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研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


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17/30

第17話 凍える工房で、あの方は手袋をお外しになりました

 雪が根雪になった。

 丘の道は轍が凍って、歩くたび靴の裏が滑る。マチルドの小屋は屋根の雪を落とさないと梁がきしむので、朝いちばんに二人で棒を持って叩き落とす。

 作業場に火は焚けない。

 石は温度の差で割れる。暖めた部屋から冷えた石を出せば、内側の筋に沿って裂ける。だから研磨師の冬は、指がかじかむのを承知で削る。悴んで動かなくなったら、脇の下に挟んで温める。それだけが許された暖の取り方だった。

「客が来たよ」

 昼前、薪を割っていたマチルドが顎で示した。

 丘を上ってくる人影が一つ。馬車ではない。徒歩だ。

 紙の束を抱えている。

 徒歩二時間。凍った轍を、あの姿勢のまま上ってきたのだろう。マチルドが「役所の人間は、あんな歩き方するもんかね」と言った。


「ラングレ子爵家と、ボワイエ男爵家の記録です」

 ラウルは戸口で外套の雪を払い、それから紙束を作業台に置いた。

 書き写したものだった。台帳そのものではない。

「持ち出しは、なさらなかったのですね」

「できません」

 彼はそれだけ言った。

「なぜ、写して持っていらしたのですか」

「あなたが王宮に入るには、伯爵家の申請が要ります。申請には三日かかります。三日ごとに三日待つより、私が来たほうが早い」

「デスタン様のお仕事は、王宮にございます」

「照合は現物のあるところでするものです」

 言い分としては通っている。通っているが、押し型は王宮にある。

 紙は二十枚を超えている。書体は細かく、一枚に六件ずつ入っている。書き写すのに、何日かかったのだろう。

 ヴィオラは布を敷き、二つの家の石片の押し型を並べた。押し型は、証石院が家石の面を蝋に写して保管しているものだ。現物ではないが、稜線の向きと間隔は分かる。

「ラングレ家。一一二一年、八面。一一二五年、七面」

「はい」

「落とされたのは、上から三番目の面です」

 ヴィオラは押し型に拡大鏡を当てた。窓は北向き。この時刻の光がいちばんいい。

 三番目と四番目のあいだの間隔が、他より広い。均し方が左肩から入って時計回り。稜線の手前で艶が落ちる――蝋に写された艶までは分からないが、稜線の丸まり方で見当はつく。

「わたくしの手でございます」

「一一二四年十月」

「おそらく」

 ボワイエ家も同じだった。落とされたのは下から二番目の面。均し方も、番手の飛ばし方も同じ。押し型は蝋なので条痕までは出ないが、面の運びの向きは正直に写る。

 三つ目と四つ目。

 これで四つになった。二枚目のヴァレー、三枚目のラングレ、四枚目のボワイエ。それと、一枚目の欠片。

 残るは、五枚目のモロー商会の証石、六枚目のデュラン家の婚約石、そして七枚目。


 押し型を布に戻そうとして、ヴィオラは指を滑らせた。

 蝋の板が、卓の縁から落ちる。

 手が出なかった。

 朝から飾り石を二つ削った上で、押し型を二枚続けて検分した。拡大鏡を覗く姿勢は、削るより手を固める。肘を浮かせたまま、息を止めて、同じ角度を保ち続ける。親指の付け根から手首にかけて、感覚が薄い。

 削るのは筋を使う。見るのは、神経を使う。どちらも同じ手でやる。

 落ちる、と思った。

 板は、床に届かなかった。

 ラウルの手が、卓の下で受け止めていた。

 素手だった。

 手袋は、卓の端に置かれている。いつ外したのか、ヴィオラは見ていなかった。

「……申し訳ございません」

 ラウルは押し型を布の上に戻した。指の腹ではなく、側面で挟んで持っている。手袋をしていたときと同じ持ち方だ。

 彼は何も言わなかった。

 言い訳もしない。何かの拍子に外れていた、とも、寒かったので、とも。

 家石に素手で触れるのは無作法だと、この国の誰もが知っている。宝物監がそれをするのは、無作法では済まない。

 それでも、手袋を嵌め直さなかった。

 ヴィオラは自分の手を見た。震えている。止めようとして、止まらなかった。

「手が」

「はい」

「三日、休ませてください」

「三日で、戻りますか」

「戻らなければ、五日にいたします」

「一日に一面が限りだと、以前申し上げました」

「今日は、三つ分になります」

 ラウルは椀を見たまま、少し黙った。

「私は、あなたに三つ分をさせるつもりで来ました」

「存じております」

「知っていて、なさったのですか」

「早いほうがよろしいので」

「では、今日はもう見ないでください」

 それだけ言って、ラウルは紙束を揃え始めた。角を揃え、揃った角をもう一度揃える。

 窓の外で、屋根から雪の塊が落ちた。重い音がして、それから静かになる。梁がきしまなくなった。

 マチルドが薪をくべる音がする。老女は一度も部屋に入ってこなかった。戸口の向こうで、薪を割る音だけが規則正しく続いている。

 ヴィオラは湯を沸かし、二つの椀に注いだ。

 一つを差し出すと、ラウルは受け取ってから、しばらく持っていた。飲まずに、持っていた。

「熱うございますか」

「いえ」

 彼は椀を卓に置いた。手袋は、卓の端に置かれたままだった。


 夕方、手の震えが治まってから、ヴィオラは紙に数字を書き出した。

 落とした面の厚み。

 ヴァレー家。肩を割った上で、割れ口を均した。落ちた厚みは、石の幅の八分の一ほど。

 ラングレ家。三番目の面。周りの二面まで巻き込んで削った。

 ボワイエ家。下から二番目。

 そして、まだ辿り着いていない一つ。

 四つ足すと。

「多すぎます」

「何がです」

「一つの面を刻むのに要る厚みより、ずっと多い」

 ヴィオラは筆を置いた。

 六枚目に足した一面。あれを刻むのに削った厚みは、石の幅の十分の一もない。半晩で済んだ仕事だ。

 四つの家から落とした厚みは、その三倍か、四倍ある。

「余っております」

 ラウルが顔を上げた。

「余った分は、どちらへ」

 答えはない。ラウルは記録の人であって、削る側の理屈は持っていない。

 削り屑は捨てる。だが、旦那様は箱を持ってドルセー邸へ通っている。行きより帰りが重い。

 捨てないとしたら、捨てられない理由がある。

 あるいは。

 余ったのではなく――足りなかったのかもしれない。

「デスタン様。面を一つ足すのに、材料が足りない場合はどうなさいますか」

「私は削りません」

「では、お答えいたします」

 ヴィオラは自分の指を見た。まだ震えている。

「足せません。足りない分だけ、石を薄くします。ですが薄くすれば、全体の均衡が崩れる。崩れれば、面の数が合っていても、見る者には分かります」

「では、四つも落とした理由は」

「一面を、不自然に見せないためです」

 窓の外は、もう暗い。

 四つの家を削ったのは、盗むためではなかった。

 一面だけを足せば、その面だけが新しく見える。周りの艶が合わない。稜線の丸みが合わない。並べれば必ず分かる。

 だから、周りも削った。四つの家の面を落として、その厚みで全体を均し直した。新しい一面を、他の十一面と同じ年に見せるために。

 一つの嘘を、本物に見せるためだった。

 ヴィオラは筆を置いた。手が、また少し震えていた。


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