↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
研磨師のわたくしに婚約破棄を告げるなら、せめて指輪を外してからになさいませ  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/30

第16話 台帳の古い棚に、父の見本片が残っておりました

 二日かかった。

 その二日、ヴィオラは丘の小屋で待った。待っているあいだ、飾り石を三つ仕上げた。手を動かしていないと、父の砥石ばかり見てしまう。

 返上者の古い綴りは、台帳庫の奥の棚にある。梯子を掛け替え、埃を払い、番号順に並んでいるはずのものが並んでいないのを直しながら、ラウルは一つずつ蓋を開けた。三十九名のうち、二十六名分が奥にあった。

 ヴィオラが呼ばれたのは、三日目の朝だった。

「あります」

 入るなり、ラウルはそう言った。挨拶も日付もなかった。

 卓の上に、小さな箱が一つ置かれている。

 布は、既に敷いてあった。

「アンリ・ルサージュ。登録一一〇二年。返上一一一八年」

 蓋が開いていた。

 窪みに、親指の爪ほどの石片が嵌まっている。面は四つ。

 二十六年前に、父がこれを削った。二十四のときだ。いまの自分より、四つ上でしかない。

 ヴィオラは道具箱から拡大鏡を出そうとして、手が止まった。

 出すまでもなかった。

 窓の光の下に置かれた石片は、離れていても分かる。稜線の手前で艶が一段落ちている。左肩から入って、時計回りに回してある。

 自分の手だ。

 いや。

 自分の手ではない。

 自分の手が、この手から来たのだ。

「拝見してもよろしいですか」

「どうぞ」

 拡大鏡を当てる。近づけて、また離す。

 三番から、五番へ。

 四番を飛ばしている。父も飛ばしていた。

 ヴィオラは石片を布の上に戻した。戻すとき、指が思ったところに行かなかった。二度目でようやく置けた。

「わたくしの癖は、父のものでした」

「そのようです」

「教わった覚えは、ございません」

 七つのときから父の工房にいた。教わったのは道具の並べ方と、布を敷くことと、石の匂いを嗅ぐことだけだ。角度を教わった記憶はない。

 だが、見ていた。

 父が石に向かう背中を、毎日見ていた。腕をどこまで伸ばすか。どこで力を抜くか。言葉より先に、体が写した。

「癖は、そうやって移ります」ラウルが言った。「私も、師の書き方で日付を書きます。年、月、日の間に点を打たない。打つ流儀のほうが多いのに、私は打ちません。師が打たなかったからです」

「お気づきになったのは、いつでしたか」

「師が死んでからです」

 彼は箱の縁を指で揃えた。揃っていた縁を、もう一度揃えた。


 ラウルは古い綴りを卓に広げた。

 アンリ・ルサージュの記録。二十四歳で登録。以後十六年分の受け渡し。家石が九十七件。飾り石は数に入らない。

「多うございますね」

「王都でも上から数えるほうです。十六年で九十七件は、多い」

 ヴィオラは父の手を思い出そうとした。

 覚えているのは、削っている背中と、夕食のときの手だ。爪が短く、指の腹が硬く、水に浸けると皮膚の下の傷が白く浮いた。パンをちぎるとき、その手が不器用に見えた。細かいものを扱う手は、大きなものを扱うのが下手になる。

 ヴィオラは頁を繰った。最後の年に近づく。

 一一一七年。十件。

 一一一八年。

 三月まで記載があって、四月から白い。

 その三月の欄に、他とは違う書き込みがあった。

 ——辞退。

「これは」

「依頼を受けたが、断ったという記録です」ラウルの声が硬くなった。「認可研磨師が仕事を辞退した場合、証石院に届け出る義務があります。理由は書かなくてよい。ですが、依頼元は必ず書きます」

 ヴィオラはその欄を見た。

 依頼元。

 書かれていたはずの、二文字か三文字。

 破られていた。

 紙が根元から引きちぎられ、綴じ糸に繊維が残っている。切り口は――白い。

 毛羽が立ったまま、まだ寝ていない。

 ヴィオラは息を止めた。

 工房の記録室で見たのと、同じ切り口だった。

「デスタン様」

「はい」

「この綴りは、どちらに保管されておりましたか」

「この部屋です。奥の棚に」

「鍵は」

「私が持っています」

 ラウルは頁を持ち上げ、光にかざした。かざしたまま、動かなくなった。

 声が、低くなっていた。

「私の管理下で、台帳が毀損されています」

「デスタン様」

「三年間、私はこの棚を開けませんでした。開ける用がなかったからです。開けなかった三年のあいだに、誰かが入った」

 彼は頁を戻し、両手を卓についた。手袋の指が、木の面に食い込んでいる。

「一一二五年一月十四日、私は鍵を受け取りました。以後、複製は作っていません。持ち出しの記録もありません」

「では」

「もう一つ鍵があるということです。師が持っていた鍵が、返却されていない」

「返却の記録は」

「ありません。急死でしたので、遺品の整理は親族が行いました」

「親族の方は」

「いません。師には子も妻もなく、屋敷はいまも空き家のはずです」

 ラウルは口を閉じた。閉じてから、自分が何を言ったのかを確かめるように、もう一度頁を見た。

 窓の高いところで、また風が鳴った。


 宝物監府の外へ出ると、日が傾いていた。

 石段を下りて、ヴィオラは門の脇の壁に手をついた。

 父の工房は、経営が立ち行かなくなって畳んだ。そう聞かされたのが十歳のときだ。だから旦那様に引き取ってもらえたのは幸運なのだと、周りの大人はみな言った。

 父はそれを否定しない。二年後に死ぬまで、一度も。

 辞退。

 一一一八年の三月に、父は仕事を断った。その三月後に工房が畳まれ、認可を返上している。

 断ったから、潰されたのだ。

 どうやって潰すのかは、想像がつく。砥ぎ町の顔役が一言、この工房には出すなと言えばいい。客は減る。減れば弟子が離れる。離れれば納期が守れない。守れなければ、また客が減る。

 石を割る必要はない。誰も手を汚さずに、工房は畳まれる。

 そして自分は、その二年後に同じ工房に入り、十年削り、四年前に――父が断った種類の仕事を、知らずに引き受けた。

 守られていたのだと思っていた。

 名がないのは、責を負わなくて済むということだと。旦那様がそう言い、そのとおりだと思っていた。

 違う。

 父は断って、名ごと潰された。娘は名を与えられないまま、断る機会も与えられなかった。

 十六の秋、修復だと言われた。断るかどうかを考える材料が、一つも渡されていなかった。

 渡されなかったのは、渡せば断ると思われていたからだ。

 父の娘だから。

 ヴィオラは壁から手を離した。掌に、石の粉が白くついている。宝物監府の壁は石灰岩だ。

 払わずに、そのまま歩いた。手を洗えば落ちる。だが今日は、落としたくなかった。

 依頼元の欄を破った者は、四年前ではなく、この十日のうちに動いている。工房の記録室と、王宮の台帳庫。両方に入れる者。

 旦那様には、王宮の鍵はない。

 背後で、ラウルの足音が追いついてきた。

「ルサージュ殿」

「はい」

「一一一八年に返上した者が、もう一人います」

 ヴィオラは足を止めた。

「マチルド・オベール。同じ年の、同じ月です」

 丘の上の小屋で、あの人は言った。

 ——歳さ。

 六十一の春に、この国で唯一の女の認可研磨師は、父と同じ月に手を引いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。