削ったのは、認可のない娘なのでしょう?」
部屋が静かになった。
「——罪は、あの娘に着せればよろしい」
脅しではなかった。相談のような口ぶりだった。丁寧で、穏やかで、断れる隙がどこにもない。
「あの娘は無認可で家石に触れた。それは事実です。事実は動かせない。ならば、事実のとおりに片づけばよろしいでしょう」
オーギュストは湯呑みを持ち上げようとして、指が滑った。
侯爵は見ていた。見て、何も言わなかった。それがいちばん堪えた。
その夜、ヴィオラが来た。
呼び出したのはオーギュストだ。使いを出して、話がある、と。来ないかもしれないと思っていた。
娘は来た。道具箱を提げて、勝手口ではなく表から入ってきた。
「お呼びと伺いました」
十年、この工房にいた。灰色の外出着ではなく、古い茶色の外套を着ている。誰かに借りたものだろう。袖が長い。
顔が痩せた、とオーギュストは思った。丘の上の飯は薄いのだろう。
そう思った自分の頭を、オーギュストは殴りつけたくなった。
「座れ」
「立ったままで結構でございます」
オーギュストは卓の上に、木箱を置いた。
蓋を開ける。
中に、石が二つ入っていた。
「見覚えがあるだろう」
娘は動かなかった。それから布を出して、卓に敷いた。石をその上に移してから、拡大鏡を出す。
この所作を、二十年見てきた気がする。実際は十年だ。
「五枚目と、六枚目でございます」
「回収した。残り五つも、順に集める」
「何のために」
「削り直せ」
娘の手が、拡大鏡の縁で止まった。
「面を落とし、刻み直せ。お前の癖が消える。七つ全部だ」
オーギュストは自分の声が平坦なことに気づいていた。怒鳴っていない。怒鳴る話ではない。
「消えれば、台帳の不一致は残っても、誰の手かは分からなくなる。分からなければ、誰も罰せられん」
「わたくしが削ったという証拠が、消えます」
「そうだ」
「では、旦那様がお命じになった証拠も、消えます」
オーギュストは箱の縁を指で押さえた。
「代わりに、推挙する」
自分でそう言うまで、言うつもりがあるのかどうか分からなかった。
娘が顔を上げた。
「証石院に推挙状を出す。見本片を納めれば、お前は認可研磨師だ。ルサージュの名で削れる」
言ってから、オーギュストは自分の言葉の重さを量った。
十年、断り続けてきたものだ。理由を書く必要もなく、ただ出さなければよかった。出せば娘は独立する。腕が出ていく。だから出さなかった。
いま差し出しているのは、その十年ぶんだ。
「削れば、お前は認可研磨師になる」
卓の上の蝋燭が、じ、と鳴った。
「削らなければ、流刑だ」
娘は何も言わなかった。
拡大鏡を布の上に置き、石を一つずつ、丁寧に箱へ戻していく。指の動きに迷いがない。
その手を、オーギュストは見ていた。
爪が短い。指の腹の右寄りだけが硬い。若い頃の自分の手と、同じ形をしている。
「持って帰れ」
「よろしいのですか」
「二つは、預けておく。あとの五つが揃うまでに、決めろ」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「四年前、旦那様は一晩だけ、この作業場で削っておいででしたね」
オーギュストは動かなかった。動かないことが答えになると分かっていて、動けなかった。
「お答えは、結構でございます」
娘は箱を抱えて、頭を下げた。
扉が閉まる音がした。
オーギュストは椅子に座り込み、右手を左手で包んだ。
工房のためだ。
二十年、そう言ってきた。今夜もそう言うつもりだった。言えなかった。
丘の道は凍っていた。
ヴィオラは小屋に戻り、囲炉裏に火を入れ、研ぎ台の前に座った。
箱を開ける。石が二つ。五枚目と六枚目。四年ぶりに、この手に戻ってきた。
砥石を並べる。一番から七番まで、左から右へ。
水を汲みに立った。樋の氷を木槌で叩き割り、桶に受ける。手が水に触れると、指の先が針で刺されたように痛んだ。
桶を研ぎ台の脇に置く。
削れば、消える。
技術としては、難しくない。面を落として刻み直すだけだ。二つで四日。七つで十四日。手を休ませながらでも、年内には終わる。
削れば、罪が消える。名前が来る。
父が断ったのは、削ることそのものではない。断る材料を持っていたからだ。何を作らされるのかを知っていた。知っていて、断った。断って、潰れた。
自分は知らずに削った。いま初めて、知った上で削るかどうかを選べる場所に立っている。
消せるということは、作れるということだ。
マチルド先生の声が、囲炉裏の向こうから聞こえてくる気がした。老女はもう寝ている。今夜は何も言わなかった。石が二つ増えて帰ってきたことに、たぶん気づいている。
ヴィオラは砥石に手を伸ばした。一番。粗砥だ。ここから始めれば、四日で二つが消える。
手は、動いた。




