第17話 凍える工房で、あの方は手袋をお外しになりました
雪が根雪になった。
丘の道は轍が凍って、歩くたび靴の裏が滑る。マチルドの小屋は屋根の雪を落とさないと梁がきしむので、朝いちばんに二人で棒を持って叩き落とす。
作業場に火は焚けない。
石は温度の差で割れる。暖めた部屋から冷えた石を出せば、内側の筋に沿って裂ける。だから研磨師の冬は、指がかじかむのを承知で削る。悴んで動かなくなったら、脇の下に挟んで温める。それだけが許された暖の取り方だった。
「客が来たよ」
昼前、薪を割っていたマチルドが顎で示した。
丘を上ってくる人影が一つ。馬車ではない。徒歩だ。
紙の束を抱えている。
徒歩二時間。凍った轍を、あの姿勢のまま上ってきたのだろう。マチルドが「役所の人間は、あんな歩き方するもんかね」と言った。
「ラングレ子爵家と、ボワイエ男爵家の記録です」
ラウルは戸口で外套の雪を払い、それから紙束を作業台に置いた。
書き写したものだった。台帳そのものではない。
「持ち出しは、なさらなかったのですね」
「できません」
彼はそれだけ言った。
「なぜ、写して持っていらしたのですか」
「あなたが王宮に入るには、伯爵家の申請が要ります。申請には三日かかります。三日ごとに三日待つより、私が来たほうが早い」
「デスタン様のお仕事は、王宮にございます」
「照合は現物のあるところでするものです」
言い分としては通っている。通っているが、押し型は王宮にある。
紙は二十枚を超えている。書体は細かく、一枚に六件ずつ入っている。書き写すのに、何日かかったのだろう。
ヴィオラは布を敷き、二つの家の石片の押し型を並べた。押し型は、証石院が家石の面を蝋に写して保管しているものだ。現物ではないが、稜線の向きと間隔は分かる。
「ラングレ家。一一二一年、八面。一一二五年、七面」
「はい」
「落とされたのは、上から三番目の面です」
ヴィオラは押し型に拡大鏡を当てた。窓は北向き。この時刻の光がいちばんいい。
三番目と四番目のあいだの間隔が、他より広い。均し方が左肩から入って時計回り。稜線の手前で艶が落ちる――蝋に写された艶までは分からないが、稜線の丸まり方で見当はつく。
「わたくしの手でございます」
「一一二四年十月」
「おそらく」
ボワイエ家も同じだった。落とされたのは下から二番目の面。均し方も、番手の飛ばし方も同じ。押し型は蝋なので条痕までは出ないが、面の運びの向きは正直に写る。
三つ目と四つ目。
これで四つになった。二枚目のヴァレー、三枚目のラングレ、四枚目のボワイエ。それと、一枚目の欠片。
残るは、五枚目のモロー商会の証石、六枚目のデュラン家の婚約石、そして七枚目。
押し型を布に戻そうとして、ヴィオラは指を滑らせた。
蝋の板が、卓の縁から落ちる。
手が出なかった。
朝から飾り石を二つ削った上で、押し型を二枚続けて検分した。拡大鏡を覗く姿勢は、削るより手を固める。肘を浮かせたまま、息を止めて、同じ角度を保ち続ける。親指の付け根から手首にかけて、感覚が薄い。
削るのは筋を使う。見るのは、神経を使う。どちらも同じ手でやる。
落ちる、と思った。
板は、床に届かなかった。
ラウルの手が、卓の下で受け止めていた。
素手だった。
手袋は、卓の端に置かれている。いつ外したのか、ヴィオラは見ていなかった。
「……申し訳ございません」
ラウルは押し型を布の上に戻した。指の腹ではなく、側面で挟んで持っている。手袋をしていたときと同じ持ち方だ。
彼は何も言わなかった。
言い訳もしない。何かの拍子に外れていた、とも、寒かったので、とも。
家石に素手で触れるのは無作法だと、この国の誰もが知っている。宝物監がそれをするのは、無作法では済まない。
それでも、手袋を嵌め直さなかった。
ヴィオラは自分の手を見た。震えている。止めようとして、止まらなかった。
「手が」
「はい」
「三日、休ませてください」
「三日で、戻りますか」
「戻らなければ、五日にいたします」
「一日に一面が限りだと、以前申し上げました」
「今日は、三つ分になります」
ラウルは椀を見たまま、少し黙った。
「私は、あなたに三つ分をさせるつもりで来ました」
「存じております」
「知っていて、なさったのですか」
「早いほうがよろしいので」
「では、今日はもう見ないでください」
それだけ言って、ラウルは紙束を揃え始めた。角を揃え、揃った角をもう一度揃える。
窓の外で、屋根から雪の塊が落ちた。重い音がして、それから静かになる。梁がきしまなくなった。
マチルドが薪をくべる音がする。老女は一度も部屋に入ってこなかった。戸口の向こうで、薪を割る音だけが規則正しく続いている。
ヴィオラは湯を沸かし、二つの椀に注いだ。
一つを差し出すと、ラウルは受け取ってから、しばらく持っていた。飲まずに、持っていた。
「熱うございますか」
「いえ」
彼は椀を卓に置いた。手袋は、卓の端に置かれたままだった。
夕方、手の震えが治まってから、ヴィオラは紙に数字を書き出した。
落とした面の厚み。
ヴァレー家。肩を割った上で、割れ口を均した。落ちた厚みは、石の幅の八分の一ほど。
ラングレ家。三番目の面。周りの二面まで巻き込んで削った。
ボワイエ家。下から二番目。
そして、まだ辿り着いていない一つ。
四つ足すと。
「多すぎます」
「何がです」
「一つの面を刻むのに要る厚みより、ずっと多い」
ヴィオラは筆を置いた。
六枚目に足した一面。あれを刻むのに削った厚みは、石の幅の十分の一もない。半晩で済んだ仕事だ。
四つの家から落とした厚みは、その三倍か、四倍ある。
「余っております」
ラウルが顔を上げた。
「余った分は、どちらへ」
答えはない。ラウルは記録の人であって、削る側の理屈は持っていない。
削り屑は捨てる。だが、旦那様は箱を持ってドルセー邸へ通っている。行きより帰りが重い。
捨てないとしたら、捨てられない理由がある。
あるいは。
余ったのではなく――足りなかったのかもしれない。
「デスタン様。面を一つ足すのに、材料が足りない場合はどうなさいますか」
「私は削りません」
「では、お答えいたします」
ヴィオラは自分の指を見た。まだ震えている。
「足せません。足りない分だけ、石を薄くします。ですが薄くすれば、全体の均衡が崩れる。崩れれば、面の数が合っていても、見る者には分かります」
「では、四つも落とした理由は」
「一面を、不自然に見せないためです」
窓の外は、もう暗い。
四つの家を削ったのは、盗むためではなかった。
一面だけを足せば、その面だけが新しく見える。周りの艶が合わない。稜線の丸みが合わない。並べれば必ず分かる。
だから、周りも削った。四つの家の面を落として、その厚みで全体を均し直した。新しい一面を、他の十一面と同じ年に見せるために。
一つの嘘を、本物に見せるためだった。
ヴィオラは筆を置いた。手が、また少し震えていた。




