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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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第18話 「この石を削ったのはあなたですか」と問われて、彼は答えられませんでした

 年の暮れが近い。

 ヴァレー伯爵邸は、喪のように静かだった。玄関に飾りがない。この時期の貴族の館は、どこも常緑の枝と蝋燭で飾る。ここには一つもなかった。

「父が、話したいそうなの」

 クレールは自分で扉を開けた。使用人が少ない。あるいは、人払いをしている。

「兄は反対したの。職人を寝室に上げるなんて、と」

「ごもっともかと」

「でも、面を数えられる人は寝室に上げるのよ。おかしいでしょう」

 廊下は寒かった。屋敷の暖は寝室に集めているらしい。壁の燭台が、一つおきにしか点いていない。


 寝室は暖炉が焚かれ、部屋中が乾いていた。薬草を煎じた匂いと、その下に、人が長く伏せている部屋の匂いがする。

 ヴァレー伯爵は寝台に半身を起こしていた。頬がこけ、手の甲の皮が薄い。それでも目は動いた。ヴィオラが入ると、まっすぐこちらを見た。

「石を見た娘か」

「ヴィオラ・ルサージュと申します」

「座りなさい。クレール、扉を」

 クレールが扉を閉め、寝台の脇に立った。

「四年前の秋だ」伯爵は言った。「うちに、借財があった。前の年の凶作でな。返済の猶予をくれるという話が来た」

「どちらから」

「ガルニエ工房を通じてだ。名は聞いていない」

 伯爵は息を継いだ。継ぐのに、時間がかかった。

「条件は一つだった。家石を一晩、預けろと」

「お預けになったのですね」

「預けた」

 彼は目を閉じた。閉じたまま、しばらく息だけをしていた。

「三百年、うちが持っていたものだ。それを、一晩」

「返済は」

「猶予された。三年ぶんだ。おかげで、この屋敷は残った」

「一晩で返ってきた。傷一つない。数えても十だった。だから、何もなかったと思った。思うことにした」

「面は、いつ九つに」

「気づいたのは今年だ。代替わりの支度で、証石院に申請を出して、記載が九になっていると言われた」

 クレールが唇を結んだ。

「一一二五年の記載更新だ。四年前ではない。だから最初は、証石院の書き損じだと思った」

 ヴィオラは膝の上で指を組んだ。

 一晩で返ってきて、そのときは十あった。

 なら、削られたのは一晩のあとだ。

 いや。違う。

 一晩で削って、返した。数えれば十あった。それは、面の数を合わせて返したということだ。

 肩を割り、割れ口を面に見せかけた。だから数は十のままだった。

 九になったのは、証石院が現物を検分し直したときだ。一一二五年。そのとき初めて、割れ口が面ではないと判定された。

 四年前、この人は数えて安心した。数えるだけでは分からないように、作ってあった。


「もう一つ、伺ってもよろしいですか」

「言いなさい」

「一一二四年の秋に、モロー商会とお取引はございましたか」

「あった」伯爵の答えは早かった。「借財の一部を、あそこが持っていた。猶予の話も、最初はモローの主人から来た」

 五枚目。

 モロー商会の証石に、見せかけの面を刻んだ。三面。半晩の仕事だった。

 あれは、借財の記録を書き替えるためだったのか。

 証石は、市民にとっての家石だ。商会の格も、取引の記録も、そこに刻まれる。面を足せば、取引の履歴が一つ増える。

 ありもしない取引を、あったことにできる。

 伯爵は目を開けた。開けるのに、また時間がかかった。

「デュラン家というお名前に、覚えはございますか」

「デュラン」伯爵は少し考えた。「娘の婚礼のとき、婚約石を作った家だ。うちの遠縁でな。三年前に、若夫人が亡くなった」

 六枚目。

 婚約石。

 ヴィオラは背筋が冷えるのを感じた。冷えたのは室温ではない。この部屋は暖かすぎるほどだ。

 四年前に自分が削った七つのうち、六つまでが、この一つの家の周りに集まっている。

 偶然ではない。ヴァレー伯爵家という一つの家の借財を軸に、周りの家と商会と婚姻が、全部同じ夜に書き替えられた。


 広間には、既に人が来ていた。

 セルジュ・ガルニエ。年の暮れの挨拶に呼ばれたのだと思っている顔をしている。

 クレールが扉を閉めた。

「セルジュ様。伺いたいことがあるの」

「はい、なんでしょう」

 クレールは卓の上の絹の袋を開け、家石を出した。布は敷かなかった。彼女は敷き方を知らない。

「この石を削ったのは、あなたですか」

 セルジュの顔から、表情が抜けた。

「え」

「宝物監府の台帳には、あなたのお名前が記載されているそうよ。一一二四年十月の受け渡し」

「……いや、あの、それは工房の記録の話で」

「あなたの名前が書いてあるの。工房の名前ではなく」

 薪が爆ぜた。広間の暖炉は寝室のものより大きく、火の音も乾いている。

 セルジュは石を見た。見て、それから顔を上げた。

「父さんが」

「お父様が、どうなさったの」

「父さんが、そういうふうにしてるんです。工房の仕事は全部、僕か父さんの名前で出すって。そういうものだから」

「では、この石を削ったのは」

 沈黙が落ちた。

 セルジュは答えなかった。答えられなかった。

 彼は、知らないのだ。誰が削ったのかを、本当に知らない。工房の作業場で十年、同じ部屋にいた人間の仕事を、一度も見ていない。

「あなたは」クレールが静かに言った。「ご自分が何に名前を貸しているか、ご存じないのね」

 セルジュの唇が動いた。音は出なかった。

 ヴィオラは布を出して、卓に敷いた。

 それから、石をその上に移した。

「その石を削ったのは、工房でございます」

「ヴィオラさん」

「一一二四年の十月、ガルニエ工房が削りました。それ以上のことは、記録に残っておりません」

 クレールがこちらを見た。責める目ではなかった。困っている目だった。

 セルジュは石を見ていた。布の上の家石を、初めて見るもののように見ていた。

「あの」彼が口を開いた。「僕は、何をすればいいんでしょうか」

 誰も答えなかった。

 その問いに答えられる者は、この部屋にいない。彼自身にも答えられない。


 邸を出るころには、日が落ちかけていた。

 馬車を待つあいだ、クレールが白い息を吐いた。

「ヴィオラさん」

「はい」

「あなた、どうして『わたし』とおっしゃらないの」

 風が、庭の枯れ枝を鳴らした。

「工房の仕事ですので」

「それ、あのセルジュという方と同じ言い方よ」

 ヴィオラは息を止めた。

「あの方は、名前を貸されて中身を知らない。あなたは、中身を全部やって名前がない。逆なのに、口から出る言葉が同じなんだもの」

 クレールは手袋をはめ直した。

「わたし、あの方には腹が立ったけれど。あなたには、腹が立たないのが悔しいわ」

 馬車が近づいてくる音がした。

 ヴィオラは何も言えなかった。

 言えなかったのではない。

 その四文字の言い方を、まだ知らなかった。

 十年、一度も口にしたことがない。工房が、と言えば済んだ。済んでいたはずだった。

 馬車が停まる。御者が扉を開ける。

 乗り込む前に、ヴィオラは一度だけ振り返った。伯爵邸の窓に灯りが一つ、寝室の側だけ点いている。

 あの部屋の主は、三百年ぶんの石を一晩貸した。貸した相手の名を、いまも知らない。


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