第16話 台帳の古い棚に、父の見本片が残っておりました
二日かかった。
その二日、ヴィオラは丘の小屋で待った。待っているあいだ、飾り石を三つ仕上げた。手を動かしていないと、父の砥石ばかり見てしまう。
返上者の古い綴りは、台帳庫の奥の棚にある。梯子を掛け替え、埃を払い、番号順に並んでいるはずのものが並んでいないのを直しながら、ラウルは一つずつ蓋を開けた。三十九名のうち、二十六名分が奥にあった。
ヴィオラが呼ばれたのは、三日目の朝だった。
「あります」
入るなり、ラウルはそう言った。挨拶も日付もなかった。
卓の上に、小さな箱が一つ置かれている。
布は、既に敷いてあった。
「アンリ・ルサージュ。登録一一〇二年。返上一一一八年」
蓋が開いていた。
窪みに、親指の爪ほどの石片が嵌まっている。面は四つ。
二十六年前に、父がこれを削った。二十四のときだ。いまの自分より、四つ上でしかない。
ヴィオラは道具箱から拡大鏡を出そうとして、手が止まった。
出すまでもなかった。
窓の光の下に置かれた石片は、離れていても分かる。稜線の手前で艶が一段落ちている。左肩から入って、時計回りに回してある。
自分の手だ。
いや。
自分の手ではない。
自分の手が、この手から来たのだ。
「拝見してもよろしいですか」
「どうぞ」
拡大鏡を当てる。近づけて、また離す。
三番から、五番へ。
四番を飛ばしている。父も飛ばしていた。
ヴィオラは石片を布の上に戻した。戻すとき、指が思ったところに行かなかった。二度目でようやく置けた。
「わたくしの癖は、父のものでした」
「そのようです」
「教わった覚えは、ございません」
七つのときから父の工房にいた。教わったのは道具の並べ方と、布を敷くことと、石の匂いを嗅ぐことだけだ。角度を教わった記憶はない。
だが、見ていた。
父が石に向かう背中を、毎日見ていた。腕をどこまで伸ばすか。どこで力を抜くか。言葉より先に、体が写した。
「癖は、そうやって移ります」ラウルが言った。「私も、師の書き方で日付を書きます。年、月、日の間に点を打たない。打つ流儀のほうが多いのに、私は打ちません。師が打たなかったからです」
「お気づきになったのは、いつでしたか」
「師が死んでからです」
彼は箱の縁を指で揃えた。揃っていた縁を、もう一度揃えた。
ラウルは古い綴りを卓に広げた。
アンリ・ルサージュの記録。二十四歳で登録。以後十六年分の受け渡し。家石が九十七件。飾り石は数に入らない。
「多うございますね」
「王都でも上から数えるほうです。十六年で九十七件は、多い」
ヴィオラは父の手を思い出そうとした。
覚えているのは、削っている背中と、夕食のときの手だ。爪が短く、指の腹が硬く、水に浸けると皮膚の下の傷が白く浮いた。パンをちぎるとき、その手が不器用に見えた。細かいものを扱う手は、大きなものを扱うのが下手になる。
ヴィオラは頁を繰った。最後の年に近づく。
一一一七年。十件。
一一一八年。
三月まで記載があって、四月から白い。
その三月の欄に、他とは違う書き込みがあった。
——辞退。
「これは」
「依頼を受けたが、断ったという記録です」ラウルの声が硬くなった。「認可研磨師が仕事を辞退した場合、証石院に届け出る義務があります。理由は書かなくてよい。ですが、依頼元は必ず書きます」
ヴィオラはその欄を見た。
依頼元。
書かれていたはずの、二文字か三文字。
破られていた。
紙が根元から引きちぎられ、綴じ糸に繊維が残っている。切り口は――白い。
毛羽が立ったまま、まだ寝ていない。
ヴィオラは息を止めた。
工房の記録室で見たのと、同じ切り口だった。
「デスタン様」
「はい」
「この綴りは、どちらに保管されておりましたか」
「この部屋です。奥の棚に」
「鍵は」
「私が持っています」
ラウルは頁を持ち上げ、光にかざした。かざしたまま、動かなくなった。
声が、低くなっていた。
「私の管理下で、台帳が毀損されています」
「デスタン様」
「三年間、私はこの棚を開けませんでした。開ける用がなかったからです。開けなかった三年のあいだに、誰かが入った」
彼は頁を戻し、両手を卓についた。手袋の指が、木の面に食い込んでいる。
「一一二五年一月十四日、私は鍵を受け取りました。以後、複製は作っていません。持ち出しの記録もありません」
「では」
「もう一つ鍵があるということです。師が持っていた鍵が、返却されていない」
「返却の記録は」
「ありません。急死でしたので、遺品の整理は親族が行いました」
「親族の方は」
「いません。師には子も妻もなく、屋敷はいまも空き家のはずです」
ラウルは口を閉じた。閉じてから、自分が何を言ったのかを確かめるように、もう一度頁を見た。
窓の高いところで、また風が鳴った。
宝物監府の外へ出ると、日が傾いていた。
石段を下りて、ヴィオラは門の脇の壁に手をついた。
父の工房は、経営が立ち行かなくなって畳んだ。そう聞かされたのが十歳のときだ。だから旦那様に引き取ってもらえたのは幸運なのだと、周りの大人はみな言った。
父はそれを否定しない。二年後に死ぬまで、一度も。
辞退。
一一一八年の三月に、父は仕事を断った。その三月後に工房が畳まれ、認可を返上している。
断ったから、潰されたのだ。
どうやって潰すのかは、想像がつく。砥ぎ町の顔役が一言、この工房には出すなと言えばいい。客は減る。減れば弟子が離れる。離れれば納期が守れない。守れなければ、また客が減る。
石を割る必要はない。誰も手を汚さずに、工房は畳まれる。
そして自分は、その二年後に同じ工房に入り、十年削り、四年前に――父が断った種類の仕事を、知らずに引き受けた。
守られていたのだと思っていた。
名がないのは、責を負わなくて済むということだと。旦那様がそう言い、そのとおりだと思っていた。
違う。
父は断って、名ごと潰された。娘は名を与えられないまま、断る機会も与えられなかった。
十六の秋、修復だと言われた。断るかどうかを考える材料が、一つも渡されていなかった。
渡されなかったのは、渡せば断ると思われていたからだ。
父の娘だから。
ヴィオラは壁から手を離した。掌に、石の粉が白くついている。宝物監府の壁は石灰岩だ。
払わずに、そのまま歩いた。手を洗えば落ちる。だが今日は、落としたくなかった。
依頼元の欄を破った者は、四年前ではなく、この十日のうちに動いている。工房の記録室と、王宮の台帳庫。両方に入れる者。
旦那様には、王宮の鍵はない。
背後で、ラウルの足音が追いついてきた。
「ルサージュ殿」
「はい」
「一一一八年に返上した者が、もう一人います」
ヴィオラは足を止めた。
「マチルド・オベール。同じ年の、同じ月です」
丘の上の小屋で、あの人は言った。
——歳さ。
六十一の春に、この国で唯一の女の認可研磨師は、父と同じ月に手を引いていた。




